どうやら『小さいの』は兎耳のそれを気に入ったらしかった。気付けば銀の髪も二つ結びに直されている、癖がついてしまっているのは三つ編みのまま寝てしまっていたからだろう。
「あの……」
 声を上げれば横の方から何人かの視線がこちらに向かうのがわかる。違う、そっちじゃない、とは思いながら、目の前の『小さいの』の手の中のものを指差した。
「気に入ったのか?」
 藍色の石。コウハの女子供は髪に編み込む髪紐は途中で長く垂れるようにするのが主流で、完全に編み込んでしまうような、王都で見かけるような女性や子供のそれとも違う。そうして垂らした時に紐が髪の中に埋もれて絡んでしまったりしないために、紐の先には何か重しになるようなものを結んでおくものなのだが。
 どうやら揃って寝ているうちに髪紐が緩んでこれが転がり落ちて、どこかで一度目を覚ましたのだろう『小さいの』が握って同じく二度寝した、が、この石の行方の真相らしい。一人が近付いてきて傍に膝をついて目線を合わせてくれる。黄金。
「大事なものか?」
「そこそこは……宝石職人の姉さんが、初めて研磨して仕上げたものだから、って、くれたやつ」
「なら遣るわけにもいかないな」
 あっさりと言い切って、ヴァルディアの声が『小さいの』に向く。何度か短いやり取りがあって、その最後には黄金のほうが難しい顔をして口を噤んでしまうのが見えて、え、と声を漏らした。
「……ユゼ」
「なんだ」
「コウハの職人は魔石まで作るのか?」
「……は?」
 水を向けられた方、父がそれで椅子から立ち上がって近付いて来る。三人が古代語の会話を連ねていくのを、本当に聞こえなくなってしまったな、と新しいピアスを指先でつついているうちに、父が首をひねる仕草が見えた。
「……魔石作るってのはまだできないはずだけどな、あいつ。これも魔石じゃあないし」
「……とりあえず、あると安心するらしい」
「お、おう……?」
 疑問符だらけの会話に、最後には黄金がこちらを見て言うのには、素直になんだそれ、と思いながら『小さいの』を見やる。紫は両手で握り込んだ石を見下ろしていて、身体がなぜか傾斜していくのに合わせてフードから垂れる長い耳がゆらゆらと揺れる。
 ――一番幸せそうだったのはラシエナよりもレティシャに阻まれていたディストだった。そういうことかと団長が言葉を濁した意味も察して、なんとなくディストの視線を遮るようにして絨毯の上に座り込み、目の前には『小さいの』を据えている。相変わらず少食気味な様子も、レティシャが騙し騙しなんとか八割程度まで食べさせて、それを見届けてから父に小言を貰い――という経過は措いて、石の行方が分かったのはその食事の時だった。
「共鳴石、ならわかるんだが」
「ともなき……?」
「命石に次いで重要だが、見つかれば稀有なものだ。命石自体の持つ力とそれを所持していた人物との氣の相性が非常に良い時に命石に使っていた宝石が魔石様に変化する。その命石に相性の良い別な人間が触れれば魔石のような……端的に言えば身体的な負担も魔力回路の疲弊も抑えられる」
「効果を見れば便利石ってところか。……案外良いのかもな、クロウィルと『小さいの』の相性も」
「だと思うが。氣の性質同士も良い、反発しているようには見えない」
 今度は打って変わって共通語だけの会話に、眼を上げた『小さいの』の表情には疑念が浮かんでいる。その眼がこちらを向いたのと、声とは同時。
「クロウィル」
「……うん?」
 名前は、もう完全に共通語のそれと遜色ない響きになっている。言葉を探すように紫はもう一度手の中のそれを見下ろして、少ししてからまた見上げられた。
「クロウィル、の、うみ」
「海?」
「う、ん」
 予想していなかった言葉が出てきたのには眼を瞬いて、その驚きのままにヴァルディアの方を見れば、ああ、と声を落とした彼はずっと抱えていたのか一冊の分厚い本を差し出してくれる。なんだと思って開いて見れば辞書だった。即座に閉じる。
「荒療治……」
「その方が早い。細かい意味合いはやむなく古代語との対応にはなるがな。……海、『――』は、根源、根幹、無意識、茫洋とした広いものまで指し示す。――――――?」
 解説に続いて問いかけた彼に、『小さいの』はすぐに言葉を返す。ヴァルディアはその答えにああ、と納得したような声を落とした。
「夢」
「……ゆ、め」
「海、ではない。夢、だ」
「ゆめ。クロウィル、の、ゆめ」
「よし。……だ、そうだ。クロウィル、最近夢を見た覚えは?」
「……ない、けど」
 すぐに覚えたらしい『小さいの』の様子と、問いかけられるそれには両方に向かって眼を瞬かせながら答える。ユゼが横から手を伸ばせば『小さいの』はすぐにその掌に石を預ける。立ち上がった父が石の上に何かを描き始める。燐光が立ち上って文字に変わる、文字が円陣を描いて大きくなっていくのには見上げたまま驚いて、同じように驚いて身体を硬直させたらしい『小さいの』を膝に抱え上げた。素直にしがみついて来る、それに安堵しているうちにほとんど真上からの光は唐突に消える。父は変わらない表情のまま、それをこちらに差し出してくれた。
「ほら」
「う、ん……えっ?」
「軽く調べてみたけど共鳴石でもなければ当然魔石でもないな。なんで執着するのか……」
 掌に受け取れば、『小さいの』がそこに手を伸ばす、申し訳ない心地を覚えながらも手早く髪紐を通して括ってしまえば、肩よりも下の位置に垂れるそれを片手で捉えて、それで満足したらしい。どうにも言えないまま、フードの下の頬をつつく。
「夢って、どんなのだ?」
「どん……?」
「えーと……具体的には」
 通じなさそうだな、とは思いながらも言い換えてみる。紫は眼を瞬かせて、それから口を開いた。
「ながい、うごくの」
 通じた。どんな語彙から教えてるんだろうかヴァルディアさん。思いながらも脳裏に浮かんだのはミミズだった。たぶん違うよな、と、疑念とともに復唱した。
「長くて動くやつ……?」
「ほん、の、いろ」
 本、とはヴァルディアから受け取った辞書を見やる。本の色、は、濃い紺色。苦笑した父がすぐ傍に胡座してその辞書をさらっていく。
「色の見本のことだろ、ほら」
 巻頭、開いてすぐのページには種々様々なインクで該当する色の名前が書き連ねてある。そういうことかと納得して見開きを示された『小さいの』は、いくつもの見開きのをじっくりと見つめているようで、探し当てるのを待つ間に隣で様子を伺っている黄金の方を見る。すぐに気付いたのか、視線が合った。
「どうした?」
「いや、『小さいの』、共通語覚えるの早いなって思って。ヴァルディアさんも古代語が母語だって聞いてるけど」
「ああ……古代語からすれば共通語の方が癖がある。それを先に教えた、だからあとは意味と言葉の対応、発音を覚えれば良いだけだな」
「……それだけ?」
「文法は古代語、オフェシスの方はだが、その方が遥かに難解だ。ロツェは強い語彙から並べていく、という大原則でこれもやはり文法の縛りが強い。較べれば『どう繋げても言葉になる』共通語の方が簡単だろう」
 言われて、確かに、と、今は背を見せて見開きを見つめているその後ろ頭を見やる。単語を並べさえすれば片言でも会話になる。古代語はそれができないのかと婉曲な理解に団長の習得速度に感嘆を重ねているうちに、腕の中の『小さいの』が動いて視線を戻した。その手元を覗き込む。見開きの最後、見開きの片方の中央にそれだけ大きく書かれた色名。
「……く、ろ」
 ――黒。理解した瞬間総毛立った。喉が凍る。何も言えないままの中で父の声が聞こえた。
「分かった、ありがとな『小さいの』、レティシャのところ行ってろ。ヴァルディア、頼む」
「……ああ」
 声を向けられたヴァルディアが、『小さいの』の顔を自身に向けさせて手招く。来い、という言葉と同時のそれに『小さいの』は素直にその手に捕まって立ち上がる。離れる前に一度紫がこちらに向くのが分かっても見返せなかった。すぐに他からの視線を遮るように膝を突いた父の手が肩を掴む。重さを乗せて、大丈夫だと言わんばかりに。
「支部行くぞ」
「、でも、」
 やっと声が出せても、掠れて震えているのが自分でも分かった。父の声はすぐに上から降ってくる。
「母さんのところが一番だ、疲れもあるんだから一回ちゃんと休んどけ。無理はすんな、お前ももう紫旗の子弟だ、『他人は守れ』、いいな」
「……うん、……ごめ……」
「仕方ない。気にすんなとは言わないがな、あのこと自体はもうどうにもならない、引っ張られんな。もう大丈夫だから帰ってきたんだろ?」
「……ごめ、わかんない……」
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。何か考えなければならないのに何も浮かばない、なのにありとあらゆることが浮かんでは重なり合ってわからない。ソファの上に放置されていたコートが肩に乱雑に被せかけられて、それでようやく全身が硬直していたことに気付いた。詰め殺されていた息を吐き出す、ゆっくりと吸う、それだけに意識を向ける。合間に父の声が他方を向いていた。
「クォルク」
「うん?」
「一旦休ませる。体力的にも限界っぽいしな」
「……ああ、分かった。風邪とかではないか、大丈夫か?」
「たぶんな、でも明日一日休ませても一気に疲れが戻ってきてってこともあるかもしれん、風邪でも引かすとフィメルが怒るんでな、避けさせてくれ」
「それ多分俺も連座でなんか言われんだろうな……わかった。元々子弟つっても住み込みで雑用して訓練してなんて繰り返してんのクロウィルしかいねえし、ラシエナはそれにくっ付いてるだけだしな、バテても仕方ない」
「え、そうなの?」
「本当に子弟ってのは、本部で訓練よりも先に部隊の雑用なんだよ、手順通りにすればな。お前たちは俺たちから声かけたから別だけど。にしてもお前は元気で良いな、ラシエナ……」
「リア兄が「毎日食べて寝てたら大概なんとかなる」って言ってたから!」
「……おう、……真理だな……」
 遠くで会話がある間に背を叩かれて立ち上がると同時に抱え上げられる。何か希薄な、分厚い膜を突き抜けるような感覚は父の制服の肩に顔を押し付けている最中にあった。これが隠形のそれかと思う。早足に移動する間に背中を叩く手の感触。
「数数えてろ、百のうちに落ち着くから」
 子供をあやすように、ゆっくりと、止まることなく背を叩いてくれるそれのことかと、素直に眼を閉じて、その感触だけを追う。その感触の数だけ数えることに集中しても、次第にいろんな音が聞こえてくる。
 さざめくよりも大きな音。囁きを粗く大きく拡大したもの。意味のない叫び声、聞きながら数を数える。嘲笑、歓喜、憤怒憐憫幸福喪失なにもかもが音になって降り注いでくる、それを聞きながら、意味を理解しないように聞き流しながら数だけを数えていく。
 誰かの声が誰かを嘲って悲しんでいた、理解しても振り払う、なのに頭の中がすぐに塗り潰されてしまう。今度は女性が誰かに罵声を吐き捨てる憎悪、それを見て泣き叫ぶほどの充ち足りたもの。数えた数が塗り潰される。覆い隠されて見えなくなる。
「――とうさん、」
「大丈夫だ。数えろ」
 背を叩く力が強くなる。自分の耳の奥の鼓動より強い衝撃を生むそれになんとか食いついて、頭の中に数字だけを思い浮かべる、それ以外は排除する、それでも音が消えない。音は人の声だ、声にならない人の声。感覚、感触、背を叩く手の感触がそれらに阻まれて遠くなるのもなんとか探し当てて数だけを数えて、一度巻き戻ってゼロになってしまった数が七十を迎える前に再び何かを突き抜けるような感覚があって、瞬間、周囲の音が爆発でもするかのように頭に叩き込まれて耳を塞いだ。
 眼を閉じる、食い縛った歯の間から漏れ出る呼吸の音がまるで獣のようだと塗り潰されていく脳裏の端にぽつりと浮かんだ。浮かんですぐに見えなくなった。数もどこにあったかわからない。
「クロウィル」
 声が聞こえる。ありとあらゆる音が鳴っている中でそれだけ一際大きく響く声。
「クロウィル、――『クロウィル、こちらを見なさい』」
 命じられて、必死に閉じていた眼が開かれてしまった。見上げて見えたのは紅。銀色。
「『お前の耳に聞こえているものは声でも音でもありません、聞いてはなりません』」
 それが聞こえた瞬間、叩きつけるようだったそれが一気に消えた。全身から力が抜ける。
「……かあ、さん……?」
「『これから命じることを守りなさい。お前はこの母の許しなく”衝動"を起こしてはならない』」
 全てが禁じる言葉。それにやっと安堵した、この人なら止められる、それを自分は知っている。
「『お前はこの母と草木以外に手を掛けてはならない』」
 身体に感覚が戻ってくる、どうやら自分は、父に抱えられた格好のまま、母の手に支えられてこの色を見上げているらしかった。――安堵する、この人なら『塗り潰せる』。
「『お前はこの”衝動"を覚えてはならない』」
「『お前はこの”衝動”を抑える術を知ってはならない』
「『お前はこの”衝動”に関する知識を持ってはならない』」
「『お前は十五になるまでコウハとして生きなければならない』」
「『お前は十五になるまで”グリヴィアス”になってはならない』」
「『お前は生涯に渡って”グリヴィアス"であることを明かしてはならない』」
「『お前は生きる限り、”グリヴィアス"であることを知られてはならない』」
「『この全てを、この母の許しなく破ることはお前には決して許されない』」
「『お前は”守る者"なのだから、守るに相応しい者に出会うまで、この命令に逆らうことは許されない』」
 そこで音が途切れた。声が途切れたから無音になったのかと理解した。やっと呼吸ができた、全身が重かった。
「……良いですね、クロウィル」
 はい、と返す。そのまま母の手が瞼に被せられて、無理やりでなく目を閉じた。
「休みなさい。眠って、忘れなくてもいい。恐怖を覚えるのなら、それを受け容れなさい。お前の責任ではないのです、お前の抱えるそれは全て、この母に向けなさい。総てこの母の瑕疵なのだから」
 そんなことはない。言おうとした言葉は、半ばまででも言葉になっただろうか。



「……ねえ、団長」
「うん?」
 レティシャとヴァルディアに囲われるようにして、辞書と書き付けとを挟むようにして拙い共通語の会話を繰り返すそれを眺めているところに、テーブルを挟んで真正面に座った少女に呼びかけられるのにはすぐに目を向けた。陶器のカップ、紅茶を手にしてその水面を見下ろした色違いは、そのまま声を続ける。
「何か、隠してることあるよね。クロのこと」
「……まあな」
「知られたらいけないこと?」
「お前にはまだ、だな」
 言えば、静かに肩が落ちていく。不安なのだろう、あの様子を見て。唐突なユゼの声、一言も漏らさずに連れられて行った幼馴染。
「……クロのことだけじゃないよね、ディアさんのことも、『小さいの』のことも」 「寂しいか」
 言い当てれば、少しの間を置いて頷く仕草。素直な子供だと、小さく笑った。
「……『小さいの』だけどな」
「……?」
「父さん、って呼んでるのと、お父さん、って呼んでるの、別人だ。母さんとお母さんも、兄さんとお兄さんも。全く別の言葉だ」
「……それ、って……?」
「推定六歳だな、今の所。食べることも飲むことも知らなかった、空腹を感じてたかどうかもわからん。その様子は見てたな」
「うん、……変だなって、忘れるって、そんなところまでって思わなかったから」 「忘れてるんじゃない。奪われてる。誰かに」
 色違いは、ゆっくりと瞠目した。――揃いも揃って聡い子供だ、教えなくとも、もう少しもしないうちに気付くだろう。その可能性に。自分で気付くのも、それでもよかった。だが教えてやった方が、この子供は変に抱え込むことをしなくなるだろう。『訊いて良いのか』などという無意味な悩みを負わせるつもりはなかった。だから言った。
「紫旗が見つけたんじゃない、『見つけさせられた』んだ、誰かに。キレナシシャスに紫銀がいることに利のある誰かがそう仕組んだ。推測だがな」
「……じゃああの子、」
「普通に言われるような記憶喪失じゃない。もう『無い』んだ、丸っきり全部な。レティシャの話じゃ寝ることすら知らなかったらしい、んなの異常ってだけで済まねえ。ただ言葉だけは全部持ってる、記憶はないのに使い分けは知ってる。今それを探ってるところだが、あいつに言わせればその程度の言葉の使い分けは個人の差が大き過ぎてなんとも、らしい」
 あいつ、とは、こちらの会話は聞こえていないだろう、少し遠い黄金を見やる。振り返ったラシエナもそれを見てか、細く息を吐き出しながらカップをソーサーに戻す。
「……クロがね、言ってたの。「帰れるといいな」って、あの子に、何度も」
「ああ」
「私も、そう思う。……そう、思ってた」
「ああ、……だな」
「……団長たちは、色々、あるかもしれないけど……」
 言い淀むのがわかる。苦笑した。何が言いたいのかはわかる、――それで随分、紫旗も迷ったのだから。人として。主君を仰ぐ師団として。どうあるべきか、何をするべきか。こんな子供が進んで背負うような悩みではないのにとは、内心に嘆息を落とす。それでも表情は苦笑のままに保って促した。
「構わねえよ、言え」
「うん、……団長たちみたいに、役目とか、そういうのじゃなくて……あの子のこと一番気にしてるのクロだと思う、『兄さん』だからとかじゃなくて。だから……引き離したりとか、しないよね……?」
「……悪いな、確約はできない」
 色違いが落ちていく。それでも消沈の色も望みを断たれたという表情でもなかった。やはりそうなのか、という、諦觀に近いだろうか。
「『小さいの』は、元の場所に戻せたとしても戻すとは言い切れない。陛下はそのおつもりだが、俺たちに紫銀を見つけさせた奴が何を考えてそうしたのかがわからないうちは駄目だ。その上それがなんなのかがわかった頃には、もう遅い。『小さいの』は『キレナシシャスの紫銀』になってる」
「……うん」
「だがクロウィルに関して言えば望み薄ってわけでもない。玉命がある、それを楯にして紫旗がクロウィルと『小さいの』を同じ場所に押し込んで守るってのはできる。そこにお前を巻き込めるかどうかは運としか言い様がない、不確定要素だらけだからな」
「私はいいの、……『小さいの』のこと可愛いって思って、好きだけど、クロみたいに、自分のことみたいには考えられてないから」
「……上の世代が奔放だと苦労するな、お前らは」
「え?」
「八の子供の考えて言うことじゃねえって言ってんだよ。……確約はできない、『最善は尽くす』。それでいいか」
「……うん。……あのね、団長」
「うん?」
「私、学校行く」
 ――面食らった。正直そうとしか言えなかった。学校とこの子供が言うのならそれは士官学校だろう、だがそれは。
「学校行って、ちゃんと勉強して、……大丈夫そうなら、紫旗に入りたい」
「……公爵は、」
「父様にも母様にも言った、ちゃんと、学校行きたいって。フェス兄さんの後を追っかけたいんじゃない、リア兄みたいに協会に行くつもりもないって。紫旗は、護衛が役目でも、皆あの子のことちゃんと考えてる。私も考えたの、あの子が家に帰れないなら偽物でも真似事でも良いから家族を作ってあげたい、周りの人間が全部護衛だけ、召使いだけってなったらきっと辛いからって。……紫銀なのは変わらない、でしょ。今までの『紫銀』の記録見たよ、……酷いよ、あんなの。人として扱ってないみたい」
「……だから、紫旗に入る、か? 紫旗に入って『小さいの』の護衛に、か」
「うん。……私が、公爵令嬢のまま、友達になることはできると思うんだ、でも友達って、違うと思う。いくらでも裏切れるもん、そんなの。嘘もつけるし騙しもできる。……そういうの味わわせたくない、……甘やかしなのかもしれないけど、外面だけで付き合うよりも、自分の大事なもので大事なもの守るほうがアイラーンらしいし、私自身もそっちの方が……たぶん、好みなんだと思う。自己満足だけど」
「ちょっときついこと言うぞ」
「うん」
「今俺にそれを言うなら、お前が命賭けてあれを守らない、守れないのなら俺が殺すことになる」
 表情は、予期していたというそれだった。だから迷わずに続ける。
「俺は騎士だ、お前も魔導師にはなれない、素質が無いからな。だから剣の訓練を許した。騎士見習いが騎士に宣言するってことはそういうことだ。わかってるか」
 息を飲む音は、どうやら押し込められたようだった。この子供は、いつもこうだ。抑え込むことに慣れ過ぎている。そもそも感じ取っても全てを丸め込んで飲み込んでしまう幼馴染とは違う。全て真正面から受け止めて、いくら深く突き刺さったとしても何もなかったかのような顔をする。
 呼吸の音、困ったように笑う声。色違いが浮かべるにしては下手な作り笑いだった。
「……ちょっとじゃないよ、それ」
「もっと過激な言い方するか?」
「怖いからやめといて。……わかってる。父様にも言われたから。……正式に紫旗の子弟にしてほしい。どこまで行けるかわからないけど、いけないならいけないで、半端でも覚悟するから」
「わかった」
 二言があるかどうかの確認など必要ない。左手を虚空に持ち上げれば固い感触が掌に落ちてくる。団長、と、迷うように囁くイースの声には無視を通した。
 決めたのなら、もう『子供』ではない。だから引き止める意味も無い。
「教官はエディルドだ、今までの通りの訓練とは変わる。団員の指示と命令には何があっても従え。団長として子弟ラシエナに命令することは一つだけだ、『死ぬな』」
「……はい」
 硬く重い音を立てて、銀の短剣を色違いの目の前に置く。小さい、まだ柔い両手は迷わずにそれに触れて持ち上げた。
「拝領します、クォルシェイズ団長」
「ああ。……訓練漬けになるのもそうだが、ちゃんと相手もしてやれよ。じゃねえとエディルドに取られたって拗ねるからな、『小さいの』が」
 言えば振り返って『小さいの』を見やる。すぐに視線をこちらに戻して、力の抜けたように笑った。
「わかった」




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