『追い出して良かったわけ?』
 イーライの声に、エーフェはようやく手元から眼を上げてそちらを見やった。それまで何を言っても生返事だったのにと問いかけた側が瞠目している間に、エーフェが溜め息を吐き出す音。
「追い出さねえとだろ」
『……何で。少なくともヴァルディアの弟子っていうか、弟子までいかなくても、あいつが教え親なら構築全般完璧だろー楽勝ーっつってたのエーフェだろ? 二度同じ失敗はしないってのはお墨付きじゃんか』
「そういうとこお前はまだ魔法だよなあ考え方が」
『なんだそれ』
 わっかんねえ、と悪態を吐くようにぶつぶつとこぼすイーライを置いてエーフェは再び手元に眼を落とした。何をしているわけでもない、ただ、特別に箱に納められた簪を前にして、その軸に指先で触れたままでずっと過ごしているだけだった。イーライ以外の『妖精』達は今は眠っていて、周囲には誰も何もいない。
 イーライがエーフェの肩に寝そべりながら倣うようにそれを覗き込む。白銀に象毛の花弁、金の萼に紫水晶の露がゆらゆらと垂れている。模した形は、この世界に存在するどんなものとも違う、満開の一輪。
『……自分が考える時間欲しいだけなんじゃねえの』
 言えば、無音が落ちる。イーライは大きく息を吐き出して見せた。嘘をつかないのは良いとしても、ただ黙りこくってやり過ごそうとするのはどんな魔法使いも変わらない。それでも時間をかけて待っていれば、今度は人間の溜め息の音。
「……お前ら何でそういうのわかるわけ?」
『エーフェがエーフェの中に俺らの寝床作ってくれてるからだろ?』
「俺ん中っつーか俺ん中の宝珠の中な」
『同じだろ、宝珠だっていっつもエーフェん中に同化してるんだし』
 宝珠とはそういうものだ。本来は眼に見える形では存在しない、何かを依り代にしてようやく視認できる程度に物質としての形を表すだけで、多くの場合は魔法使いの魔力が存在の軸となる。指輪や腕輪といった装飾品の形で宝珠を持ち歩かない、長杖やそれに類する形で宝珠を扱う魔法使いの多くが、たいていは心臓の肉と筋に宝珠そのものを溶け込ませて同化している。
『どっちにしたって中は中だし、それにエーフェが姉さん延々見てる時は悩んでるか金策尽きたか録でもない事考えてるかの三つだろ』
「……後ろ二つは違わねえ?」
『でも否定はしねえのな』
 にししとイーライは笑う。こういうところは魔法使いは面白い、嘘は言わないのに何を言いたいのかはわかってしまう。言葉の選びがうまいのか、あるいは経験が多いからなのか、おそらくその両方だろうが。
 エーフェはもう一度息をついた。胡座の上に左腕の頬杖をついて、右手の指先は簪から動かないまま。
 イーライに『姉さん』と呼ばれたそれは、天鵞絨の上に行儀良く収まったままだった。
「……俺だって悩むことはあるんだぜ?」
『知ってるっての、だから三つのうちの頭に持ってきたろ』
「そういうのは優しさとは言わないかんなイーライ。……俺だって悩んでさあ、まだ決着ついてない事とかあるわけよ」
 今度はイーライも茶化しはしなかった。ただ寝そべったままの両脚をぱたぱたと交互に上下させる。一定の間を置いて、一定の間隔で、かすかな揺れを肩から伝えるように。
 二十回ほど交互の上下を数えたところで、浅い息遣いが聞こえた。
「……植え付ける事になるとか、考えてなかったんだよ」
『……悩み?』
「そ。……俺は、お前らが魔法に戻りたいって思ったとしても、もうその可能性潰してるんだよな、ってな」
 イーライは両脚の動きを止めた。元のように、なんの気構えもなく彼の肩の上にだらんと転がる。
「『異種』から魔法に戻す事は出来るかもしれない、まだ方法が見つかってないだけで。でも『妖精』から魔法にする方法は無い。その上『妖精』化の魔法が完成したとして、それが万人に扱えるものになったとして、今度はそれが目当てで『異種』を作ろうとする輩は絶対に出てくる、しかも大量に。完全に規制する方法なんて無いままで」
『……俺らはさ、納得してなってるだろ、エーフェは全部説明してくれた上で、俺らはそれで良いって』
「でも俺はお前らもちゃんと魔法に戻してやりたかったんだよ」
 自我が頷かなければ成らないとわかりきっている事でも、それでも言ったエーフェにはイーライも口を噤んだ。今いる『妖精』は百と七。だが、『妖精』化を試みた数は、それを遥かに超える。
 捕らえて外殻を解除して構築を正す事はできる。だがその後に顔を合わせた自我が、『妖精』に姿を変える事を酷く拒む、その事の方がずっと多い。己は『異種』でも『妖精』でもない、魔法の一つなのだと信じる自我を説得しきることが出来ない事の方がずっと多い。そうして魔法に戻れない事に、どこからか得たのか絶望を表して、自ずから門を壊して無に還る、それを選ぶものの方が遥かに多かった。それが人の自殺となんら変わらないという事も、工学師は気付いている。
 『妖精』の数は横這いから先へと進む事は無い。一度『妖精』になったものでも、その後に消滅を望むものもある。だから百と七、それだけしか、この世に『妖精』は無い。
「……そういうのさ、ほかのやつに考えさせたりするつもりとか、無かったんだよ」
『……浅慮だな』
「本当になぁ……でも、一縷あるとは思ったんだよ。こんなに良い環境なんてもう二度と揃わない。やんのが俺じゃないってのだけが誤算だったな……」
『友達少ねえからそういう読み間違いすんだぜ』
「社交界とか魔法使い同士の根回しとかもーーーーほんっと勘弁。無理。俺があちこち放浪してんのぼっち好きだからだぜ?」
『すげえ活動的な引き篭もりだよな。精神的引き篭もり。なのになんで俺ら抱えてんだよ』
「ぼっち好きと寂しがり屋って両立すんだよなあ不思議な事に。いい迷惑だよな」
 大きな間が開く。どちらからともなく息を吐き出して、そして雷の『妖精』と彼は何度目か簪を見下ろした。
『……姉さんとこ行くのか? 準備するならあいつら起こしてくるけど』
「いや、……いいや、……行かない」
 言い切るような口調の合間に、『それ』をどう呼ぶか迷う間がある事に気付いても、イーライは何も言わなかった。「それ」も「あいつ」も、この魔法には似合わない。何より作り手であるこの工学師が、そのいずれの呼びかけにも焦燥と苛立ちを憶える事を知っているから、言えなかった。
 イーライにしてみれば、簪の形に変えられたそれが、大人しくこの箱の中で装身具の一つに身をやつしている事の方が不思議で、それ以上に、エーフェ以外の誰も何もその魔法の名を知らない事が一番の疑問だった。姉さん、と他の『妖精』が呼ぶのに倣ってそう声にしているだけで、女の姿をしている、という情報以外は何も与えられてはいない。『妖精』は己の姿を確立した反面、それ以外の姿を模る事を嫌うものがほとんどなのに、奇特な『妖精』だとも思う。
 ただ時折、この主が思いつめた顔で「姉さん」に会いに行っているところを見た事がある、ただそれだけだ。そうして会いに行った後は何日も他の『妖精』の全てを眠らせてたった一人で何かをしているらしいという事を知っているだけだ。
 ただそれだから、そっか、と返した。手伝いが必要でもないのなら、変に手を出す理由も無い。
「……悪ぃなイーライ、他はみんな寝てんのに」
『んーや、俺が勝手にくっついてただけだし。姉さんに会えるかって思ってちょっと期待してたけど』
「はは、それはちょっと勘弁な」
『はいはい、っと。じゃあ、俺も寝るけど、なんかあったらすぐに起こせよ。フェル来たらまた見てやんないとなんだろ』
「ご明察。頼むな、なんだかんだ一番面倒見良いのお前とテティなんだわ」
『まーフェルも大概不器用だけどなー。ちゃんと魔法の事考えてるってわかったら邪険にできねえしなー……』
 なんとなく歯切れ悪く、照れ隠しのように言ったイーライの体がふわりと浮かび上がる。そのまま空気に解けるようにしてその姿が掻き消えて宝珠の中に戻っていくのが判って、それでエーフェはそれまでより深く大きく息を吐き出した。肺の中身を入れ替えるように深呼吸を続けて、そうして伸ばした指先で簪の花弁に揺れる。
 そのまま、無音を聴いていた。不意に声が漏れたのは、記憶を何度も繰り返し辿る事にそろそろ飽きなければと思い始めたからだろうと、そうぼんやり思う。
「……眼の色だけでも、わかればな……」
 花弁は艶やかな象牙だ。折り重なって大輪に咲く一片ひとひらを縫い留める蕚は金。この姿に押し込め留めるだけでも、一体どれだけの時間がかかったか。
 眼を閉じる必要もないほど鮮やかに、それは脳裏に焼き付いている。視界に浮かび上がって閃くのは長い、艶やかな銀色の髪で、真っ白な衣裳に短剣だけ従えた姿で。
 耳を滑るまではまるで湖の水のようなのに、胸に入り込んだ瞬間に心の臓を指先だけで撫で上げられたかのような危機を憶える声で、彼女は工学師ですらなかった自分に『妖精』の存在を知らしめて、まるで白昼夢か霞かのように消えた。
 エーフェはその時にはまだ魔導師ですらなかった、それでも魔法使い以外の何物でもなかった。なんとかその姿を留めようとする中で、魔法使いが選ぶとなれば、それは魔法構築以外にはなかった、ただそれだけの話だった。だからこれは、たった一人の魔法使いの瑕疵でしかないはずだった。
「……アルシェ……」
 『魔法』としては巨大に過ぎ『人』には成り損ね、至って『妖精』に降る事も許さなかったそれは、『彼女』には及びもつかない幼稚な子供でしかないのに、それでも破壊する事はできないままでいる。作り直せばより精巧に記憶を辿ったそのままの姿形を創り上げる事ができると、そう確信していても、それに手を伸ばす意志にも乏しかった。それが何故なのかの理由もわからない。わからないそのままの状態に甘えているだけとも、自分でわかっている。



 ――気付けば銀色を見上げていた。白い視界の中に、どうしても眼を惹く白銀が見える。扇のように広がっている銀絹の流れまでが鮮明に焼き付いた。
「……大丈夫、ですか?」
 声に眼を見開いた。全身の血の気が引く音に瞬時に覚醒した意識が視界の中に紫を見つけて、それで全身が硬直した。
 見上げた紫が驚き瞬いている事に気付くまでに数秒が経っていた。
「だ、大丈夫ですか……?」
 見下ろしてくる表情には不安が浮かんでいる。ひとまず片手を持ち上げて、掌を示して見せた。
「……おう。ちょっと状況飲めねえからちょっと待って」
「は、ぃ……あっ、あの、その、これはええとちがくてえっとクウェリスさんに押し付けられただけというか!!」
「いやあー年若い女子の膝枕とか教師の役得だなーって思ってるだけだからほんと」
 状況を把握する前に勝手に口が動いていた。自分で言ってから気付く。紫銀が女で良かったとかなり本音に近い部分で思う。男だったら焼いていた。認識とどうでもいい事の感想で他のものを押し流していきながら見上げる顔はほんのり赤味が差していた。
「あの、ほんとクウェリスさんが……!!」
「疑わねって。そういうの思いっきり楽しむタチだもんなぁクーウェ?」
「ふふ、思ったよりもびっくりしてくれないのね」
 殺してやろうかこの性悪エルシャリス。作為と理解した瞬間に殺意が浮いた。悪態は押し殺して身体を起こす。
 どうやら調練場の隣室らしい。仮眠室のように整えられたソファに転がっていた。それでもしばらく硬い床の上に転がっていた所為だろうか、身体中が強張って仕方がないが、それよりも全身に鉛が埋め込まれたかのように重苦しかった。少し離れた場所から策者の声。
「大丈夫かしら? 気絶したみたいに倒れてたからびっくりしたのよ。魘されてるみたいだったし」
 聞きながら周囲を見渡す。見つけた箱はきっちりと蓋が閉じられていて、テーブルの上に置かれていた。拾い上げて膝の上に据えるまでの間に声を返す。
「おかげさまで目覚めも最高だよ死ねクウェリス」
「あらあら、殺してくれるんなら街の外に行かないと、他の人達に迷惑だわ?」
―― 「毒なら用意してやるぞ」
「苦しいのは嫌なのよねえ。眠り薬の毒なら考えてあげなくもないけれど」
「死ねって意志表明しちゃうくらい殺意も元気な魔法使いがそんな楽な道用意するとでも思ってんのか日和ったなエルシャリス」
「あら、子供が可愛い文句を覚えたものね」
 言い合う間に約一名が静かにあわあわしはじめたのが空気で判って後ろ手に手を振っておく。気にするな、というそれは通じたらしかったのでそれ以上は何も言わないままにしておいた。
 溜め息を吐き出す。記憶のない悪夢で全身が重いらしい。目が覚めた瞬間の衝撃も相当だったがとソファの座面に胡座しながら額を揉む。
「……やっぱ若気の至りで記憶なんか差し出すんじゃなかったよ畜生」
「見通しが甘いのよ、エルシャリスが偏屈揃いだなんて事は有名でしょう?」
「子供相手なんだから多少は手加減しろよ」
「ふふ、正真正銘の子供は守るけれど、そこそこ自立してると思い込んでる子供からは遠慮躊躇い無く搾取して世の厳しさを教える事にしているの。無償講義よ、有り難く思って頂戴?」
「勉強料高くつきすぎだっつってんだよ、ったく……」
 エーフェはぶつぶつと小さく文句をこぼす。それを見やったフェルがクウェリスに眦を下げて見せれば、彼女は上品に口元を覆って笑んで返した。
「大丈夫よ。挨拶代わりだから、これが」
「え、と、……その……」
「大丈夫、フェルの所為じゃあないわ。今までに無かったのが嘘みたい。……そうね、リアとディアの時も、こんな感じでしょう?」
 言われて紫を瞬いたフェルが、視線を横へと流していく。この世代の人たちはこういうものなのかという思いが浮かんでくるのは不可抗力だろうか。あるいは紫樹の学院がそういう場所だったのだろうかとも浮かぶがそれはなんとなく否定しておきたい。少なくともあの北の長官が運営する学院ならそんなに変なことも起こらないはずだと思いたい。実際に何か聞くようなことも今までにはなかったのだが、今後もしあったとすれば聞きたいような聞きたくないような気分すら浮かぶのはそっと奥の方に押し込んだ。杞憂と言い聞かせて、それで眼を上げる間際、横から手が伸びてくるのが視界の端に映り込んでそちらに眼を向けた。
 エーフェが髪の一房を攫っていくのが見える。適当に掬っていったようなのに乱雑には見えない手付きで、唐突にそうして目の前に持って行った彼がそのまま無言のままなのを見て、フェルは何度となく眼を瞬かせた。
「……え、えっと……」
 クウェリスを窺うようにしてもただ首を傾げられるだけ。そのまま数秒に渡って彼は一言も漏らさないまま銀の髪を見詰めて、唐突に上向いた紅と真正面からぶつかって思わずたじろいだ。構わず口を開いた彼の声。
「よくこんな綺麗に伸ばしたな。銀って長くなりにくいだろ」
 言われたそれには、身構えるように全身に込められた力が抜けないままでまた眼を瞬く。ゆるゆると意識して力を抜いて、そうしながらええとと言い淀んだ。
「そう、なんです……?」
「貴色の中でも特にな。金も紫も藍も長くするのには時間かかるし維持するのも面倒だって聞いてる。俺はこの色だからそんなこと全く感じもしないけど」
 言いながらエーフェがクウェリスを見やれば、彼女はそれにも首を傾げてみせる。彼女は灰色だ、灰は時の色。時は木と共に全ての属性の仲立ちをする属性だ、象徴色である灰色もそれに従う形で中庸の色とされる。エーフェの桃色は炎の下位、浄化の火の色だったはずだ。光の色として数えられる白と、炎の赤の混色。
「というか本当に銀なんだなお前……普通銀って言えばもうちょっと灰色に近いけど」
「みたい、ですね……あんまりよくは分かんないんですけど。……髪は、大事にした方がいいって言われて、それでずっと伸ばしてます」
 流石に整えるためにたまには鋏を入れるが、フェル自身が鋏に良い思い出が無い為にあまりそうすることもない。エーフェはまだ髪から手は離さないで、指先でその感触を楽しんでいるようだった。少し居心地が悪いと思いながらもじっとしたままでいれば、今度はクウェリスが声を向けてくるのが聞こえた。
「紫旗に、かしら? 言われたのは」
「あ、いえ、団の人じゃなくて」
 答えているうちにエーフェの片手が両手になって手櫛で梳かれる感触が伝わって来る。遊ばれる予感がする。思うが、もう逃げる機は逸してしまっていると諦めた。地下から戻ってきた後に染め粉を落とす為に湯を使って香油も使った後だから一番のところだろう。
「小さい時に、よくわからないんですけど知らない人に、髪は長い方が良いですよ、って言われて。それまではずっと短かったんです」
「あら、意外。この国の貴族はみんな長くするでしょう、女も、男も」
「あんまりに長すぎるから結うの大変だって、今は言われてます……」
 そう言う時には苦笑が浮かぶ。なんせもう腰を下せば床に広がるほどに長いのだ。その分毛先が傷むのも早いかと思っていたら、気をつけるだけ気をつけているだけでそんなこともない。整える為に多少梳いてもいるから、重すぎるということもなかった。
 結われている感覚は続いている。目を向ければ、いつの間にか組紐のような、革で編んだ飾り帯のような複雑な編みがされている。無言のまま手を動かしている彼からは何の表情も読み取れない。なぜ唐突にこうなったのかわからないままでされるがままにしていれば、不意にそれが止んで大きく息を吐き出す音が聞こえた。
「ま、魔法使いには丁度ってか」
「です、ね。髪がこんなで、魔力は助かってます」
 魔力の貯蔵には、やはり肉体の一部が良い。それも命色が現れる部位である髪と瞳が一番だ。だからこそこうして魔法使いに触れられるのは苦手なのだが。遮断されてるとはいえ、奪われそうなと思う気持ちは禁じえない。なまじ今までに狙われた回数とそのほとんどでの初動が魔力を剥ぐことだったから、大丈夫だとわかりきっていても警戒してしまうのは不可抗力だった。全く気にならないのは、紫旗の中でも限られる。第二の隊員であっても数人にはまだ体が強張るくらいだから、撫でられる程度なら気にしないのだが。
「……あの」
「なに?」
「……なんで遊ばれてるんでしょうか私」
「いやなんか眼についたから?」
「十六歳の髪に触ると後が怖いわよエーフェ」
 はた、と音を立てて編まれたそれが落ちていった。エーフェはそのまま自身の頭を掻き混ぜる。そして唐突に叫んだ。
「……危機感!!」
「は、えっ、あっ、すみません……!?」
「せめてこの、結い上げるとまでは言わないけど帽子か髪帯飾りはするとか!!」
「ぼ、帽子は落としそうで……!」
「だからって何もないと平気だと思うだろ!?」
 この国の女性は常に帽子を身に付けるもの、それが慣習であり風習だ。街で会った警備隊のシュネリアがそうだったように、職務中でも外すようなことは滅多に無い。紫旗や協会の女性騎士達の間では故意に無視されている風でもあるが、黒服の間では浸透しているようらしいとは見て分かることだ。今はすぐ近くに腰掛けているクウェリスも、帽子と刺繍の髪帯飾りは常に身につけている。だが。
「あ、あんまり身近じゃなくって」
「でもエーフェの言う通りかもしれないわねえ。今はこの街も移民が増えてきているから、変には思われないかもしれないけれど。スィナルには言われなかった?」
「スィナル様はあんまりそういうこと仰らないので……」
「あーそういやあいつもそういうのだったわ……」
 なんだろう、何故かこの人達の義母に対する言葉を聞くにつれて何かしらの不安のようなものが湧き上がってくるのを感じるのだが。思いながらフェルは自分の頭になんとなく手を伸ばした。
 必要だ、とは、この街に来る前には何度か聞かされてはいたのだが、なんだかんだで用意をしないままだった。いつも必ずフィレンスやクロウィルに結ってもらっているのも、本当は帽子がない代わりなのだが。今のように帽子も無く結っているわけでも無い、というのは、自由民にはあまり無い。同じように男性も、刺繍の無い上着というのはあまり推奨されないらしいが。大概が母や姉妹といった女家族か、恋人か妻かがその上着を仕立てて刺繍するものらしい。リアファイドに渡すのだと、女王が余暇を針仕事に費やしていたのをよく覚えている。
「……あれ、でも貴族って冠だっけ?」
「よく、わからないんですけど……いつもは紗を掛けちゃいますし」
「それも未成年だから、ね。でもそうねえ、髪帯は付けておいた方が良いかもしれないわね、これから街に行くことも増えるでしょうし」
「帯なら、たぶん、あるんですけど……」
 あってもうまく結える自信がない。三つ編みさえまだできないのにそれ以上に難しそうなものを出来るのかと問われたら迷う間も無く否と返すしかない。その自信の無さが現れた声に顔を上げたエーフェが頬杖に溜息を吐き出した。
「まあ協会の中じゃ良いかもしれないけど。外行くなら軽く巻くでもした方が良いわな」
「で、す……?」
「……お前はなんなの。警戒心とかどこかに置き忘れて来ちゃった子なの?」
「何の警戒です……?」
 紅桃と灰が顔を見合わせる。方や苦笑に方や呆れた吐息を漏らして、そしてそこまでのことを断ち切るように、そうだ、とクウェリスが手を合わせて声を上げた。
「ご飯を持ってきたのよ、それで寝ているみたいだったから驚いたのだけれど。何かしていたの?」
「あー。いや。休憩しようと思ってたら寝落ちてた」
「陣が安定してるなら、今日は部屋に戻りなさいな。フェルも、手伝ってくれて有難うね」
 向けられたそれには首を振った。結局気になってしまって隣の調練場に入り込む口実を探していたのは事実だから、何も言わないで手伝いにと言ってくれた彼女には素直に感謝している。理由もわからないが、きっと彼女はわかっていて声をかけてくれたのだろうから。思っている間に、その灰色が軽く首を傾げてみせるのが見えた。
「良かったら、編み方も教えてあげるわ。刺繍はできるでしょう?」
「あ、はい、是非。……あの、私すごい不器用ですけど……」
「大丈夫よ、簡単だから。エーフェは、大丈夫?」
「へーき。食べたら部屋行くわ、ありがとな」
 テーブルの上の一式を示して言って、彼は肩越しに手をひらりと揺らめかす。それを送り出す言葉と受け取って、二人揃って立ち上がった。




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