「結局あれってなんだったの?」
 ラシエナの急なそれには首を傾げた。何の事だろうと思う間にラシエナも首を傾げる。
「ほら、クロが言ったら、体が動かなくなったり……」
「ああ。それはほら、これ」
 言いながら高襟の中から鎖を引っ張り出す。その先に揺れているのは奇妙な図形を描いた硝子細工だ。ただそれだけのものではないが。
「アミュレット。俺まだ魔法使えないけど、これ使えばできるな、って思いついて、昨日のうちに用意しといた。母さんが同じの持ってるから、融通してもらった、って言うのが正しいんだけど」
「……言ったことを、そのままやっちゃう魔法?」
「そんな感じ、かな。そう思って命令すれば、聞こえた人全員に作用する。規制品だから普通流通してないんだけど、こればっかりは母さんが商人で良かったなって」
「……なんでクロのお母様、そんなの持ってたの?」
「結構命狙われてたりするみたい。しかも一回使ったらその後何時間かで効果が切れちゃうから、予備も含めて持ち歩いてるんだって」
 紫旗の本部で、元通り絨毯の上である。『小さいの』は今は自分の腕の中にいて、こちらに体重を預けてどうやらうとうとしているらしい。肩から被せた砂色のコートがずり落ちないように、大きく揺らして目覚めさせてしまわないように注意深く抱え直す。自分がいなかった間はエディルドとラシエナがこうして冷えてしまわないようにと抱えていたらしいが、夜は落ち着きがなかったとエディルドは言っていた。当然、応接室での事はとうに伝わっていたらしくこっぴどく怒られた。
 あのあとから、『小さいの』は一言も漏らさない。ただ気を張った人間に囲まれていた負担はあったのだろう、本部に連れ帰ってからはずっとぐったりしていると聞いたし、今もこうだ。団長の疲れたかという問いには首を振ったらしいが、疲労、という状態を『小さいの』は知っているのだろうか。
 扉の開く音。今広間には人がいない、団員達は方々に散って行ったらしい。その中でも残っているのはと眼を向ければファリマだった。珍しい、と思っている間に、何かを抱えたまま彼女はこちらへと距離を詰めてくる。
「こんばんは、三人とも。ラシエナ、あと少しで食事の準備が始まるから手伝ってくれるかしら」
「うん、『小さいの』はなんか、ずっとああだし」
 視線がこちらに向けられる。向かい合わせに抱えた『小さいの』の眼は閉じられていて、では眠ってしまったかと思いつつファリマを見上げれば、ふふ、と笑う顔。
「大丈夫よ、そのまま面倒を見ていてあげなさいな。今はこれを届けに来たのよ」
 ほら、と示してくれたのは少し大きめな箱、上には布が被せられている。何だろうと思っているうちに彼女の手がそれを捲って、それで見えたのは小さな菓子だった。ふんわりと焼き上げたスポンジケーキでクリームとナッツや果物を挟み込んだ、ケーキ職人にしか作ることの許されない見ることすらも珍しいもの。目を見開いている間に途端にラシエナが身を乗り出す。
「ミフュレ! ファリマ作れたの!?」
「ちょっと頑張ったのよ。そんなに甘さもつけてはいないから、『小さいの』も食べれそうなら食べさせてあげて頂戴な。今日はみんな頑張っていたって聞いたから、ちょっとしたご褒美よ」
「すごい……でも私今日そんなにがんばってない……」
 ラシエナが乗り出した身をそろそろと引いて行く。ファリマはあらあらと笑っていた。
「正直な子ね、正直者にもご褒美よ。一つ二つつまんだら、手伝いに来て頂戴な」
「……いいの?」
「いいのよ。さあ、私は先に厨房で火を熾しておかないと」
 言って、絨毯に突いていた膝を押して立ち上がる。箱だけを残して彼女は素早く部屋を出て行ってしまって、それで二人で顔を見合わせて苦笑し合う。
「先食べてていいよ、俺は後でもらうから。『小さいの』も」
「そう? じゃあ一個食べたら手伝い行ってくる!」
 そう言って箱に正対して、布を持ち上げて真剣にどれを食べようかと悩んでいる様子には更に小さく笑う。表面に乗せられたアイシングの模様も一つ一つ違うのを、その中でも円を描いた一つを持ち上げる。スポンジの下にはクッキー生地が敷いてある、手で食べるのが正しい食べ方の珍しいケーキ菓子だ。
 紫旗って何で紫旗以外のいろんな免許持ってるんだろう。もしかして紫旗に入ってから取った訳でも無いだろうし、その上ファリマは騎士のはず、と色んなことを思っている間に、幼馴染は小さな菓子一つを大事に食べ終わっていた。早い。そう思っているうちに手巾で手を拭いた彼女はそれを上着の内側に仕舞いながら言った。
「行ってくるね、『小さいの』よろしくね」
「任せて」
 たぶん周りに隠形した大人達が大量にいるんだろうけど。思って見送って、さてどうしようかと思う。まさか寝ている子供を別の場所に動かすわけにもいかないし、かといってこのままではつらい体勢だろう。起こさないように横にとするのが一番だが、絨毯だけでは床の冷たさが伝わって来てしまう。敷く毛布はソファの上に丁寧にたたんで積み上げてあった。たぶん腕が三倍の長さだったら届いたな、と目で距離を測ってから虚空を見上げた。
「誰か……」
 いないだろうか、と、声を上げるが反応がない。あれ、と思う。まさか護衛居ないのか。紫銀なのに。それとも姿を現せない理由でもあるのか、でもそれならそれで声だけでも届けてくれるはずだ。そのままあちこちをきょろきょろとせわしなく見渡しているうちに、腕の中のそれがもぞりと動いて我に返る。見てみれば銀の合間に紫が眠そうに瞬いていて、あ、と声が漏れた。
「ごめん、起こしちゃったか」
 思わず言えば、紫は目をこすりながら上向く。寄り掛かっていた身体が自立して身体が離れて、途端に冷たい空気が吹き込んだかのように寒い。せめて『小さいの』はと思ってコートを肩からかけ直してやれば、紫は眠そうにしながらもこちらを見上げる。目が合う。
 ――しゃべれないの?
 間を置いての、不思議そうな問いかけには息を詰めた。簡素な、いつもの装いに戻した今、長衣の胸元にはアミュレットが一つ揺れている。それを手に取って、そして目を伏せた。
「……『聞こえる者は全て応えを』」
 ――……聞こえる。
 他にはなかった、だから、少しだけ笑って、手を伸ばす。子供の両耳を塞ぐ。意識して息を吸い込んで、一度目を完全に閉じた。深く、言葉を作る。
「『俺は古代語を完全に扱える』」
 言い切ってから、子供の頭を覆うように当てた手を離す。それから、首をかしげた。
「……どう、かな」
「……やっぱり、しゃべれるの?」
 明瞭に聞こえる声。幼い声音は、だが思っていたよりもしっかりとしていた。ただ漠然とした理解ではない、会話だと確信した。
「ちょっと、細工……卑怯なことして、今だけ喋れるようにしてる」
「……かくしてること、ある」
「、……うん、ある」
 言い当てられて、否定しようとして、出来なかった。肯定しかできなかった。何故だと自身に問いかける間も無く紫がぱちりと瞬く。
「嘘はだめ。言えない」
「……どういう事?」
「言葉が、嘘をきらうから。だから、嘘は言えない。とても上手な人じゃないと、できない」
「……そう、なんだ」
「うん。でも、かくすことはできる。かくすなら、聞かない」
「……ありがとな。言える時になったら、言うから」
「うん」
 嬉しそうだと表情を見て思う。同時に嬉しいと思っているのだと感じる。不快はない、不安もない。こういうものだとして扱えば、身体は言葉を拒否しなかった。
「しゃべれるのは、今だけ?」
「うん。他の、この言葉が分からない人が来たら切れちゃうから」
「精霊は?」
「精霊は大丈夫。むしろ聞いていて欲しいかも」
「……なにか、あったの?」
「お昼の時に、部屋に行ったろ?」
 どこの部屋と言わなくとも、通じていることがわかった。そこに誰がいて、誰が何をしたのかも、全ての情報が入った『部屋』という言葉を使える事に感嘆する。これでは口数も少なくなるだろう、言葉の意味は詳細に分かれているのに口にしてしまえばどれなのか、なんなのか、自分も相手も分かっている。理解している。そう理解る。――だからこそ。
「そこで、俺、お前を殺そうとしたろ? ……怖くなかったか?」
 『小さいの』は、不思議そうな表情を浮かべる。考えるような仕草、すぐに声。
「giyrrdって、なに?」
 思わず息を飲んだ。giyrrdは殺すこと、殺人を犯すこと。今まさに自分が口にした言葉、だが、その意味も意図するところも、『小さいの』が発した音には宿っていなかった。
 ――今まで魔導師たちがしていた会話は、上辺ですらなかったのか。紫旗の魔導師であってさえ、古代語はそれほど未知なものだったのか。
「……人間の身体には、血が流れてるだろ? 心臓が動いて、全身を巡ってる」
「……?」
「身体のここに」
 自分の左胸に手を当てる。『小さいの』の左胸を指差せば、紫は自分のそこを手で押さえた。
「いっつも動いてるのが埋まってる。骨に守られて、寝てる間も、起きてる間も動き続けてる」
「……ゆれてるのは、わかる」
「心臓、っていうんだ。それが動いて、赤い水みたいなのを全身に送ってる。赤い水の事を血、って呼ぶ。血が無いと、人間は動かなくなる」
「心臓、も、動かなくなる?」
「うん。血はたくさんあるけど、体から抜けていく事もある。抜けた血が多すぎたら、心臓にも血が無くなっちゃうからな」
「……szyrrw、は、なに?」
 後ろ帯に手を伸ばして、銀色の柄の短剣を引き抜く。少しばかり歯を食いしばって、右手に持ったその切っ先で右の手の平に一直線を描けば、たちまちに熱と痛みと、赤が流れる。
「これ。これが血。身体の中に、心臓のおかげでずっと流れてる。流れが止まっても、人間は動かなくなる」
「血と、心臓が、動いてないと、動かなくなる?」
「そう。そうやって人間が動かなくなって冷たくなるのを、死ぬ、っていう。心臓が止まるのは血が無くなった時だけじゃない、息を吸う事が出来なかったり、首の骨が折れたりですぐに死ぬ事もある。痛いと思う事が無くて、苦しくもなく死ぬ事もある」
 紫は聞きながら、どんどんと疑問符を浮かべているようだった。――フェリスティエが言っていた、記憶は消されたか奪われた可能性があると。だからといって、ここまで失うものなのか。
「……動かなくなったのは、死ぬ、ということ?」
「うん」
「心臓と、血が止まると、動かなくなる」
「うん」
「……siffyzとvitewqは、なに?」
 手巾を取り出して、血の流れる右手に握り込む。そうしながら左手を伸ばして、『小さいの』の耳朶を軽く摘んだ。
「これは、ただ触ってるだけ、だな」
「うん」
「じゃあ、ちょっと力入れてみるな」
 親指と人差し指で摘んだそこを強く押し潰す。途端に肩を跳ねて身を引いた紫銀からすぐに手を離せば、紫は右の耳を押さえながらこちらを見上げて、涙目になりながらも疑念を浮かべていた。
「今のがsiffyz、痛いということ。ごめんな、嫌だったろ」
「……あつくて、じんじんする……」
 銀の頭を撫でて、肩から落ちてしまったコートを掛け直してやる。治してやれないのが歯痒い。思いながら、今度は、と説明を続けた。
「息、呼吸を止めてみろ」
「……息、できなくなったら、動かなくなるって、さっき」
「すぐにじゃない。大丈夫、でも俺が良いっていうまで止めててな」
 不思議がる『小さいの』は、それでもこくんと頷いてくれる。じゃあ息を吸ってと促して、目一杯吸ったと思ったところで軽く口元を押さえてやる。
「少しこのままな。ゆっくり十数えるから、それまでは吐くのも吸うのも駄目だぞ」
 こくんと頷いたのを見て手を離す。声に出して、ゆっくりと数を数える。三を迎えた頃に表情が変わって、五を超えた時には両手が口も鼻も押さえていた。七を越えれば身体が前傾して、そして十と同時に、ぶは、と手が離れて大きく早く呼吸を繰り返す。背中を撫でてやりながら言った。
「これがvitewq、苦しいこと。大変だったろ?」
「しんぞう、どくどく、してる……」
「息が出来ないと、心臓が血に必要なものが集められなくて、頑張ろうとするから、動きが早くなるんだ。走ったりした時もそうなったりもする」
「いたい、と、くるしい、は、これでぜんぶ?」
「ううん、もっとある。俺は今さっき切った手が痛いし、お前に辛い事させて、少し苦しく思ってる」
「……?」
「目に見えるものだけじゃないんだ。痛いのも、苦しいのも。たくさんの種類がある。痛いのの一番強いのは、それだけで死んじゃう事もあるし、苦しいのがずっと続けば他のところも悪くなって、自分から死のうとする事もある」
「……frywqe、って、なに?」
「人が、二度と動かなくなること。……それだけじゃない。色を無くすことかもしれない。色んな人から見向きもされなくなる事かもしれない。でも、frywqeは、皆が怖がって、恐れて、遠ざけようとする。死んでしまったら、後にはなにも残らないから」
「……残らないのが、いやなの?」
「理由はそれだけじゃないよ。好きな人と一緒にいたいとか、もっとたくさん美味しいものを食べたいだとか、そんな理由もあるだろうし、それは変な事じゃない。でも理由はどうあっても、自分から死のうって思う人は、たぶん、少ない」
「vufuyyce、は、なに?」
「……お前が、あの二人に対して感じた事」
 あの二人、と言った途端に『小さいの』の肩に力が入るのが分かった。手を伸ばして抱きかかえる。肩と背を軽くあやすように、力の抜けるように叩いてやって、そうしながら銀色を梳くように撫でた。感情を表す言葉はこうなってしまうのか。それとも体験からなのだろうか。
「大丈夫、大丈夫だから。今はもういないし、しばらくの間は見る事もないから」
「……あのひと、たち、力、つよくて」
「うん」
「いや、だったのに、レティシャと、エディと、いっしょじゃなくなって、」
「うん」
「こえ、大きくて、」
「大丈夫、お前に怒ってたんじゃない。お前を守ろうとしてくれてたんだ、それは、わかるだろ?」
「……うん、エディが、かくしてくれた」
「あったかかったろ、その時」
「……うん、……こわかった、けど、エディは、大丈夫だった……」
「安心する、っていうんだ、そういうの。あったかくなったり、ほっとしたり。あったかいのは、団長とか、レティシャとか、たくさんいるだろ?」
「……うん」
「もし次怖い事があったら、あったかいところに行けばいい。絶対に、何があっても守ってくれる」
「クィオウィラィルは?」
「……俺は、もっと強くなってからかな。あそこで盗み聞きしてる人たちが教えてくれるはずだから」
 左の手を右肩に回して、指差した先は暖炉の陰。紫が瞬いて首を傾げて、立ち上がって見てみる先に振り向いて見せれば、藍色の制服の父と、いつも通りコウハの衣装姿の母、そして団長。
「……団長、これって警備ガバガバってこと?」
「警備はしてんだけどな、正式に押し入って来たら無理だっつの」
「正式?」
「陛下の許可はもぎ取……頂いておりますよ。まあまあの及第点です、安心はできませんが」
「どこから聞いてました?」
「死の話からです」
 暖炉の陰、口元を扇で隠して目を伏せた横顔。母のこういう仕草はちょっと気不味い時の癖だ。本人も自覚はしているだろうから意思表示だろう、望んで隠れ聞きしていたのではない、という姿勢である。たぶんわざとだ。言ってからさて、と扇を下ろした母がこちらに近付いてくる。見上げた『小さいの』は、見上げながらも腕の中に戻って来た。少し警戒しているようだとその様子を見て思っているうちに、自分の横に母が優雅に腰を下ろした。
「きちんと説明をしていませんでしたね。わたくしはこれの母です」
 これ、とは同時に扇で指し示される。紫は腕の中から、よりこちらに抱きつくように母からは距離を空けつつ、恐々とそれに向かって口を開いた。
「……しゃべれる……?」
「ええ、クロウィルと同じです。これを使って、一時的にあなたの言葉が使えています」
 今度のこれ、という言葉とは同時に腰帯に垂らされた硝子細工のようなものが吊られているのを示す。見上げて来た紫には頷いた。
「そう、さっき俺がやったのと同じ。で、この人が俺の母さん」
「……おかあさん」
「ええ。フィメル、とお呼びなさい、そう名乗っておりますから。あなたの名前は?」
「……フェイリェル・レスィアレナィアディア=アーカシャード……」
「フェイリェル・レスィアレナィアディアですね。こちらの名とは違って、とても意味深い名です。大事になさい」
「……?」
 紫は首を傾けていたが、それは自分も同じだった。お前は知らなくてよろしいと言わんばかりに軽く頭を扇で小突かれて、その間に父と団長が向かう合うように腰を下ろす。そうしながらの父の声。
「結界張った、この会話は外には聞こえないから続けていい」
「わかった。『小さいの』も大丈夫?」
「……わたし、ちいさい?」
「あ、えっと」
 いつもの呼び方が勝手に出て来てしまっていた。意味も通じてしまっているだろう。団長が小さく笑う。
「お前の名前、難しいからな、そうやって呼んでんだ皆。小さいからな」
「……ちいさい」
「大きいばかりが良いことではありません、貴女はまだ子供だから小さくて良いのです」
 ――まあ年相応にしても小さいよな。聞こえた父の声は共通語だった。黙りなさい木偶の坊。返しも母の共通語だった。これが愛情表現だということにしておこう、この二人に関しては。
「呼び名を考えなければなりませんね」
「……なまえ、二つ、あるの?」
「二つの場合も三つの場合もあります。わたくし、フィメルは、フィメルという呼び名です。本当の名は隠しています」
「かくすの? どうして?」
「とても大切なものだから。わたくしの本来の名を知っているのは、わたくしと、夫であるユゼだけです。母と父も知っていましたが、すでに他界しておりますから」
「……pheyyrt?」
「死ぬことの、別の言い方です。この世界ではない、他の世界に行ってしまった、だからこちらでその人の身体も心も魂も動かなくなってしまうことです。身体とは、こうして手に触れられるもの」
 母の手が伸びて、見上げる紫銀の頬に触れる。撫でながら、更に言う。
「心とは、感情を受け取る場所。悲しいも苦しいも楽しいも嬉しいも、感じることができるのは心を持つ証。心臓の近くにあると思う人が多いですが、眼に見えるものではありません。魂は、もっと難しいもの。魂を失うことは死んでしまうこと、生きる心を失ってしまうこと、そして稀には、身体から魂だけが抜け出て天界に登ることもあります」
「……しぬ、は、たくさんある?」
「ええ、とても沢山あります。人間の一生のうちで死ぬことを理解するのはとても難しい、様々な死の、全てを知ることもできないでしょう。全ての様々な物事がそう、多様にありすぎて難しいものなのです。わからないことがあれば訊いてみなさい。知りたいことがあれば調べてみなさい。貴女はまだ何も知らない」
「……知るのは、良いこと?」
「多くのことに関してはその通り。知りすぎる事が苦痛になることもあります。それでも理解しなければならないこともある。知ることを恐れる必要はありません、知って恐れを覚える心を恐れなさい。恐怖は自分の心から生まれるもの。自分の心を知ることで、恐怖も抑える事ができるでしょう。あの二人なようなものにも恐怖することもなくなります」
 腕の中で再び『小さいの』の身体が硬直するが、それでもゆっくり解けていく。それに頷いてゆっくり、慎重に銀に触れて撫でてから、こちらを向いた母の手が首から魔法具を丁寧に奪って行く。
「もう『全員宜しい』。貴方様、団長殿、ご理解頂けましたか」
「……あー……」
「貴方様」
「わーったよ……ったくこの歳になって全部やり直しか……」
「愚痴る前に復習でもなさいませ」
 ――……もう、おわり?
「今はこれで終わりです。貴女の言葉を語れる人は変わらず語らえます。ですが、貴女はまず、こちらの言葉を知ることから始めなさい」
 父が訳して伝えてくれる。紫はそれを聞いて紅玉を見上げて、それから首を傾けた。
 ――知る、のは、むずかしい?
「貴女の周りの皆が教えてくれます。物の名前、事を示す言葉、心を表現する言葉の使い方。貴女の言葉はしっかりとしています、まるでずっと大きな子のように。ですから、大丈夫ですよ」
 驚いた。母が『大丈夫』と口にするのは珍しい、しかもコウハでもない商会の人間でもない、完全な他人に対してなど。『小さいの』は、それに目を瞬いて、頷いた。
 ――がんばる。
「そうなさい。団長殿、わたくしができることはここまでです。わたくしは商会と夫の一族を守らねばなりません」
「十分以上だ、有難い。……こりゃほんとうに母語話者連れてこねえとだな」
「ああ、その事ですが」
 扇がぱらぱらと開かれる。そうしてゆったりと、母は口元を隠した。
「少し経ったころ、研究所の方から差し出して参ります」
「…………」
「その代わり武装品は可能な限りわたくし共をお通しなさいませ」
「…………ほんと商人だよあんた」
「よく言われます。当人のことは団長殿の方が良く知りなさっているでしょう。あとは図書館長殿を説得なさいませ。春の試験が終わるまでは難しいかと思いますが」
「あーそうか拝樹試験の準備中かあいつ……」
「口利き程度は無償でやりましょう。あとはお任せします。クロウィル、『妹』に何かあれば母にも相談なさい。妹の兄がお前なら、妹の母もこの母です。十分以上の『身内』ですから」
「、……有難うございます、母さん」
 そういうことだったか。そう理解すると同時に安堵が浮かぶ。既にディアネル商会の身内はグラヴィエントの身内でもある。一体どこまでが母の画策で、どれが偶然だったのだろう。思いながら『小さいの』を見れば、見上げていた視線と鉢合わせになった。
 ――フィメルが、おかあさん、なら、クィオウィラィルは?
 ――兄さん、になるな。
 ――……おにいさん?
 ――きょうだいで、自分より先に生まれた男は兄、女は姉。自分よりあとのは、男は弟で女は妹だ。だからお前は、兄さんの、妹。
 ――……かあさんと、とうさん……おとうと……。
 ――弟?
 ――……クィオウィラィルが、わたしの、おにいさん?
 眼は合ったまま。頷いてやれば、頷き返してくれる。団長を見れば、難しい顔をしていた。




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