見上げた蒼い瞳は、こちらが肩を跳ねさせる間もなく硬直したのを見てか、それも関係なくなのか、眼が合った瞬間ににこりと笑った。
「こんにちは、お散歩かしら?」
 柔らかい、僅かに嗄れたような、それでも不快を全く感じさせない和やかな声。何も言えないままで居るうちに、その人がふふ、と笑う声が耳に入った。
「驚かせてしまったかしら。大丈夫? おばあちゃんそんなに怖い顔しちゃってたかしら」
「……へ、あっ、いえっ、あの、」
「びっくりはさせちゃったみたいね。ごめんなさいね、おばあちゃん知らない人に声かけてお話しするの好きだから、色んな人をびっくりさせてしまうのよ」
 皺の手が伸ばされて、上向いた頬を軽く撫でられる。警戒して然るべきなのに、何故か全くそんな事も無いで受け入れていた事に遅れて気付いて、慌てて僅かに身体を引く。
 老婆は、その様子にも笑ったようだった。上品に柔らかく声を漏らして、そうしてから隣、先程まではクロウィルが居たそこを指し示す。
「お隣にお邪魔して良いかしら? お散歩してたのだけれど、少し疲れちゃって、おしゃべりの相手を探していたの」
「え、……と……」
 誰なのだろう、と、それが一番に浮かんだ。だが見た目に何か出来るようにも、しようとしているようにも見えない。やるなら声を掛ける間にそうするだろうと思えば拒否する理由もなかった。頷けば、杖をついた彼女が柵に軽く寄りかかる。
 街の人、なのだろう。刺繍の丁寧に施された厚い温かそうな上着に、袖口に見える薄い袖にも刺繍が見える。長い上着の裾からは何重かに重ねられたスカートが見えて、頭の上には帽子が行儀よく収まっていた。じろじろと見てしまうのも申し訳ない気がして、なんとなくすぐに視線を外す。そのまま、少しの間の沈黙。
「今日は、あんまり良い天気じゃないわ。残念ね」
 唐突に、老婆が言う。落ちていた眼を上げれば、老婆の蒼い瞳は空を見上げているようだった。つられて見上げれば、分厚い雲。それを描き出した幻影。
「本物の空が雪で、雪が重い日だから、こっちの空の雲も重くなってしまうのね」
「……そう、なんです?」
「そうなのよ」
 蒼を向いて問い掛ければ肯定で返って来る。隣に座ったまま、彼女も空を見上げているから視線はぶつからないが。
 もう一度、曇り空を見る。天井を支える柱が途中で薄れて消えていくように見えるのも、全て魔法による効果だ。都市を覆う、都市としての形を整えて機能させる為の、特別な魔法。
「……魔法使い、ですか?」
「いいえー、おばあちゃんはおしゃべり好きのおばあちゃん。色んな人に、色んな事を教えてもらってるのよ。あなたこそ魔法使いでしょう」
「えっ」
 思わず肩を跳ねさせて彼女を振り仰いで、その瞬間にしまったと脳裏に浮かんだ。この反応は肯定以外の何物でもない。案の定こちらを見やった老婆はにっこりと笑って、ふふと声を漏らしながら片手が伸びて来る。
「嘘のつけない子」
 つい、と突かれたのは頬。初めて会う人なのに肩が跳ねもしなかったのに自分で驚いて、思わず視線が泳いだ。
「う、ぇ、……」
「この空のお話をしてね、魔法使いか、なんて訊くのは、魔法使いだけだもの。魔法だ、って意識してるからなのね、皆そう」
「……そう、なんです……?」
「そうなのよ? 他の人はね、あんまりな天気ねって言うと、そうねって言うか、雪が降らないだけ良いとか、色々言うのよ。この空が魔法で出来てる、なんて、普段は意識しないのね。魔法使いはね、何でこの空の魔法の詳しいところまで知ってるんだ、魔法使いなのか、って訊くのよ」
「え、と……」
「魔法使いって、隠すのって、大変なのね」
「大変、と、いうか……」
 そういうことを知っているのなら、尚更魔法使いではないかと思う。魔法使いの知人が多いだけにしては、魔法使いではないという感触が薄い。――いや、それだけだろうか。何か、違和感があるような、だがそうと断言するには希薄な、隔たりのような。
「それとも、悩み事かしら」
 見上げた蒼はもうこちらを向いては居なかった。すぐに落ちた視線の横で手を持ち上げて、突かれたばかりの頬を押さえる。
 溜め息を、吐き出した。
「……分かりやすいです……?」
「おばあちゃんはね、色々な人と話して、色々な人の色々な表情を見て来たから、それで分かるのよ。とってもね、得意なのよ。その人が何を考えているのか、おばあちゃんはすぐに解るの」
 ふふ、と、上品に、だがどこか悪戯げに笑う声。掠れたように和らいだそれは、聞き取り難さなど欠片も無く、語る事に慣れた教師のような練れた声音にも聴こえる。北の長官の、フィエリアルのそれにも近いかもしれない。それにしてはこの老婆の方が、どこか活発なような気もするのだが。
「さっきの、青の人と一緒の時だって、浮かない顔してたでしょう。遠くからしか見えなかったけれど」
 視線は動いていない。そのように感じた。老婆の声には含意は無いようにも聴こえた。
 僅かに沈黙に陥る。巻き起こす精霊も居ないのに風が吹いたような気がした。
「でもね、話したくなければ、それだって良いのよ」
 下草は丁寧に刈られているのか、高さは均一で音は無い。踏み固められた土から砂が舞い上がるような事は無く、だが動いても居ないのに髪が揺れたのが視界に入って、では風は嘘ではないのかとぼんやり思った。
「全部を言葉にする必要なんて無いわ。言葉にしなくたって、分かる人には分かってしまうものだし、言葉でも分からない人には分からないままってだけの事だもの」
 やはり柔らかいままの声で老婆は続ける。含意も何も無いように耳に入ってくるのは、事実としてそうなのか、あるいは自分が含意を見たくないだけなのか。
「自分の事を分かり切っている人の方が多いのだし、ね。言葉にする事で勝手に決まってしまう事だってあるのだもの。そんなの自分自身が可哀想じゃあない?」
 眼を上げる。よく話す人だと、嫌気にでも何でもなく、ただそう思った。横手、老婆が笑んでいるのを見上げる。背の丸まってもいない姿。
「……あの」
「なあに?」
「名前、教えてもらっても構いませんか?」
 そうと明確に意識した訳でもない、だがそれでも形になった問いは、唐突だろうかという迷いが浮かぶよりも先に声になってしまっていた。蒼い瞳がこちらを向いて、そうして嬉しそうに笑むのが見える。帽子の下の髪はもう白くなってしまっているのか、それでも微かに蒼さの片鱗が見えた。
「ヴァン、よ。皆、おばあちゃんの事は、ヴァン、って呼ぶわ」
「"Vahn"?」
 確認の意図ではなくただ純粋に疑念が浮いた。聞き覚えのある音、常の言葉、この国で言う共通語よりも少し違った音の重なり。
「……『蒼』?」
 首を傾げた。古代語、そうと分かりやすい名は珍しい。色そのものの名で呼ばれる人も、少ない。今人を指して『蒼』と呼ぶのであればそれはこの街の長官を示すだろう、それほどまでに色の名は限定されている。それも知っているだろう、老婆はふふ、と口元に手を当てた。
「どうかしらね、確かにおばあちゃんは『蒼』だけれどね」
 口元の指で瞳と髪を指し示しながらの言葉。そうしてから小首をかしげてみるのが見えて、それでああ、と思う。
「え、と……サーザジェイル、です」
 少し戸惑ってしまうのは慣れていないからだ。この名を口で名乗る事はほとんどなかったから、と、何となく良い訳のように思う。学会、魔法学の論文を載せる為に用意した名前だ、これで実際に活動した事は無い。エジャルエーレの名前を借りる事が出来たのは、どうやら義母である女王が手を回してくれたらしいが。
 老婆は僅かな間をどう思ったのか、僅かに疑問を浮かべて、それでも答えにはにっこりと笑んだ。
「サーザジェイル、ね。男の子ならジェイルだけど、女の子だからサージェね」
 何度目か手が近付いて来て頬をつつかれる。特別に暖かくも、冷たくもない素手の感触。愛称を言い当てて嬉しそうに笑うのには、人好きのする老婆という印象が確かになっていく。言葉はそのまま続いていった。
「サージェ。サージェは、今日はどうしてここに来たの? お昼休み?」
「ん、と、……そんな感じ、です。あと、まだこの街来てちゃんと歩いてみた事無くて、それで」
「じゃあ、あのお兄さんが案内人さんね」
 お兄さん、というそれには苦笑する。確かにそう形容するに相応しい風体ではあるのだが、改めて他人の口からそう聞くと少し面白かった。あるいは兄弟のように思われているのかもしれない。蒼い瞳は広い開けた空間のすぐ横、少し離れた位置にある厩舎を見やった。
「馬を預けているなら、きっと騎士の方ね。サージェがきっと魔法使いだから、協会のね?」
「……わかります?」
「ええ、もちろん。相方さん?」
 それにはフェルは素直に首を振った。たぶん、恐らくは、何度組み替えがあったとしても、彼と自分とでは相方同士になる事は出来ないだろう。それに不満がある訳ではないが、残念ではあった。実力で言えばクロウィルもフィレンスもほぼ同格と言われていて、それでいて真逆の方向性だ。彼は護る事に特化している、そう評価されている。その彼と任務の中で動いた時にはどうなるか、それが気にならないではないのだ。
「同僚、です、ね」
「仲良しさんね」
「ん、……はい」
 ゆるゆるとした会話だと思う。勝手に力が抜けて行くようで、頷いて返す時には頬が緩んでいた。何となくでも、そう見えているのであれば嬉しい。老婆、ヴァンも笑って、そうしてからそうね、と視線をどこかにか向けた。
「ここに来たのなら、奥のを見て、なのかもしれないわね?」
 疑問符を浮かべながらのそれには、フェルも首を傾げてみせる。晩の眼を織った先にあったのは、さらに北へとのびる道とその奥の林。空の明るさはまだ減じていなくとも、そろそろ暮れ始めた頃だろうとは分かった。
「……奥に、何かあるんですか?」
「そうね、あまり人は来ないけれどね。でも、そうね、暗くなる前なら良いかしらね」
 行ったヴァンが棚から腰を上げる。そんなに上背があるわけでもない、存在としての空気が強い訳でもない。だが眼が自然と追いかけてしまうその人は、右手に杖を突きながら左手を差し出してくれた。
「きっとね。見てみた方が、分かるわ。おばあちゃんが案内してあげるから、おでなさいな」
 少し、迷う。ここで待っていた方が戸思うのと、誘いかけてくれたそれを断るのかと思うのが同時で、それで手が取れない間に見透かしたかのような声。
「そんなに距離じゃあ無いから、大丈夫だと思うわ?」
「え、と、でも……」
「それにお兄さん遅いのだもの。ずっと待ってるだけでも疲れちゃうわ。じっとしていると寒いのだし」
 紅色を瞬いて、そうして思わず小さく笑ってしまう。老婆の表情は笑ったままなのに、声音は辟易しているように聞こえて、それには確かにと胸中に浮かぶ。厩舎の方を見やっても、当然何の音も聞こえなければ、何の様子も窺えなかった。
「どうかしら?」
 二度目の誘いかける声には、すぐに頷いた。右手で老婆の左手を握る。皺の分かる手。やはり暖かくも冷たくもない柔らかい手だった。
「行きます。……何があるんですか?」
「沢山のものがね。埋まっているわ」
 立ち上がる。ヴァンは杖をつきながらとは思えない程滑らかに身体の向きを変えて、ゆっくりと歩き始める。
「あんまり人が来るところでも、ないのだけれどね。大切で、忘れたらいけないところ。だからね、知っておいた方が良いと思うの」
「……大事な場所?」
「ええ、とてもね」
 ヴァンのゆっくりとした、だが緩慢とも言い切れない歩についていきながらの問いには、短い肯定が返される。何なのかの想像もつかないままで、フェルはただ林を見やった。常緑樹の並びは冬の緑を繁茂させながらも、だが空の光を遮るには力不足らしかった。暗いという印象は欠片も無い。
「……でも、端の方、なんですね。人も居ない……」
「そうねぇ。大事は大事でも、いつもってわけには行かないからかしらね。大事にしたい気持ちは、たぶん、みんな同じなのだけれどね」
 ずっと居るのは良くないからと、そう続けるヴァンの言葉には疑念が浮かぶ。街の中の大事の場所と言えば、地下であればあの巨大な蒼の樹だろう。巨大な幹に枝に葉に、根元に人が集まっている風はなくとも、いつも見上げているように思えた。あれは何の樹なのだろうかと思い浮かべている間にも、林はゆっくりと近付いて来ている。
「これもね、本当は目隠しなの」
 その林を見上げている間に、歩きながらの老婆の声にそこで初めて変化が現れた、そのように聞こえた。
 林を見上げて、彼女は嘆息した様子だった。
「あまり、ずっと見ていたいものでもないのだけれどね。皆にとって」
 フェルは紅を瞬いた。余計、分からなくなる。大事な場所だと行った言葉に違いも偽りも無いのだろうに、それでも人が少ない事も肯定して、遠ざけておきたいのだという事を隠しもしない。何となく彼女を見上げていた眼を林へと向け直して、そこで初めて、フェルは僅かに歩調を緩めた。
 林の奥は土色をしていた。馬が走り回るのだろう、あの広い空間にあったような緑の芝生は無い。剥き出しの地面の色。整列された幹の隙間に見えるそれは、格子で遮られているよりも視界の邪魔はしなかった。見えたのは、地面に突き立った木片の群れ。
「ずっとここに居ると、生きているその人も『柱』に連れて行かれてしまうから、だから、あんまり人も居ないのよ」
 いくつかの幹を横に通り過ぎて、老婆が足を止めるよりも先に足を止めていた。  広場よりも広く、樹は大きな空間を囲んでいた。道もないそこはただ簡素な鉄の柵で更に範囲を定めるように区切られていて、一カ所だけが入り口の意味なのか口が開いている。
 囲いの中にあるのは全て木の柱だった。腰程までもない小さな細いものばかりが土に立てられて、そうしてその柱に鮮やかな刺繍が施された細帯が括られ縛り付けられていた。
「……これ……」
 見た覚えがあると、一番に浮かんだのはそれだった。いつか、ではない。ひどく最近に、この風景を見ている。鋼色の――それだけではない。
「……サージェは、帯を作った事はあるかしらね」
 老婆の声にも紅は動かなかった。握った手を皺の指がゆっくり、あやすように撫ぜる。
「みんな生まれた時に、神殿で模様を作ってもらって、死んでしまった時には家族か、特にの人に生成りで織って貰って、知り合いとか、色んな人に模様を刺繍してもらって、それをふたつ。一つは一緒に燃やしてしまって、一つはこうして、印に使うのね。片方を燃やしてしまうのは、魂がちゃんと『柱』に還れるように。命石を埋めてしまって、それより後に誰も触らないのは、魂が迷って戻って来てしまわないように」
 紅は俯いていた。繋いだ手を離した掌がその青銀を撫でる。老婆の声音は戻っていた、重さも含意も無い色に。
「貴女は、作った事があるのね。でも、ここを見た事はなかったのね」
 青銀を僅かに揺らしたのを見てヴァンがゆったりと笑みを浮かべる。掌の位置をずらして、頬に当てた。
「泣いたら駄目よ。ここには誰も居ないのだからね。ここにあるのは、ただの石よ、誰かが持っていただけの。命石を割って土に埋めただけ、掘り返してしまわないように印を立てているだけ。灰も骨も魂も無い。きっと大切だった人も居ないわ。だから、疲れてしまうだけだから、やめなさいね」
 老婆の指が目許を摩るのに従って紅を伏せた。窺うような仕草が気配で伝わってくるのには首を振った。上着の上から胸元を押さえる。いつも身に付けて離さない石、宝石はこれ以外には左耳の青い雫、右耳の赤い丸石以外には無い。自分の色を持つ石は幼少に贈られて、死ぬまでずっと抱え続けるもの。割れないように、失くしてしまわないように、皆が首に掛けて命石とそれを呼ぶ。呼ぶそれは、呼び名の通り命と等しく扱われる。触れる事が出来るのは特に近しい者だけで。
「石も無い、家族も分からない、誰にも送られなかった人は、白い布を括るのよ。知り合いか誰かが来てくれたら、そこに模様を刺繍するの。いつまでも白いままだと、白が伝染してしまうから、そのうち違った模様でも、仮の帯として作ってしまうのね。だから帯を織るのも、刺繍するのも大事な役目なの」
 沈黙が落ちた。顔を上げられないまま、フェルは小さく、細く喉に空気を通す。言葉にするまでには更に間があって、ようやく独語のような声が落ちた。
「……刺繍した事は無いんです。出来なくて」
「サージェは、したかった?」
 顔を上げる。開いた視界にはとりどりの帯が垂れていた。風がないから揺れもしない、樹々の葉が擦れる音もしない。妙な心地だった、先よりも少し空の光が減じている事だけが時間が流れた事を示しているだけで。
 少し、何も考えない間があった。フェルが紅を向けて見上げた蒼い瞳は静かに待っているようで、手を伸ばしてその手を握れば、元のように両方の手が繋がった。
「……戻ります」
「そうね。お兄さんが待っているかもしれないものね」
 二度目、同じように苦笑が浮かんだ。背を向けて、並んで歩き始める。
「協会のご飯は、きっと美味しいわね。あったかくって。ね」
「はい。……今日は、ちょっと豪華だって」
「なら、良かったわね。沢山食べて、明日に備えないとね」
「はい」
 頷いて、林の樹々を横に幾つも通り抜けて厩舎の見える場所へと逆順に辿っていく。何となく、緑を乗り越えてすぐに力が抜けたような心地を覚えながら自然と落ちていた眼を上げれば、思っても居なかった色が眼に入って思わず眼を瞬いた。




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