扉を開いてすぐの場所に居た彼に向けられた問いは、行くか、という確認の為だけの一言で、フェルはすぐにはい、と答えを返した。一昨日と、少し変わった短いやり取り。
 エーフェは大きな空間の中央を見やる。今は精霊に見張らせているが、本来ならそれも必要ないくらいに構成魔法の人は安定していた。それだけを確かめて、そうして彼は手を伸ばしてフェルの頬を軽くつついた。
「気を付けろよ」
「はい。……大丈夫、だと思います。ちゃんと、考えてきましたから」
「……おう」
 エーフェはフィレンスの不在には触れなかった。頷く声に少し遅れて、彼の手に肩を押されて足を踏み出す。エーフェは方法を訊かなかった、だからそういう事なのだろうと一人で頷いて、そうしてから陣を踏みその中央へと進んで行く。
 構成魔法は、穏やかに在るままだった。何の揺れも噛み違えもない綺麗な形を空気に晒している。待っているかのようなそこに膝を突くよりも先に、自分の腰元、上着の下を探る。幅の広い組紐で出来た帯の結び目を解いて、そこに吊り下げられていた短剣を握って持ち上げた。
 構成魔法はすでに完成している。今から向かうのはその魔法の中にある世界で、だからもしそうなったとしても破れて壊れてしまう事はないはずだ、とは、言い切れなかった。それでも、思いついたものを並べればその中での最善手。
 柄にかかった輪の結びを解いて、鞘から刀身を引き抜く。帯と鞘は少し離れた場所に置いて、柄を逆手に握って胸元に抱き込み、構成魔法の基底、門のすぐ側に腰を下ろした。
 そうしてそのまま、上体を横向きに、硬い床の上に身体を転がす。短剣を抱えたまま左腕を伸ばして、構築陣の中心、門を形として描き出したそこに触れた。
 ――お前も一度話してみると良い。気性の真っ直ぐな善い子だからな、名前も皆で決めた方が喜ぶだろう。
「……あまり、会った事のない人は、信用しない方なんですけど」
 視界まで横倒しのまま苦笑する。そもそも信用すること自体が遠く感じる事すらあるが。
「魔法の陣を見たから。信じます」
 言葉とともに目を伏せる。中へと、念じて想う事はしない。ただ呼吸を繰り返しながら自分自身の身体を巡る魔力を感じとるだけに意識を向ける。
 長い無音があった。それでも何もこぼさずにただ呼吸だけを繰り返していれば、唐突に、陣が雫を垂らした水面のように揺れるのが伝わってきた。
 波は次第に大きくなっていく。魔力の流れとも違うそれをただ感じているだけで居れば、大きくたわんだ構築がひときわ大きく沈み込んで、その中に呑まれていった。



 元々、あまり大きな街でもなかったのだ。
 名前でこそ『街』と表記したとしても、地下だけの居住区は既に時流にも遅れていたし、何より人々の心も街から離れていくばかりだった。きっと三十年もすれば住む人も居なくなって、『異種』の棲処になるだろうと、多くの人がそう思っていた。
 彼は、それを良しとしなかったのだ。父祖が文字通り命をかけて、自然と『異種』とを相手にしながらも勝ち取った土地を、ただ太陽の光から少し遠いというだけで捨てられないと、その家系でもないのに構成魔法を扱う技師に頼み込んで半ば無理矢理師事して習い、倣い、長い時間をかけて構成魔法を知り、編むまでに至った。
 生まれ故郷の地下都市の戻った彼は、まず人を呼び戻す為に、若い人間を呼び込む為に、塾を開いた。魔法だけではない、ありとあらゆる生活の知識、陽の無い場所での作物の育て方も教えた。知識だけを持ち逃げされても、諦めずに教え続けて、あるいは考え続けた。風や水が流れるようにと土地を作り変え、緑が育つように人も育て続けた。
 次第に変わり者の魔法使いの噂や、緑のある地下の街の噂に、人が集まるようになった。出て行った人間達が戻ってくるようになり、望んで移住する人も現れた。
 そうして彼が五人目の技師を育て終わった頃には、彼はもうすっかり歳を重ねた老人になっていた。一つの構成魔法を支えるのには最低五人の技師が必要だったからと、彼も、彼の弟子達も理解していたし、了承していた。彼はただのヒトで、時に恵まれた種族の生まれにはなかったから、最初からそうしようと考えての事だった。
 そうして老人は弟子に塾と人々を任せて、一人街を覆う守護の魔法を編み始めた。その魔法が完成する頃には、自分はもう技師どころか、人間として立って歩けもしないだろうと理解していたからこそ、弟子達の申し出も全て笑ってごまかして、断って、たった一人で作り続けた。
 そうして、その街だけの構成魔法が生み出されるまでに、五年。
「――あと少しだったんだ」
 眼を向ければ、若い男が立っていた。
 それを風景として感じ取って、それでようやく自分が呼吸を忘れている事に気がついた。フェルが右手に握った短剣の、その柄の感触を確かめるように強く握りしめて胸元に押し当てる。緩やかに、深呼吸する。
「……あと、名前だけだったんだ」
 男が立っているのは、小さな書斎だった。フェルが周りを見渡せば、作業机に木の椅子、消えかけた蝋燭がひとつきり。あの老人を一番に見た、あの最初の部屋。
「技師の、」
 声は自然と、その男へと向いていた。廊下を越えた先、別の部屋から微かな話し声が聞こえてきていた。立ち尽くした青年が『何』なのかも解っていた。
「……技師のあの人とは、話せましたか?」
 男の姿をしたそれは応えなかった。ただ蒼い瞳が一度、書斎の扉の外を向いて、すぐに元通りに俯いてしまう。落とされた視線の先にあったのは作業机、その天板の上に綺麗に整えられた羊皮紙の束。
 躊躇うのは振り切って、手を伸ばす。触れるかと思った指先が、だが何かに触れる感触もなく突き抜けてしまうのを見て思わず手を引けば、すぐに横から伸ばされた手がフェルの手首を軽く握って、見えるだけの羊皮紙から指先を丁寧に引き剥がした。
「ただの、記憶だ。あの人の。あの人が最後に見たものの」
 言う、その声音は落ち着いているようにも、不安定に揺れているようにも聞こえた。フェルが見上げても、視線は蒼とは交差しない。
「名前も、わからないままだ」
 急に廊下の先が騒がしくなって思わず扉に振り向けば、即座に握られたままの手を引かれる。眼を白黒させているうちに書斎の隅に押しやられて、何かと見上げるよりも早く、男の姿をしたそれに覆いかぶさるようにして視界を奪われた。
「見るな」
 呼びかけるよりも扉が荒々しく開かれる音と、軽い忙しない足音が転がり込んでくるのと、まるで抱き締めるかのように腕を回して頭も動かせないように押さえつけながらの声の方が早かった。猫の鳴き声、せかすようなそれにかぶさって何かをひっくり返すような音、紙が床に散らばる音。硬い靴の音。
『もうこんなじじいの家に、お前達が欲しがるものなんて残っては』
 老人の声。猫の鳴き声に剣の鳴る音。水音、床に落ちる音。
『どうして、こんな――』
 老人の声は悲痛に満ちて、そして最後まで形にならなかったものが、塞がれていない耳に滑り込んできた。
 溢れて床に落ちる音よりも、床に突き転がされて突き立てられる音の方が痛かった。思わず肩に力の入ったフェルの、その背に回されたそれの腕に力が込められて、拳が強く握りしめられるのが伝わって来る、そのことに紫が見開かれて。
「見るな……」
 絞り出すような声に重なって、何かが大きく膨れ上がっていくのが見ずとも解った。膨れていくそれに吸い込まれるように、周囲のありとあらゆる物質が形を失って溶けていく様が、手に取るようにわかってしまって。
 何も見えない真黒の闇の中で響き渡る咆哮を聴いた最後に、不意に全てが途切れて、それに遅れるようにして大きく息を吐き出す音。同時に両腕での拘束が解かれる。
 押し殺されていた視界には、元通りの書斎があった。まさかと見上げれば、男の姿をしたそれは、まるで人間のように表情を歪めていた。視線を外すように振り返った男の背の向こう側で物音がした。鋼色の髪を揺らして顔を背けながら、低すぎない声が響く。
「……二千人以上居た」
 ではあの時、構築を解く度に現れては広がった一面に広がった景色のそれでも、まだ一部に過ぎなかったのか。蒼の向けられた先に眼をやれば、元通りに巻き戻された書斎の作業机の前には老人が椅子に腰を下ろしていて、何かを書いているようだった。
「あいつらが殺したのは、この家の猫と犬と、あの人だけで」
「私は、壊しにきたわけじゃありませんよ」
 続くのだろう言葉を遮るように言えば、蒼はそこでようやく紫を見やった。背は高い、きっと作り手の影響なのだろう魔法使いのような出で立ちの中で、龍は表情を苦しげに歪めた。技師が手がけた、これが本来の姿。『異種』としての異形ではなく。
「……俺は、街を一つ潰した。蒼の街の彼女のようにはいかなかった、それを抱えれば、弾劾される」
「されません。魔法として完成させることができなかった、完成させなかったのは、人間の負う責です。貴方の罪じゃない」
「でも、」
「貴方は、技師の書いた通りのことをしようとしただけでしょう。街を覆って、守ろうとして」
「それでも何もできなかった。気づいたら全部飲み込んで、人も、建物も、街も、」
 言うそれの言葉が、語調が強く荒くなっていく。怒り、ただそれ以上に深い感情。
 老人が椅子を引く音で、急にそれが途絶えた。弾かれたように振り返る。老人は猫を抱えて撫でながら扉の外へと姿を消す。
 右手に短剣を持ったまま、フェルは左手を伸ばした。追いもしないまま俯いた頬に触れれば、居心地の悪そうに顔は向けても、視線は下へと外されたまま。
「……ずっと、見てるんですか」
 記憶だと、男の姿をしたそれは魔導師に向かって言った。だが魔法には、魔法の自我には、それが留まるに相応しい世界が用意されているはずだ。居場所を失った自我が魔法使いの声に応えることはできない。呼ぶ声が響く場所がなければ、聞こえるはずの声も失われてしまうから。
 蒼は、悼むように伏せられた。
「……人と居れば楽しい。協会、に、来て、力も氣も落ち着いて安定していたから、しばらくは見なくても済んだ。だが現界から離れれば、無視できない。『妖精』になるならもっと人と近くなる、そう思うと怖い……」
 殺したくない、と、声にならずともそうなのだとは容易に想像がついた。氣の活性を眠ることで押さえつけていたのも、きっと人間を害してしまわないようにする為だったのだろうと、今でなら分かる。
 フェルは一度瞑目した。視界を開き直して蒼を見上げて、それから手を離した。
「コウ」
 呼びかければ、男の姿をしたそれは眼を上げてくれる。それにわずかに安堵しながら、フェルは二歩、後ろへと足を引いた。同時に左手を胸の前まで持ち上げて、ずっと逆手に握っていた短剣を順手に戻して、右手で強く握って、上向けたそこに宛てがった。
「見ていてくれますか」
「な、にを、」
 気付いた蒼が見開かれる。伸びてくる手に止められてしまう前に、左の手首に力を込めて押し付けた刃を思いっきり真横に滑らせた。
 食い込んで裂きながら滑る感触、瞬間走り抜けた痛みとともに熱が膨れ上がって薄暗い中に溢れようとしているのが見えたと、そう思った次の瞬間には一対の手が傷口を強く握るのが見えた。
「なん、――ッ、ここで怪我をすれば……!!」
「放っておいたら現実でも死にますねぇ」
 痛い、とは、思う。思いながらもわざとのんびりと声音を作る。今は意識だけで構成魔法の中に没入している状態だから、痛覚も多少は鈍くなっているはずだ。現実に置いてきた肉体にも同じ傷が生まれて血が流れ出しているのだろうとは思いながら、青を見上げる。
 自分のローブをたぐって押し当て、ここでそうしても意味がないとはわかりきっているだろうに、男は傷を掌で握り締めて血の流れを押さえつけようとしている。表情に浮かんでいるのは焦燥、焦りのそれだけで、それ以外にあるとすれば恐怖だけだろうか。
「……人を殺した魔法が殺されて当然なら」
 何かを言いかけては何も言えないで絶句したままの青を見上げて、フェルは口を開く。時間制限を生んでしまったのは自分だが、男の姿をしたそれに比べて魔導師には焦りも何も浮いてはいなかった。元よりこうするつもりだったのだ、『ヴァン』の言葉を聞いてから。
「人を殺したことのある人間も、死んで然るべきですね」
「なん、――そんな事言ってない!!」
 大喝はともすれば悲鳴のように響いた。手首を抑えた両手に腕が引かれて身体が揺れる。だが実在しない手も布も血を抑える事は出来ないで、暗い影の下でも指の間から溢れているのが見えた。思い切り良くやりすぎたかなとぼんやり思う、だが口にしたのはそんな事ではなかった。ここに再びと思ったのは、破壊する為でも、破壊される為でもない。会話を望んで、こうなっただけの事だった。
「そういう事なんです、私にとっては。私は、私が直接殺した事はありませんけど、私がただ居るだけでも数百と死んでいくようなところで、ずっと居座って来ましたから」
「フェルは人だ、壊れた魔法とじゃ」
「私は魔導師ですから」
 言い切る。ゆっくりと流れる血は、左の腕を伝って肘まで濡れているのが分かる。少しずつ、呼吸が浅くなっているのを、深呼吸でやり過ごした。
「攻撃魔法の自我とも、話してきました。人間と完全に同じでなくとも、考える事が出来て感情を表す事もできるものを前にして、会話して、話し合って、だから魔法だから壊して良いとは言えないんです」
「もう壊れてる!」
「壊れてませんよ」
 息を、吸い込む。『竜』が何かを言うより先にその続きを吐き出していく。
「この街の構成に言われたんです、構成は誰かを、何かを攻撃するために作られたものではない、って。だから、コウが、私とか、誰かが怪我してるところを見て、慌てたり、怒ったりしなかったら諦めようと思ってたんですよ」
 鉢合わせた蒼が見開かれているのには苦笑を返す。隠すような事ではなくなった、それに、『魔法』に対して嘘をつけるような勇気は無かったから。
「……攻撃魔法の自我達って、使役者を必ず一度は殺そうとするんですよね。攻性の性格付けで、そうなるものだから、ってずっと思ってたんですけど」
 ただ立って話しているだけなのに息が切れる。意図せずに大きい息の固まりが吐き出されていった。
「それと同じなら、私達がいつも相手にしてる『異種』と同じです。格好の機会ですから、壊します。でも逆だから壊しません」
「っ、『妖精』になったとしても何かあればまた暴走しかねない、それでなくとも人を殺してしまうのは嫌だ、俺は俺をどう止めれば良いのかわからないんだ、だから」
「だから、名前を伝えに来たんです。私が呼べば、止まれるように」
 『竜』の蒼い瞳が、間をおかずにまるで崩れたように複雑な表情に塗り替えられていく。フェルは足元から揺れるような感覚を抑えきれずに、肩で息をしながら見上げていた顔を俯けた。
「……あのですね、私コウにお願いしたいことがあるんですよ、だから余計諦めたくないんですよ。私諦め悪い方なんですよ」
 文句のような言葉選びになっても、何故か自然と口元が笑っていて、その事には言っている間にようやく自分で気付いた。左腕が重い。
「私、まだ全然弱いから、自分の事でいっぱいなのに、他の人の事に集中して結局、駄目にしたりして」
「フェル、一度戻れ、このままじゃ」
「だからコウに手伝って欲しいんです、私ももう誰も殺したくないから」
 肩を掴もうとしていたのか、向けられようとしていた竜の片手が宙で止まった。赤く塗られている様子が俯けた視界の端に見えて、ああ汚してしまったと今更に思う。苦笑が出てくるのは、誤魔化しだろうか。
「私の大事な人達、皆、いつ死んでもおかしくないような所にばっかり、進んで行って、他人の事考えずに死んで帰ってくるようなの、ばっかりだから」
 ただ立っているだけなのに地面が揺れたような気がして勝手に上体が傾いだ。たたらを踏んで転倒だけはなんとか回避して、だがそれだけでは間に合わずに短剣を取り落とした右手で『竜』のローブを握っていた。
 『竜』は混乱しているのか、それとも見極めようとしているのか、何も言わない。だから勝手に支えにして、それでも声だけは続けた。
「結局は私の為、なんですけど。街を守る魔法に、頼むのにも、規模が小さすぎる気もします、けど、……私の所為で、死ぬかもしれない人を、守って欲しくて、だから」
 ずる、と、何かが大きくずれ落ちる感覚があった。ああこれはまずいと思いながら見上げれば、焦燥の表情でいっぱいの青が手を伸ばしている所だった。溜息がこぼれる。そういえばこの蒼は、空の蒼だったのかと、小さく思った。
「――――――――」
 溜息の最後が小さく声になったのは良かったと、そう呑気に思いながら、勝手に降りてきていた瞼に視界が覆われる。




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