眼を開ける前に、色々な音と声が聞こえているような気がして、それで身体が動くより先に意識の方がしっかりと目覚めていた。
 ――何人だ。
 そう問いかける声が天蓋の向こう、扉の先から聞こえて、それで視界を開いた。もとより浅い眠りだったから体を起こすのにも支障はなかったし、周りが静かすぎたのもあって声はひそめられていてもはっきりと聞こえていた。
 ――紫旗だけで八十三人、紅軍を含めれば二〇〇人以上です。研究員は全滅、院自体が消えておりますから、確認も難航して……。
 ――……クォルクは……。
 音がふっつりと途絶えて消える。視界の暗い中に翠が見えて眼を上げれば、舞い上がる柔らかい風の中心に小さな人。窺うように顔を覗き込んでくるそれに両手を伸ばして、腕の中に抱きかかえた。
 ――……どうやってお伝えしますか。葬送り帯は、フェル様が……。
 ――陛下からお話くださるそうだ、明日か、事態が落ち着いてからか。葬儀は仮葬になる、親族が見つからない。
 ――では、石は。
 再び、音が消え失せる。溜息のような息遣い、それからまたしばらくして。
 ――俺、だろうなぁ……。
 小さい人、精霊の手が伸びてくる。頬に触れたのに不器用に笑いかけて、手を離した。ふわりと浮かび上がった精霊は、何かにためらうように浮遊したあと、天蓋を突き抜けて何処かへと行ってしまう。
 声はくぐもって聞こえなくなってしまっていた。精霊が届けてくれていたのだろうと、そこで気付いた。
 大きな寝台を見渡す。天蓋はしっかりと閉じられていて、誰もいない。



 眼を開ける前に、色々な音と声が聞こえているような気がして、それで身体が動くより先に意識の方がしっかりと目覚めていた。
 身体の方が重くて、瞼を持ち上げるのにも苦労してぼんやりと見上げた先は明るく、そして灰色がすぐ近くにあった。
 口を開くと声より先に息が漏れた。眼を閉じたままのその人が、見えていないはずの視線と顔とが見下ろしてきて、頬に手が当てられる。温かい。
「……フェル……?」
 呼びかける声だとは遅れて気付いた。瞬きを何度も挟んで、それからようやく疑念が追いついてきた。
「……あ、れ……?」
 クウェリスの手が頬を撫で、額に触れる。彼女が手が温かいのではなく自分の身体の方が冷え切っているのだと気付いた時にはその手が真上に浮き上がって、そして即座に振り落とされた。
 破裂音。
「ッ――た、ァ……ッ!!」
「ちょおま怪我人!!」
「処置はしたわよ」
「したとかしてないとかじゃないだろ!?」
 エーフェの声は横からで、思いっきり額を叩かれたフェルは両手でそこを押さえて身体を丸く折り曲げて震えていた。クウェリスの膝から頭が転げ落ちて軽く打つ。痛い。誰かの手が伸びてくる感触に、全く、と呟くクウェリスの声がかぶさってきた。
「魔法説得する為に自分で手首切るなんてやられて怒らないのが居るとでも思ってるの」
「その前に命大事!!」
「エーフェ……貴方存外度胸ないのね」
「お前の心臓が強すぎるんだよ三二七歳!!」
 床に転がりながら痛みをこらえていたフェルは小さく呻きながら涙目で左腕をちらと見やる。手首にしっかりと包帯が巻かれているのを見て、ではやはり現実でも傷は出来てしまっていたかと思う。先程からの会話を聞く限り処置してくれたのはクウェリスらしい。
 そこまでを痛みの減衰を待ってようやく把握して、思い返して我に返った。顔を上げて、腕を突いて身体を起こそうとした途端に視界が歪んで、付いた手が崩れて床の上に逆戻りする。力が入らないことに思わず眼を瞬かせている間に、すぐ後ろから伸ばされた手と腕に力が込められるのがわかって、そして影が落ちて声が聞こえた。
「……フェル」
 呼びかけ、聞こえるそれに瞠目した。抱き起こされて見上げれば、黒がかった鋼色の髪と空色の瞳の青年。
「――コウ」
 硬い床の上に座る膝の間に抱え込むようにされて、そうしながら呼びかければ頷く代わりに抱きしめられる。肩に顔を伏せるそれを見て、ではと眼でエーフェを探せば、彼は胡座に頬杖をつきながら深く大きく溜息を吐き出した。
「……お前さぁ……そういう事するならせめて一言先に言っとくとかさぁ……」
「ご、ごめんなさい……言うと止められると思って」
「あら、止められるような事したとは理解してるのね」
 冷たい声には言葉が詰まった。すぐ後ろの、耳元、肩の方に顔を伏せていた彼が、音を立てて息を吐くのが聞こえた。
「一度戻れと言った……」
「ご、ごめんなさい……」
 低い声の呟きには謝りながら、視線を泳がせそうになったのを押しとどめて振り仰ぐ。顔を上げた蒼と眼が合って、手を伸ばしてその頬に触れる。ちゃんと感触と暖かさがあるのを確認して、その掌に擦り寄ってくるようにする仕草が見えて、それにようやく安心して小さく息を漏らした。
「……聞こえましたか?」
「……ああ、聞こえた。それに、ああも言われたら受けざるを得ない」
 眼を伏せながらの言葉には苦笑する。最後、意識を失う寸前に告げたのは新しい名。構築とも、魔法の自我とも直接には関わりのないそれは、受け入れてくれるかどうかも怪しいと、そう思ってはいたけれど、ちゃんと聞こえて受け取ってくれた事には安堵しか浮かばなかった。『妖精』は、もう一度息を吐き出す。
「……でも強引だった」
「い、勢いかなって」
 自覚はしているので苦し紛れとわかりきった言葉でなんとか返す。だがそれでも、感情だけでは動く事のできない魔法が応えたのだから、合致はしているのだとは疑いようもない。それからクウェリスへと眼を向ければ、すぐに眼を伏せたままの顔がこちらを向いた。無言の圧力には即座に屈した。
「……す、すみませんでした……」
「どうして手首なんて致命的な場所をそんなに思いっきりカッ捌けるのか甚だ疑問だわ」
「な、んか、思ったよりも深く斬れちゃって」
「あと少し遅かったら凍結が必要だったくらいなのだから自重してちょうだい。治癒も制限外だったから縫ってるわ、消毒くらいは出来るわね」
「い、一応医術師です……」
「だったら急所の意味くらい理解しなさい!!」
 怒号に近い強い声には反射で全身が竦む。同時にコウもびくりと震えたのが背中に伝わってきてなんとなく連帯感が生まれた。流れ弾で首をすくめていたエーフェが、やれやれとぼやきながら鋼色を見やる。
「……んで、そっちは大丈夫かね」
「大丈夫、……だと、おもう。言葉は理解出来るし、使えていると思う。……力加減が、よく分からない」
「ん、……今まで喋れなかったのは誰とも話した事無かったからかね。身体の方はどうだ? お前くらいになると、たぶん自由に見た目作って変えられるだろ」
 フェルはそれには首を傾げて、身体に両腕を回して抱きかかえてくれる彼を見上げれば、同じように見下ろしてくる青い瞳と真正面から鉢合わせた。しばらくそうして見合って、フェルがその無言にようやく疑念を抱くとほぼ同時に、その竜の全身が青い炎に包まれて思わず顔を腕で庇う。一度腕の感触が消えて、そして唐突に吹き上がった炎が前触れもなく消えると同時に、とん、と軽い音とともに背中に何かがぶつかってまた両腕が身体の前に回ってきた。
「大丈夫、人が怪我するような火じゃない」
 そうして聞こえた声に思わず眼を見開いて、そうして振り返って見やった先の姿を見て更に大きく瞠目した。――銀の髪に紫の瞳。
「……たぶん。燃やせはするかもしれない」
「……え、」
「ん。フェルの真似」
 真似どころの話なのだろうかと、言う声を聞きながら思う。レナの時とも違う、まるで鏡を見ているような感覚に陥った。声までが同じだから尚更だと絶句している間に紫銀は自分の手を見、身体を触りと何かを確認しているようだった。立ち上がって近付いてきたエーフェが、その紫銀の頭に手を置きながらほう、と唸る。
「見事に瓜二つ。何か、幾つか用意して覚えといた方がいいかもしれないな。本来のとは別に。大きさで疲れ変わったりしそうか?」
「試してみないとわからない。……フェルは子供の方が良いか?」
「え、と、私はどちらでも構いませんけど……」
 聞かれたフェルは言い淀む。エーフェは腕組みした。
「人の姿に慣れといた方が良いのはあるな、これまでの格好だと誰かに見られた時とかにもちょっと言い訳苦しいし。そうじゃない時はあのもふもふでも良いだろうけど」
「ん、わかった」
 言われたそれにすぐに頷き返す。姿形と声音はそっくりでも、仕草や口調が違うのは仕方のない事だろうと、そう思っているうちにクウェリスの視線が動くのが視界の端に見えて、追いかけるように見やれば扉が開くところだった。入ってくるのは見慣れた青翠。
「……クウェリスどうした?」
「怒ってるのよ、珍しく」
「……珍しいな」
「ええ本当に。久々すぎてどうしたら良いかわからないからじっとしてるの」
「……? なんでそんな怒っ」
 近付いて来て見やった翠が言葉半ばにして途絶える。フェルと紫銀とが眼を見合わせて、それでクロウィルはああ、と納得したような声をこぼした。眼を向けたのは抱えられている方の紫銀。左手の包帯と、袖のまだ新しい赤を指差した。
「フェル、怪我したのか?」
「怪我、というか……流血はしましたけど……」
 視線と声を向けられた方が言い淀むように返すのを見てエーフェが何かに眉根を寄せる。クロウィルがもう片方に眼を向ければ、どこか神妙そうな表情で、フェルを抱きかかえたままのそれが口を開いた。
「それなりに無茶だった」
「……後で話聞くからな、フェル」
「ぜ、絶対嫌」
「大事にしたのはフェルだ」
「だって正攻法だと時間足らな、」
「とりあえずお前は後でな。コウは、お前はそんな感じになったのか?」
「いや、これは真似の方だ。……大人と子供ならどちらが良いだろう」
「撫でられるの好きなら子供の方じゃないか?」
「……なるほど……」
 何の驚きも戸惑いすらもなくごくごく自然と会話として成り立っているのを見て、エーフェが腕組みをしてクウェリスを見やれば、灰色はそれに気づいたのか小さく息を吐くだけ。エーフェは眼を遠くして、改めてクロウィルへと眼を向けた。
「見事に驚かないしよく見分けできるのねお前」
「まぁ成功したらどうなるってのは聞いてたしなあ。見分けは、できるだろ?」
「……いや、見かけだけだと確実に無理なんだけど」
「そうかなぁ……」
 全く同じ姿をした二人の前に膝をついた白服は、純粋に不思議そうにこめかみをがしがしと掻く。コウが何かを考えている様子なのを首を傾げていたフェルも、それを聞いて青翠を見やった。
「でもクロウィルよく見分けつきますよね……王宮でも」
「分かり易いとと思うんだけどなぁレナとの見分けも」
「できるのクロウィルとレゼリスだけですよ。影武者の意味あるのかって、よく話になりますし」
「俺が何かやらかそうと思ったらまずいな、確かに」
 言う間に振り返ったクロウィルの視線を受けて、クウェリスは一度大きく息をついてからフェルへと顔を向けた。それでクロウィルは立ち上がって紫銀を手招き、察したらしいそれもすぐに手を放して離れていく。フェルも視線に気付けば引き止めようとはせずに、居佇まいを正してクウェリスに向き直った。
「……ひとまず、ちゃんとなって安心したわ。無理をした分の揺り返しが来るだろうから、ちゃんと休むのよ」
「、……はい」
 真正面から怒られる心構えを作っていたフェルは、だがそれには思わず眼を瞬かせて慌てて頷き返した。クウェリスは小さく笑う。
「エルシャリスが治療できなくなるまで怪我に触らせてくれないから悪いのよ。貴女が潜っている間は陣に触れられないのだから、止血すらできないんだもの」
「あ、う、……ご、ごめんなさい、前のが短かったから大丈夫だと思ってて」
「確証もないのに踏み切らないの。良い?」
 言う通り過ぎてはい、と返すしかできなかった。同じ無茶に見えても、この人や長官は完全な見通しを立ててから無茶をやる人だろうから、後から見返せば完璧な罠にも見えるだろう。そういった人から見れば、稚拙に過ぎるだろうとは素直にそう思う。
「それと、まだ少しやることもあるでしょうから、何かあったらちゃんとエーフェに訊くのよ。あなたが隠す癖があるのは、今日で充分わかったから」
「……ごめんなさい……」
 何も言えなかった。魔法の事だとなんともないのに。魔法の事だ、と言えないのではないかと少しでも疑問に思ってしまえば、それで途端に難しくなる。自傷は自分自身に一番影響のある事だからと、止められるかもしれないと思うと言えなかったのが本当のところだ。クウェリスはその様子には、すでに察しているのか、小さく笑う。
「分からないではないけれどね。……それでね、フェル、ずっと言わないで居たのだけれどね」
 言いかけたそこで言葉を切るのには何かと思って、フェルは自然と俯いていた顔を上げた。クウェリスは、床に腰を下ろしたそのすぐ近く、磨かれた大理石の上から一つの大きな包みを膝の上に拾い上げる。革の袋にすっぽりと覆い隠されて包まれた、両腕で抱えてちょうどという大きさの、厚さのあるもの。
「あの子の事で一段落がついたらと思って、黙っていたの。気にしていたでしょうにごめんなさいね、……『貴女のもの』よ」
 最後の言葉とともに差し出された事で、理解した。
 手を伸ばして、受け取る。思ったよりも重いそれを両手に握る。綺麗になめされた革の包みは、嫌味の欠片もないなめらかな手触りで、中に収められたそれの固さも少しだけ中和してくれていた。
「私が拾う事のできたものの全てを書いたわ。貴女の中にある全てのもの。貴女が忘れてしまっていると思っている事も、忘れた事すら忘れてしまったものも、貴女の中に残っているものは可能な限り書き出した。……でも、完全に何の抜けも無い人間なんて、そういない。だから、その事はよく覚えていて」
 眼をあげれば、クウェリスは笑みも何も浮かべてはいなかった。もう一度眼を落として、袋の上からそれを撫ぜる。固い感触。
「……開けても、良いですか……?」
「もう貴女の手に渡っているわ」
 彼女の手が伸びてきて、頬から髪を撫でられる。それには今度は顔は上げないで、フェルは革の袋の口を開いて、中のものをゆっくりと取り出した。
 ――赤銅色の表紙に、鮮やかな金の箔と装飾が施された装丁。滑らかな中紙の色が、閉じた状態でも良く見える。
 表紙を指先でなぞる。固いその右端に手をかけようとして、だが開く事は出来ずに、ただ誤魔化すように微かに息を吐き出した。
「……ありがとうございます」
「良いのよ。私も事情は、ヴァルディア伝いだけれど、知ってはいるから。貴女は、気にしてしまうから」
 なんと返したら良いのかわからなくて、曖昧に苦笑めいた表情を浮かべる。そうしてから不意に気付いて、それでもう一度指を表紙に這わせた。色の付いていない、だがエンボスで刻み込まれた文字列が、書籍の題名が示されるべき場所にひっそりと隠れていた。
 ――Akash Chronic.
「Akasha……『アクアシェ・クロニク』……?」




__________




back   main   あとがき


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.