扉を開いて出たそこは、人の声に溢れていた。南一区から一つ入った路地で、その扉に鍵をかけながらフェルは首を傾げた。
「もう、昼はとっくに越えてますよね……?」
「の、はずだけど。二時くらいかな、まだ暗くなるには早い程度……」
 言いながら朱色を揺らしたクロウィルが低い空を見上げる。今日は、実際の空を映したかのように真っ白で、合間合間に重い雲の重なりの陰が揺らいでいた。空に比べれば低い場所にあるはずなのに、そんなようには全く見えない。ただ遠くが見通せない事だけが作り物だという事を示している。
「何か来てるのかもな」
「何か?」
「行商が珍しいの持って来たか、あるいは旅芸人でも来たかな……人凄いみたいだけど、見てみるか?」
 翠が向けられて問い掛けられるのには、細い道の先を見やって人の往来が垣間見えるそこを窺う。路地になど興味も向けないでどこかへと歩いていく様子が眼に入る。
 少し迷って、だが首を振った。波のような歓声が上がる中で、手は彼の外套の袖を握っていた。
「前、東側は見たから……」
「南側はうるさそうだしな。じゃあ、北側行くか」
 頷く。大通りに触れないままで、路地をゆっくりと歩いていく。



 地下に比べて、地下は住居の割合が高いのだという。
 それでもやはり東西南北で役割が分かれているのは変わらない。南は手頃な食料品や衣料、用品店が並んでいて、外縁に近付けば畑や牛舎も見えるらしいとは聞いているが、実際に見た事は無いからどうなっているかも分からない。白服の中でも武器に特に手を掛ける数人が入り浸っているらしい、都市にも珍しく刀剣類の販売を許可されているという工房は、商家や問屋の集まる東側。西と北は、あまり話には出て来ない。
 その片方、北にと言ったクロウィルは、ただゆっくりと細い路地を選んで歩いて、フェルは何も訊かないまま、雪の気配も無い冬の街の中をぐるぐると見渡している。左手で握った袖が先導してくれるのには逆らわずについて行くのは、これで二回目だ。前には東側の大通りを見渡して帰っただけだった。
 協会の敷地の外を歩くのは何回目かでも、路地にまで入り込むのは初めてだ。クウェリスの家に行った時も、多少は歩いても距離がある訳でもなかった。道は細く、大きな荷物を抱えて擦れ違うのも苦労するだろう。扉はぽつぽつと左右の壁に埋まっている。
「どこ歩いてるか、分かるか?」
「ん、と……西側の大通りはさっき越えました、よね、だから……西二区……?」
「そ。中通りにそって歩いてる、だな。後少しで北二区に入る」
 円形の街を十字に切った線が大通り。協会の円を広げた丸い輪郭が中通り。大通りは街の外まで続いて地上への出口となっていて、中通りは全部で三本。蒼の大樹に一番近い場所から、一区、二区、三区まであって、最後の中通りの外は街区として括られている。東西南北の区分けは、大通りと大通りの中心を走る細い真っ直ぐな道がそうらしい。西の大通りを北の方向に横断しても、中心から少し外れた二区では、北区に入るにもまだ距離がある。
「街の並びは、やっぱり王都の方が綺麗だな、それでも」
「王都の結界は特殊なので、整備しやすい、とは、聞いた事はあるんですけど」
「そうなんだ?」
「王都は調整都市なんです。都市自体を大きくする事が出来ないので、内部を色々に組み換えていく必要があって、だから結界自体が幾つかに区分けされてるんですね。蒼樹とかの都市だと、全体として見なきゃなので逆に煩雑になる事があるんですけど、王都はその結界の中で成立してれば良い、なので、小さく綺麗に作れるんです」
 実際にそういう所を見た訳ではないのだが、そうだとは知っている。神殿は都市運営には関わらないのが通例だが、話が耳に入る機会は多かった。知っているだけ、になってしまっている現状は、歯痒いとは思うけれど。
 クロウィルは、言うそれにはへえ、と嫌味の無い声を向けてくれるだけ。話すのを待ってくれるのは、いつでもそうだ、この空気は楽で良い。
「……構成は、やっぱり分からないんです」
「初めて触るんだろ? あんまり知られた魔法でもない、って聞いたけど」
「魔導師は不得意な分野ですね。たぶん、ですけど」
 エーフェも、あの書き付けの集積で全てであって、自分が扱える訳ではないのだという様子を隠しもしなかった。本当にそうなのかは措いても、他人に見せないのであれば同じ事だ。理解の及ばない部分を隠しても明かしても、解らないは変わらない。
「一度、技師の方と話してみたいのはあるんですけど……事情は、話せないですし」
「難しい、か。やっぱり」
 頷く。路地が交差する中を更に北へと向かいながら、白と茶と赤茶をした煉瓦の壁を見上げる。頭上に見えるのは白雲の空。
「……魔導師って、別に資格でも何でもない通称ですけど、暗黙の了解が幾つかあって」
 ゆっくりとした歩みは止まらないまま、路地を進んで行く。一度、警邏隊の彼女が簡単な地図を描いてくれていたから、自分達がどこをどう歩いているのかも把握し易くなっていた。それでも自分一人で歩き回れる気はしないから、手は離せないままなのだが。
「人に近いものを作っちゃいけないんです」
「……魔法で?」
「攻撃魔法の自我で、ですね。……作れるんですよ。感情があって思考して、自律して自立する魔法の自我と、そうやって発動したまま動き回る動き回る攻撃魔法、って。でも作れないんです。強すぎるから」
 記述は確立されている。され得ないのは、扱う魔導師達の素質だ。
「強すぎて制御が出来なくて、暴走して手がつけられなくなって『異種』になる、って事故が、多発して。止めようって事になったんです、ずっと昔に。法規制はされてないから研究自体は出来ても、どの教科書にもどの本にも必ず、危険すぎる、ってあって。だから、暗黙の了解って言うより、自制と自衛なんですけど」
「強い魔法からは、強い『異種』が生まれる?」
「それで、魔導師が死んで行く。……だから自衛、なんですけどね。一番『異種』に近いのは攻撃魔法ですから。他の魔法みたいに、準備する時間があって、環境や構築が常に一定して安定している訳でもない……」
 胸元に掌を押当てる。首に掛かった二つのうち、一つはあのとき店主から渡された魔法具だ。まだ皮膜が破けないで構築を開く事が出来ないでいるアミュレット。もうひとつは、自分自身の色を象った、守り石。命石。
「……構築魔法は、人とほとんど変わらないって」
「……ああ……」
 わからない。魔導師が触れる事の無い領域の魔法の事は。想像のついただろうクロウィルが声を零すのはすんなりと聞こえて、苦笑した。沸き立つ喧噪は既に遠い。
「……わからないの、いやだなって。知らない事なんて一杯ありますけど、困るの、今は私だけじゃない気がして」
「例えば?」
「……エーフェさん。他人を巻き込むのは最初だと思うんです。失敗すれば一からやり直しになる。……クウェリスさんとヴァルディア様も。知れたら、無傷じゃ通らない。重罪だから」
「未認可の魔法行使、か。紫旗にしても見過ごしは認められないけど」
「上司命令、ってなったら、動けなかったは通りますよ。紫銀も関わりましたから。……ちゃんと、制度としての有効性は認められてるんですよ、魔法院の統御統制機構」
「疑ってないって」
 悪習、あるいは魔導統国の驕りの象徴とも言われる、この大陸どころか海向こうの二つの陸地の全ての魔法を蒐集し集積し管理し支配する機関。一国の手の中に存在するには大きすぎる影響を持つそれも、だがありとあらゆる国に必要とされ、運営が可能であると判断されるに足る国が一つしかなかったが故の現状だ。人々の口がどう語ろうと、事実は変わらない。数字が全てを証明している、隠蔽されて来たものも全て詳らかにした上で、そうだとしか言えないのが現状だ。
 魔法院が『人に扱うに相応の程度』を定めて認可を発し、それ以外に厳罰を科すとし実行し続けているが為に、無秩序な魔法の乱造と流布が、それによる『異種』化の増大は抑制されている。季節や場合に依って、今のように原因不明な増殖が現象として認められたとしても、魔法院が無ければもっと酷い状況にもなっていたかも判らない。
「……でも、だから、知らない事ばかりです」
 魔法は知識だ。その読解は単なる理解に止まらない。魔法院の瑕疵はそこにある、魔法の規制は知識や思想の規制と等しかった。少なくとも、魔法使いにとってみればそうとしか言えないのもまた事実。
「……『魔導師』には、必要ないだろ?」
「……そう、なんですけどね」
 声にはだいぶ、息が混ざった。翠が眼を向けて来るのを見上げれば、わざわざ遠い左手が伸ばされて来て頭に触れる。
「無理してるように見える」
 紅に変えられた視線が落ちて行くのをそれ以上追求はしないで、クロウィルは青銀を柔く撫でてすぐに視線を路地の先へと向け直す。言葉を探してから、声にする。
「自分で選んだ仕事でくらい、楽していいと思うぞ」
「……逆じゃないです?」
「辛いのなんて長続きしないだろ?」
 言葉が無くなってしまったのだろう沈黙には何も言わないで、石と土と煉瓦の細い道を歩いて行く。もう北二区に入っている所為か、左右の建物も次第に素っ気ないものに変わって来ていた。倉庫や、あるいは研究施設。袖が引かれるような感触にそちらを見れば、軽く握るだけだった手が拳の形に変わっていた。
「……フィレンスは?」
「居ない。俺だけだ、全員置いて来たから」
 そういう意味だろうと先んじて言ってしまえば、地面を向いたままの顔が僅かに安堵を浮かべたように見えた。眼を向ける先を戻す間に、小さい声。
「……よく、わからないです」
 頷きも、挟み込むには軽すぎるように思えた。だから僅かな沈黙だけを置いて、そうしてからゆっくり、言葉を探す。
「……俺自身駆け足で来たから、説得力は無いとは思うけど。たぶん、近いうち、魔法だけじゃ保たなくなるぞ」
 左右の煉瓦の壁が少しずつ距離を開いて行く。そろそろかと思いながら、声だけは傍らのそれに向けた。
「息抜きが一つも無い事になるしな」
「……息抜き……」
「身体の疲れだけじゃなくて、な。気持ちの方抜かないと」
 紅が上向いて青を実がフェル。朱色の紐が背の方に流れて揺れているのにはやはり見慣れないと思いながら、だが不意に目に入った景色には、その瞬間に眼を取られた。
 巨大な石柱の何本も聳え立つ広い空間は、その地面が全て緑の草で覆われていた。背の高い塀の中には数頭の馬が遠目に見える。擬似的な空へと突き上げるような石柱はその半ばから空の模様に紛れて輪郭も捉えられなくなっていて、それだけが異様な光景として眼に映っていた。
「……牧場、です、か?」
「そう。厩舎は向こう。かなりの数だから、北区のほとんどと西区の少しくらいまでは、こうやって馬が走り回れるようになってる。北側は、地下は特別大きく広がってるんだ、これがあるから」
 これ、とは言いながら、彼の手が緑の一帯を示す。フェルは僅かに風さえ流れているのを感じて、ほんの小さく感嘆の息を漏らした。
「……地下って、もっと無機質だと思ってました」
「意外だよな。花とかは、一区とかだと育ててる人も居るけど、あんまり見ないし。でも外区はどこでもこんな感じだな。草は生えてるし、柱はあるにしても遠くまで見通せるし、肥料と水さえ持ってくれば作物も樹も育つ」
 ほら、と指し示された先には、言う通りに緑を繁らせた樹木の茶色い幹の色まで見える。人工的な林だろう、距離はあっても整然とした並びになっているのが見て取れた。その奥にも空間があるのだろうか、明るく見える。
 クロウィルの手が更に動いて指差す方向には素直に視線が従った。
「あっちの、真っ直ぐ北に伸びてる柵のところが大通り。そのまま外周に行って、壁に入って坂を上って地上に出る。塔の昇降機は見たんだっけ、あっちは生き物は載せられないから、行商人の馬車馬とかもここと追って厩舎に来るな。街の周り走る時も大概使う」
「……じゃあ、合同任務の時も、ここから?」
「に、なるかな。他の出入り口は住民優先だし」
 頭の上に疑問符を浮かべた青銀には小さく笑って、近くの、何の為かもわからない柵を示す。他に比べれば背の低いそこへと足を向けて、軽く腰掛けるようにして並んで、そうしながら横手を見やった。倉庫に使われているのだろう、建物、その奥の方向。
「南は、地下でも作れる作物の畑があるから、その為に色々運んだりとかの道になってる。壁の中で上に出る道が入り組んでて分岐しててどの出口に出られるのかはほとんどわからないな。いつも使ってる人は、たぶんわかってるんだろうけど」
「……そう、なんです?」
「そう、だから俺も中々使わないっていうか、使えないっていうか……何年か居るんだけどな、これでも」
「……西側は?」
「あっちは今は使えない。随分前に崩落して、でも蒼樹よりも西に重要拠点も都市もないから、復旧工事もされてないんだよな」
 そうなのか、と、見えもしない西の方向を見やる。放置されている、とも違うのだろう。必要も無い、と言った方が近そうな雰囲気だ。
 蒼樹より西に都市も街も無いのは本当の事だ。小さな村は点在していても、大きな居住区は存在しない。西隣の国とは長らく険悪な状況が続いているからだ、あまりに人が近付き過ぎれば何が起こるかわからない。国境は定められている、国境沿いを領地とする貴族達も多くの兵を配して警戒に当たらせていても、それでも国境周辺での不審死や拉致は多かった。
 仮に戦争が起こるとすればあちらとだろうとは、長くそう囁かれている。そうなれば最重要拠点は蒼樹になるだろう。だから、西には人が少ない。人が居なければ開拓も進まない。野の生物が多く、他の土地から流れて来た『異種』の吹き溜まりすら存在する。土地も悪く、国の中でも特に人が暮らすには向かない土地。北でさえ、北だけを考えれば十分以上に自活が可能だとされているのに、西の現状はそれを許しもしなかった。
 だからあまり、街の状態に関してとやかく言う住民も少ないらしい。使わないものは使えないままで良いという、それも一種の合理性なのかもしれないが。
「……都市は、南と東に集中してるんでしたっけ」
「だな。陸の交易路があっちだし、北は土地の所為で町は作れても都市が作れないから、っていうのは、聞いてるか」
「ます。南が一番賑やかだって、だから一回行ってみたいんですけどね」
「白樹の街面白いぞ、特に地下が。湖の中の街だから、水路なり滝なりがどこ行ってもある」
「……そうなんです? 行った事ある?」
「学校がそっちだったしな、休みの時とかに遠出するっていうと、大体街になったな。今度南側の任務貰ってみたらどうだ? 休みと繋げて、見てみたいって言えば大体許してくれると思うぞ、長官」
「……そう、です……?」
「俺それで紫樹の街見に行ったから」
 そんな事が、とフェルが紫を瞬かせた。流石に東は難しいみたいだけどな、と、彼がそう言うのが耳に入れば、自然眼が落ちて行く。横から視線が向くのがわかってもそのままでいれば、すぐに逸れて、翠は遠い風景を見やった。
「……ラシエナに、」
 クロウィルの声はそこで一旦、途切れる。何となく続く言葉がわかってしまって、手を握り締めた。
「手紙が来てた。……何日か留守にするって言ってたから、伝えとくな。もう出てるだろうから」
「……誰、です?」
「ルクトとライシェ。丁度緋樹に来てて、街の養護院に本を届けに行ってたって聞いたけど……緋樹自体が相当大変な状態だから、石も見つからないしで、ひとまずは略式で済ませるって言ってた。だから今回は帯は作らないって、オルヴィエス様が決めたってさ」
 そこまで淀みなく言い切ってから、大きく溜め息を吐き出した。マフラーに埋まるように俯いたままの青銀を、乱雑とわかり切った手つきで撫でる。
「あいつだって泣いてなかったんだからお前が泣くなよ」
「、だって、」
「わからない訳じゃないけど。……あいつまた髪切って帰って来るな、こんなじゃ」
「……あの人も馬鹿です」
「言ってやんなって」
「嫌です。言います。もう騎士とか全員馬鹿じゃないですか」
「……俺に関しては弁解の余地ないけどさ」
 俯いたままの、悪態なのか、それとも別の何かなのか、フェルは言い切ってから、クロウィルのそれを聞いているのかいないのか乱暴に自分の目許を拭う。そうしてから大きく息をついて、それで顔を上げる。
 若干赤くなった目許を擦り、大げさにもう一度息をつく。
「……苛々して来た」
「まあ気持ちはわかる」
「ラシエナにですよ」
「俺もだよ。あと『異種』な」
「それこそ前提にもなりませんよ」
「まあなぁ……」
 ――『殺された』とも思えないのは、もうどこかで諦めてしまっているからなのだろうか。
 緋樹の街は、人の出入りの激しい活発な街だ。そこに『異種』の波などが襲い掛かれば、その時街に居た人々は、立ち寄っただけの人であっても、巻き込まれれば簡単に死んでしまう。老衰で死ぬ事と、病気で死ぬ事と、『異種』に殺される事は、もはや同等だ。何の変わりもない。『死んでしまった』、ただそれだけ。たとえ協会があっても変わらない。『異種』の大群、天災ともされるそれを前にしては、歯痒いとも浮かばない。
「……まあ、そんなだから。帰って来た時に普通に迎えてやろうな」
「構い倒すのは許されますか」
「良いんじゃないか?」
 この紫銀の『構う』は少々特殊だが、それが気抜きになるのなら良いだろう。思いながらクロウィルが何となく翠を周囲へと巡らせて、それで不意にこちらへと駆け寄って来る一人が見えて思わず眼を瞬いた。柵から腰を上げて立ち上がればフェルの視線もそれを見て上向いて、そこに駆け寄って来たのは、見るからに工房の人間、という風体の男性だった。炭にか煤けた頬に、同じ黒っぽい色が染み付いてしまっている革のエプロンに、足元はきっちり締め上げたブーツにズボンの裾をきちんと入れてある。クロウィルは軽く首を傾けたようだった。
「なんだ、よく分かったなここだって」
「ああ、さっき見かけたんだよ、馬房の方手伝っててな。そっちは、知り合いか?」
 指し示されれば、フェルはほんの僅かに肩を跳ねさせて慌てて立ち上がる。声が出ないまま一礼だけするのにはクロウィルが苦笑して、そのまま彼へと視線を戻す。
「新しい同僚だよ、黒服。散歩っていうか気晴らしにな、地下の案内。そっちはどうしたよ?」
「ちいとな、馬房の方の手伝い。蹄鉄のあれこれで手が必要なんだけどこっち出払っててな。手伝ってくれねえか、そんなに時間は取らせないからよ」
「ああそういう面倒な……」
「面倒とか言わないでおいてくれよ、お前の馬に影響するかもしれねえぞ?」
「そうなったら全面戦争だな、馬になんかしたら殺す」  冷えきった声音だとわかってフェルはそっと眼を外した。騎士の馬に手を出す恐ろしさは工房の彼も解っているのか、どうどうと両手で示していた。クロウィルの溜息。
「……解った、サージェ、ちょっと待っててくれるか」
「あ、はい。えっと、したら、この辺りに居ますね」
「おう」
 街の人の前だからだろう、『登録名』のサーザジェイルで呼び掛けられたのには反応が僅かに遅れてしまったが、軽く応えたクロウィルが手を伸ばして青銀を撫でてから身を翻すのを見送る。馬房、と言っていたからそちらに行くのだろう、工房の彼が軽く会釈するのには会釈で返して、すぐに遠ざかって行く二人を見ながら、元のように柵に寄りかかった。
 目の前、背の高い柵の中は綺麗に整えられた芝生が大きく広がっている。そのまま、ゆっくりと周囲を見渡して。
 結局、膝の上で噛み合わせた両手に、そのまま視線を落としていった。呼吸がゆっくりだと、なぜかそんな事が意識について離れなくて、理由も分からず嫌な感触を吐き出したくて溜め息に変える。クロウィルが戻って来るまで、ここでじっとしていようと、思い直す。少し歩こうかと思っても、今のままでは自分の足が何処に行くのかもわからない。
 俯けば、顔の横に残っていた髪が落ちて来る。纏めて上げてしまえば良かったなと思った。髪を結えば、多少は気分も上向くかもしれない。自分では出来ないから、誰かにやってもらわないといけないのが難しいところではあるけれど。
 溜息がゆっくりと流れていく間に、不意に視界の端に何かが映り込んだ。綺麗に整えられた木の棒、杖の先だと気付いて、何の身構えも無くそこを見上げる。
 そうして鉢合わせた蒼い視線に、思わず身体を硬くした。




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