古代語の講義混じり朝食を終えてすぐ、団長は来いと一言だけ言って、子供を抱え上げて扉の方へと足を向けてしまっていた。慌ててカルドの方を見れば、今日は休みだろうと返してくれてほっとする。片付けなんかの雑用は自分たち子供の仕事だからと、紫旗の本部に立ち入りが許されてからはずっとそう言われ続けていたから、それが無いのはなんだかそわそわして落ち着かない。思いながら、剣を押えながら団長の後を追えば、子供を軽々と肩に担ぎ上げた紫藍が肩越しに振り返った。
「剣は押さえない方が良い」
「えっ、あ、」
「慣れないうちはしょうがないけどな。いつでも剣に触れてる癖つけると、出会す相手全部に敵意持ってるように見られかねねぇしな。気にしといた方がいい」
「……わかった、やってみる、けど……」
 完全に手を離してしまうのは不安定で落ち着かない。足を踏み出そうとする度にかたかたと音を立ててしまうそれに目を向けて、団長は笑った。
「ま、追い追いな。慣れろ、それが一番早い」
 頷く。そうしている間に『小さいの』は高い視線が怖いのか、それとも足場が大きく動くのが怖いのか、団長の頭に腕を回してしがみ付いている。それを振り払いもせずに笑って、視界を覆い隠す袖だけを持ち上げて彼はそのまま階段へと足を掛けた。
「想像はついてるだろうが」
 『小さいの』は、しがみ付いたあとは大人しくしている。その間に向けられた声はこちらで、段を淀みなく登っていく声には揺れも撓みも無い。
「ユゼに聞いた。難儀だな、お前も」
「……どこまで聞いたか知らないけど、代わりに父さん一回殴ってくれないかな、団長」
「もう二発殴ってるからあいこにしとけ。お前も古代語やってもらうぞ」
「え」
「その為に呼んだ。ラシエナは駄目だ、あの調子じゃ古代語知った途端に歪む。こいつの母語を殺したくないんだよ」
 肩に座らせるように担いだ、その脚を抑えて支えてやっている片手が軽く『小さいの』の膝を叩くのが見えた。『小さいの』が少しそちらに顔を向けようとして、しかしぐらりと揺れて慌てて元の姿勢に戻ろうとするのにはクォルクも少しばかり姿勢を変えて援けて、それでも足は淀みなく進んでいく。
「俺もこの大陸の出じゃないからな、言葉が違うってのは相当な壁だ。人にとっては単なる道具に思えるが、言葉が無けりゃ俺達は普段の暮らしもできないし、かといって傾倒するのも困る」
「……団長が父さん殴ったのって……」
「一回分はそれだな。あいつなら、お前の声を殺す前に何かしらの手段はあったはずだ。それを怠ったって本人が認めたから殴った」
 子供に甘い人だ。何度目か思う。そして一度でも何かを認めた人間には厳しい人だ。それも何度目か思う。父が殴られたのであれば、そうされるはずだという予想程度は付いていただろう。だからそれに付いては何も言わないままでいれば、まあ、と彼の声が続く。
「あと一回のは、単に個人情報流されて秘匿の共謀者にされた分だ」
「……頼もしいっていうか、過激っていうか。でも、ありがとう」
「おう」
「俺も、『小さいの』の言葉は残してやりたいとは、おもう」
 三階に至って、その上へと向かう。見上げれば紫と目が合って、握った藍色とこちらとを見比べるような仕草が見えたが意図はわからない。
「……声を殺せって、言いたくないし」
「だ、な。大陸語で塗り替えんのも癪だ、教えはするが殺しはしない。それでお前もと思ったんだが、嫌か?」
「全然。出来るかどうかはわからないけど」
「何ならロツェかオフェシスどっちかだけでもいいさ、残りは誰かしらが補う。だがどっちにしろ強い言葉だ、そんで、魔法的な要素も持つ」
「なら、団長は?」
「俺は称号あるからな、魔力回路封じられてるから話しても書いても単なる言葉だ。でもこの『小さいの』は違う。それを抑える為にお前の声を借りたい、ってのもある」
「……通じないと意味がない、から、俺も?」
「そうなる。悪いな、利用ばっかで」
「気にしない」
 すぐに答えて、だが視線は下を向いた。すぐに考え直して、眉根を寄せて目尻を下げた。
「……気には、するけど。団長が悪行するって言わない限り、協力はする。俺も『小さいの』と話してみたいし」
「有難うな。……場合によって、お前が希望するなら、お前の声も封じる事は出来る」
 もう扉はすぐ近くだった。大人は卑怯だ、話の切り方まで熟知していて、容赦しないから。
「すぐには決めるな、よく考えろよ。よし、『小さいの』、着いたぞ」
 扉を開く音、同時に子供に向けての明るい声と、床に降ろしてやる丁寧な手つきまでが一緒だった。すぐに促されて中に入れば彼の私室、趣味良く整えられた調度とソファ、壁際には本棚がきっちりと詰め込まれていて、それでも足らずに溢れていた。
 降ろされた子供は、降ろされたそのまま棒立ちだった。苦笑した団長が頭を撫で、何かを言い交わす。その後に自分の方に寄ってきて、長衣と外套の隙間に滑り込むようにして軽く脚にしがみ付かれた。
 目をやれば、団長のにやにやとした顔。
「そこが一番落ち着く、ってよ」
「、え、」
「暫くはちゃんと面倒見てやれよ『兄さん』」
「、やめてよ……そういうの……」
 もごもごといって返してから、ぴったりとくっついて離れそうにない子供を見下ろせば、すぐに紫が見上げて来る。
 ――ここはどこ?
 ――俺の部屋だよ、ちょっと勉強に付き合ってくれ。
 子供からの声が聞こえたのはそうだとしても、団長の声まで聞こえたのは流石に驚いた。目を向ければ、どうやらこちらにも向けた言葉らしく手招く仕草が見えた。
 子供の声だけがそうではないのか、とは驚きながらも仕草に従って、『小さいの』を抱き上げてソファに向かう。テーブルの上には幾つも本が広げられていて、雑紙だろうか、紙の束が適当に積み上げられていた。他は整っているのに、テーブル付近だけが乱れている。
 ――お前の声も、こいつに向ければちゃんと聞こえてる。だからこの部屋では全員に向けて喋ってくれ。できるか?
 ――うん。クィオウィラィルは、しゃべれない?
 ――まだ難しいんだ。だからお前に教えて欲しい、って思ってる。
 ――『だんちょう』は、できてる、と、おもう。聞こえる、から。
 抱え上げられ、ソファに降ろされながらの子供の声には、あれ、と思う。大陸語の混じった声、団長を見上げれば、そうか、という顔をしていた。
 ――『クォルク』、だ。俺の名前。
 ――クィオルク?
 ――惜しいなあ。お前も勉強しなきゃだな。
 ――……べんきょう、なに、するの?
 最後は顔をこちらに向けての問いかけ。隣に腰を下ろしながら答える。
「『小さいの』は大陸語、俺と団長……クォルク団長は、『小さいの』の使ってる言葉、かな」
 ――だな。フェイリェルは共通語。俺たちはフェイリェルの使ってるのを勉強する。
 この人まさか全部古代語で通す気か。確かに理解はできるけど。思っている間に、な、と言わんばかりの顔が向いて来て溜息をついた。
「……ラヴェンツァよりもずっと難しいのに……」
 ――気の所為だ気の所為。とりあえず俺が覚えたぶんだけお前に伝える。フェイリェルは、何か間違ってたら教えてくれ。
 ――……なまえ……。
 ――フェイリェル・レスィアレナィアディア、な。俺も『クォルク』って呼ばれてるけど本名は『クォルシェイズ』だ。愛称とか渾名とかってわかるか?
 ――……?
 疑問符を浮かべた顔はこちらを見上げる。ええと、と前置きをしてから言葉を継いだ。
「名前を呼びやすくするんだ。親しい人の同士とかは、名前を全部言うより、一部分だけとかのほうが仲が良い証拠かな」
 すぐに団長が訳して伝えてくれる。聞いた『小さいの』はそれを聞いてもまだ疑問符を浮かべたままの子供が黙り込んでしまうのを、団長は苦笑した。
 ――すぐにはわからんか。フェイリェルのところだと、名前は全部呼ぶのが決まりか?
 ――……わからない。でも、フェイリェル、だけだと、ちがう……。
 ――どう違う?
 ――フェイリェル・レスィアレナィアディアは、なまえ。フェイリェル、は、フェイリェル。
「……何かの単語ってことかな」
 言えば分厚い本を持ち上げた団長が、一冊をこちらに投げて寄越す。慌てて受け取って、こういうところは雑だよなと思いながらも開けばどうやら辞書のようだった。眉根を寄せる。
「……団長、ごめん、俺まだ文字の対応表覚えてない」
「巻頭に解説ついてるから読め」
 さすがに急すぎる、とは思いつつも言いはしない。言った所でこうなってしまった団長は止められない。大人しく表を見つめて、それらしい音を探して何枚も紙をめくって、それでもそれらしい言葉は見当たらない。そうしてしばらく無言のままページをめくることだけを繰り返していれば、その途中で銀色が視界の端に入り込んだ。驚いて顔を紙面から一旦離せば、子供の手が紙面に触れる。幼い声。
 ――これ、なに?
 ――辞書、って本だ。フェイリェル……お前の使ってる言葉を、こっちの、大陸語で翻訳するためのやり方が書いてある本だな。
 ――……ことば、もっとたくさんある。
 ――全部合わせて五冊分だな。それでも足りてないところはあると思うが。
「この辞書は全部共通語で書かれてるから、わからないかも」
 ――見てみるか? それとも、”フェイリェル"を書いてくれればそれで探してみるが。
 団長の手元に一冊、自分の手元に一冊の二冊を除いた残り三冊が子供の前に積まれるのと、白紙の一枚と万年筆がその横に据えられる。
 子供は二つを見比べて、そして先に万年筆を手に取った。迷うことなく、何かの表を書き始める。対岸から覗き込む団長が、眉根を寄せながらも言葉は押し込んでいるのがわかる。次第に表は見慣れない記号のようなもので埋め尽くされていく。もう一度文字対応の表を開いてみれば、どうやら子供が書いているそれらは全て古代語の何かの単語のようだった。
 ――……”フェイリェル”は、これでぜんぶ。たぶん。
 指先に黒いインクが付いてしまっているのも気にしていないのか、ペン先を持ち上げた子供が言う。表は、どうやら上下左右で何かの増減が示されているのか、中央に走る斜めの部分は全て同じ文字列が書き込まれている。それ以外は全て違う。
 正気かよ、と、団長がつぶやくのが聞こえた。それに何かを言いそうになるのは押し込めて、それから口を開いた。
「どう違うんだ?」
 ――……そうだな、それが気になる。これ全部が”フェイリェル”か? どう違う。
 ――こっちが、かたいほう。とてもつよい。ぜんぶをさらってこわしていく”フェイリェル”。
 聞いた瞬間に怖気が走った。身震いもできないままでいれば子供が指先が指し示したのは左上。すぐに一覧表を開いて共通語の文字に変える、そうして別の一枚に”giahpe”と象られたそれを頼りにページを繰れば、一冊の中にそれを見つけた。併記された訳には『暴風の中でも特に強い風による天災』。そう読んでいるうちに子供は右下を示していた。
 ――これが、雨と仲のいい”フェイリェル”。
 聞こえると同時に脳裏に浮かぶ情景を無視して同じ作業を繰り返す。”fgistas”と文字を置き換えたその訳は『風雨の中でも一層氣の反発の薄いもの』。同じように左上を示しての訳は『微風、春風。春嵐の風とは別とする』。開いたそれを全て頭に叩き込んでから団長に渡しを三度繰り返して、そのあとに子供の声が続いていた。
 ――この、ななめのまんなかが、いちばんつよい。みぎにいくと、風のまま、ゆったりになる。したにいくと、雨と仲のいい風になる。このしたにずっといくと、水になって、みぎにずっといくと、木になる。
 ――……そんなに意味違うのに、全部が”フェイリェル”なのか?
「団長」
 顔を上げて遮った。『そう』じゃない。
「たぶん団長が話してる古代語も本当の意味では話せてないと思う」
「そりゃそうだが、」
「そうじゃなくて、……これ、全部別の単語になってる。発音どうのじゃなくて……そう思って言葉にしようとして出た音が単語になってるだけで、……さっきから『小さいの』が言うたびに変な感じする」
「変な、って」
 ――……どうしたの?
 子供の声が合間に挟み込まれてそちらに目を向ける。言葉で説明がつかない、どうするかと悩んで、結果、手を伸ばした。
 子供の両耳を掌で塞ぐ。目を瞬いた子供には頷いてみせて、それから対面するように腰を据えた紫藍を見た。
 息を吸う、口を開いて、言い放った瞬間に騎士の紫が見開かれた。



「イース!! カルド!!」
 広間の扉が轟音を立てて開いたと思ったと同時に大声が響いて、後ろから全速力で追いかけても間に合わなかったと頭を抱えそうになった。
「だんちょ、ちょっと、乱暴すぎじゃ、」
「てめえが発端だこの、なん、あーもう意味わかんねえ!! まさかユゼ帰って来てたりしねえよな!?」
「村、まで、早駆けして、五日かかる、し、無理、だとおもう、けど、」
 ぜい、と息を吸い込む。まさか即座に『小さいの』を脇に抱えて部屋を飛び出して階段を文字通り『跳び降りて』いくなんて一体この中年どういう身体能力持ち合わせてんだ。脇に抱えられた『小さいの』も動じていないのかあまりにもびっくりして何も言えないのかじっとしたまま動かない。
 さらに輪をかけて驚いたのは、広間にいた二人だろう。呼ばれた二人はちょうど揃っているところで、何かの書類を前に話し合っていたところらしかった。手に万年筆が見える。
「……え、っと、……どうしたのよ団長……?」
「……っていうか『小さいの』そんなぞんざいに扱わないでください!! 涙目になってるじゃないですか!?」
 イースの動揺する声、次いでカルドの怒鳴り声が聞こえて膝に手を当てて支えにしながら喘ぐのを押さえて、そのまま駆け寄る。カルドはすぐに団長の脇から『小さいの』を救出して胸元に抱き寄せてなだめている。それにははっとしたのか、団長もその銀を見やる。
「わ、悪い、無心だったから手加減してねえ……」
「そういうのは無心ではなく暴走です。良い加減にしてください中年」
 やっぱり中年って認識は合ってたか――と思いながらカルドの側に寄って、その制服を支えにしながら荒げた息を整える。そうしながら説明をしなければと、顔を上げた。
「『小さいの』と、団長とで、古代語と共通語の勉強、して、る、途中で」
「それは把握してるからお前も落ち着け。団長、何事ですか」
「古代語の事だ、お前らもちょっと今までの事もう一度確認するのに付き合え!」
「その前に子供脅してんじゃないわよこの馬鹿!」
「それどころじゃねえんだよ! 今までの情報が全くアテになんねえ事がわかった、ヴァルディア連れてこいあいつを通訳にする!」
「研究所が離さないって言ってんじゃない前から!」
「ンなの何使っても良いから撤回させろ今から! 黄金と紫銀なら紫銀のが先だ!!」
「研究所があんな良い実験台手放すと思ってんの!? だいたいヴァルディア連れてくるって言ってもレスティエル様が許すわけ」
「――子共いんのにいい大人が口喧嘩すんなよ!!」
 怒鳴って、また息が上がった。全力疾走の後に叫ぶって相当体力使うんだな、とぼんやり思う。支えに握った先、カルドの制服が揺れて頭に手が置かれた。
「だ、そうだ。イース、団長も、続けるなら外行ってやってくれ」
 沈黙、次に動いたのはイースの方だった。
「……そりゃそうね、悪かったわ、いつもの勢いで……」
「『小さいの』に言えよ……」
 呟けば言葉に詰まったようなのが二人分聞こえて、それぞれに声。子供の声が小さく返されてを何度か会話があったのを境に顔を上げて大きく息をついた。
「すげえ、つかれた……」
「お疲れ様、だな。で、いい大人達は?」
「……すまん」
「気をつけるわ」
「そうしてくれ。団長、用件は聞きますが」
 言葉とともに、目の前に『小さいの』が降ろされてくる。子供がすぐに手を伸ばして脚にしがみついてくるのを、頭を撫でてやっているうちに、気まずそうに説明する、と言った団長がテーブルのそばの椅子を引いて、カルドもイースもそれに倣う。どうする、と問いかけるように見下ろした紫は、目が合ったと思った時にはカルドの背を見やり、こちらを見上げる。それを見てから子供を抱え上げて、カルドのすぐ近くに椅子を引きずってそこに子供を抱えたまま座った。
「今までの話があてにならないってどういう事?」
「俺たちが正確に『小さいの』の言いたいことを理解しきれてない、説明してることの全てを理解できてるわけじゃないってのが解った。ユゼ行かせるんじゃなかったな……あいつの言ってた『聞けばわかる』って意味を履き違えてたんだよ」
「……ロツェであれば、私もイースも扱えるが」
「いや、そういうのですらないな。なんて言えば良いか……映像を言葉にしたらこうなる、って感じだな。それを単語の意味を基準に聞いてたんじゃ表向き通じてても通じてないことになる」
「……よく、わからないが」
「今それができてんの、こいつだけ」
 こいつ、とは言いながらぞんざいに指先が向けられる。そこの説明はこっちに投げるのか、と思いながら、ええと、と句を継いだ。
「今日の朝、陛下との時に、『小さいの』が「夜の陽」って言ってたのカルド覚えてるかな」
「ああ。イースはその時はいなかったか」
 カルドが頷きに次いでイースに確認するように問いかければ、彼女は反動でなのか無言で頷く。それに頷き返して、コートにしがみつくようにして、目元が若干赤く変じてしまっている頬を軽くつついた。素直に見上げてくれるのには頷いて、それからカルドを見やる。
「カルド、『小さいの』に「夜の陽」って言ってくれるように頼んでもらって良い?」
 言われた彼は、不思議そうな表情を浮かべつつ、『小さいの』に声を向ける。子供はそれにはすぐに応えてくれて、それから短い言葉を口にする。
 ――夜の陽。――脳裏に浮かぶのは一人の姿。先程階段の段の存在意義を無視し声を荒げまくった張本人。だが。
「夜の陽、としか聞こえないでしょ? カルドも、イースも」
「……他に何かあるのか?」
「言葉の通りにそう聞こえるけど……」
「これクォルク団長のことなんだけど、たぶん、団で古代語ができる人の中にそれがわかるのって、たぶん父さんだけだと思う。父さんもできてないかもしれない」
「だから情報洗い直ししたいっつってるわけだ、他の母語話者連れてきてな」
「ちょ、ちょっと待って、どういうこと? あたしたちちゃんと聞けてるわよね? 共通語に翻訳するなら夜の陽としかできないし」
「そう、それ。翻訳、って認識自体が間違ってるんだ」
 クォルクが言って、それに頷いて見せれば途端に二人が疑問符を浮かべて眉根を寄せる。それを見て団長がテーブルに頬杖をついた。
「そもそもだ。なんで俺のことを『小さいの』は『夜の陽』なんて言った?」
「……名前教えてなかったから? ……あれ、でも団長の氣って闇と光の両極端……」
「そう。精霊眼だ。氣を見て、氣で人を言い当てる。そこまではわかる、でもなんでこいつがそれだけで俺のことだって解った?」
 こいつ、とはまたこちらを指差しながら。子供には甘いくせに雑な扱いだなと文句をつけるかどうか一瞬考えて、今必要な説明を優先した。
「俺は精霊眼もってないから、団長の氣とかそういうのはわからない。でも『夜の陽』って聞いた瞬間にクォルク団長のことだってわかった。それが古代語の性質」
「……え?」
「単語なんか知らなくても通じるんだ、古代語なら。通じるかどうかが人によるってだけで、聞いて理解するだけなら古代語勉強する必要なんてない。現に俺がそうだから」
 自分自身が実例になるのは妙な気分だ。だが『そう』なのだから仕方がない。でも、と、藍色の二人を見上げた。
「古代語を日常的に使ってないとわからないと思う、し、わからない方がいいと思う。俺は正直、『小さいの』が話してる中で急に『これ』が起こるのは、嫌だと感じてる。なんの構えもできないで感情とか景色とか、そういうのが急に湧いてくるから、……なんだろう、他人に頭の中弄られてるみたいになる」
 『小さいの』の所為じゃないけど、とは言いながら、未だにコートを握りしめたままの子供の頭を撫でてやる。きっと古代語を使い続けてきたなら、そういう感覚も慣れているのだろう。むしろこの場でカルドやイースと話していてそれが起こらなかったことに疑念を抱いているかもしれないし、この感覚を知らない二人でも他人に対しては与えられていたのかもしれない。わからないことだらけだが。
「とにかく、紫旗の敷地の中で『小さいの』の言ってることを正確に聞き取れるのは、現状クロウィルだけだ。が、この無理矢理頭ん中弄られるような感覚があるってのはわかった時点でクロウィルに通訳させんのはナシだ。いくら出入りできてるとはいえ普通の子供が毎日晒されて耐えれるもんじゃない。万が一『小さいの』がそういう意図で呪いの言葉でも吐いてみろ、真っ先に死ぬのクロウィルだからな」
「えっ」
「そういうことだろ。『小さいの』が古代語口にするたびに『小さいの』の感情やらなにやらが他人に伝播する、伝播した他人はそれに対して違和感不快不安恐怖その他色々を抱えることになる。古代語ってのは言語の形した魔法なんだろ、だったら理解できるやつが一番危ない」
 冷や汗を覚えた。この『小さいの』が恐怖に対して硬直して口が利けなくなるたちで助かった、ということだろう、団長の言いたいことは。一番最初に『これ』が起こった時と同じように、こちらにもそれが伝わってくるのだから。
「……ってわけで、クロウィルの耳になんかしらの小細工が必要になった」
「あ、やっぱり俺の方なんだ、なんかするの……」
「そりゃな。推定五、六歳の五感に云々するよりも確定八歳の五感に云々する方が効果も安定するだろ」
「それは、確かに」
 カルドにまで同意をされてしまっては拒否はできない。もとよりこの『小さいの』の言葉を殺す気は無かったのだから、これが正着なのだろう。とりあえず、という団長の声には素直に顔を向けた。
「研究所を最優先で使いてえな。あとは王立図書館か、ならレスティエル殿に図書館とヴァルディアの事を頼みに、……あからさまに眼ェ逸らすなよイース」
「だってあたしあの人苦手なのよ……怖いし……」
「んな怖い人間じゃねえけどなぁあの人も。カルド、頼めるか」
「任されましょう。エディルドを寄越します、構いませんか」
 確認の声はイースに向けてだった。彼女は肩を竦めて、団長に視線が向かう。彼も良いんじゃねえの、という適当な返答をしているのを見て疑問に思って、それから、ああ、と理解した。
「……イース、よく紫旗休まなかったね」
「休暇は今度一緒に長期で取る、って言ってから一年経ってるのよね。嫌な旦那よ、忘れてんじゃないかしら」
「言う割に休暇はよく重ねてるじゃないか」
「あたしがね。わざわざね。予定調整してね。組んでるのよ。エディルドが何もしないから」
「甘えだろ、普通に」
「こんなところで甘えられてもめんどくさいだけよ。カルドももし結婚するなら覚えときなさい、女に男の世話させると破綻するわよ」
「女が男の世話をしていて破綻していない夫婦に言われてもな。団長には言わないのか、それ」
「団長みたいな人外に似合いの女性なんてあたしこの世で見た事ないわよ」
「狭ぇ世界だなおい」
「紫旗の外に出たがらないくせによく言うわー。クロウィルも覚えておきなさいよ、こういう大人になったら相手居なくなるから」
「……ちょっとよく」
 わからない、と言いかけたところで破砕音が響いた。思わず目を向けるのと腕の中で子供が小さく固まってしまうのが同時、もう眼すら向ける気が湧きもしなかった。立ち上がる。後ろに声。
「団長!! ちょっとヤバめのが!!」
「あーちょっと待った待て落ち着け今騒ぐと!!」
 聞きながら、子供をカルドの腕に預けた。見えないようにさりげなく紫の視界を覆ってくれるのには内心で感謝を捧げながら手近の椅子の背を掴んで足の一本を蹴り上げ。
 その勢いのまま、後ろに団長の「怒らせるとヤバいやつが」という声を聞きながら、掴んだ椅子を蹴り上げた勢いのそのままに扉を開いた直後の姿勢で硬直していた藍色に向かって全力で投擲した。




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