広間を出れば、ご案内を、と宙から浮き上がるようにして姿を見せた一人の紫旗が母に会釈するのが見えた。母を見れば、紅はこちらを向く。
「わたくしにも一隊、頂けたと」
「……なんか、ごめん、イース……」
「良いのよ。フィメル様、これよりの道は記憶なさらぬよう願います」
「ご安心を。わたくしは元より道には疎いこと極まりなくあります故、地図に記されない道は到底記憶のしようもありません」
 迷子癖あるんだよなこの人、とは、内心に呟いた。殆どの交易路は地図に書き記して、それを覚えているから良いが、そうではない、こういう大きな街の路地裏の入り組んだ場所は覿面ダメな人なのだ、何度探し回ったか。思いながら、えっと、と声を挟んだ。
「俺らも覚えない方が良い?」
「そうね、お願いするわ。ヴァルディアは大丈夫だけれど」
「え?」
「俺も直接の本部の正門から入って来てはいないからな」
 目を向けた先、さらっと言ってくれたそれは、彼にはもう慣れた道であるということか。こちらへ、とイースが示したのは、普段は立ち入り禁止と厳命を受けている、この本部の屋敷の端にある、下、地下へと続く階段。紫旗の指先が宙を滑って、窓の無い壁に吊るされた明かりが一斉に灯る。長い階段だとそれを見下ろして思って、段に足をかけた母達に少し遅れて、手を引きながらゆっくり段を下へと辿る。外套の所為なのか、一段一段を注意深く降りる子供の歩調に合わせてくれる紫旗の先導には感謝しつつ、一瞬抱き上げてやった方が良いかと思ったそれは打ち消した。ここ数日で、駆け寄る、程度は活発になったが、それでもこの歳にはあり得ないくらい運動らしい運動に出会していないのだ。疲れも、そうと分かる体験をしなければこの先にもずっと尾を引くだろうと、足元に気を付けてな、とだけ言って、手を繋いだままそれ以上は何もしない。後ろからは静かにヴァルディアの足音が聞こえる。
 長い階段の折り返し、踊り場に足をついたフェルリナードがはふ、と息を吐き出すのには軽く頭を撫でてやって、それから折り返して更に下へ下へと降りていく。段数は踊り場から踊り場まで三一五段。二回目の踊り場では、子供は一度完全に足を止めてしまう。息が乱れているのには、帰りは隠形で運んで貰おうかと思いながら母を見、頷きを受けてしゃがみこみ紫を覗き込んだ。
「どんな感じだ?」
「、……いき、へんに、なってる……」
「疲れてるんだな。抱えてやろうか?」
 問いかければ、こちらを見た紫が一度瞬いて、次には母を見上げて、それから一度、大きく息を吐き出し、吸い込んだようだった。
「だいじょうぶ」
「ん。じゃあもうちょっと頑張るか」
「うん」
 手を握り直して、更に下へと続く階段を降りていく。王都の地下街は、この国の中で最も深く、巨大な空間を誇る商業区だ。この国で唯一色売りが公認され、命色に値が付けられ人が売買される場もある。踊り場をもう一つ挟んで見えたのは、扉もなにもないただの石の壁。思い浮かべながら、片手で支えた手が、フェルリナードの身体が不自然に揺れているのに気付いて眉根を寄せて、足を止めるより早く母の声がして目を上げた。
「こちらは……?」
「隠形でなければ越えられない『扉』です」
 母の問いにイースが答えるのを聞いて、成る程と石壁を見上げた。隠形であれば薄い壁や枝葉程度はすり抜けてしまうと聞いている。なら抱えてやった方が、と見下ろした先で、フェルリナードはぜいと音を立てて肩で息をしていた。妙な呼吸音、それに気付いてすぐにしゃがんで目線を合わせる。
「フェル、苦しくないか?」
「――、のど、」
 声にしようとして咳き込む、それが数度で止まらずに重い音に変わるのを見てかすぐにイースが膝を突いて細い喉に手を当てた。
「フェルリナード、ゆっくり息を吐いて、……はい、ゆっくり吸って。大丈夫よ、でもちょっと無理しちゃったわね」
「……喘鳴がありましょうか」
「ええ、少し。病の検査は何度か行いましたが……全て安静時の検査だったから、漏れてしまっていたのね……」
 言うイースの、紫青の喉に触れた指先が仄かに光を纏う。しばらくそのままでいれば、荒い息は落ち着いて、落ち着いたと感じた時には紫が半ばまで隠されていた。
「クロウィル、抱いていてあげられる? 症状は抑えたけれど、反動で眠りが出てしまうから」
「わかった。……フェル、こっちおいで」
 呼び掛けて顔をこちらに向けさせて、両手を差し出してやればすぐに首に腕を回してしがみついてくれる。それを抱きかかえてやれば、微かに掠れているような呼吸音。後ろから声が聞こえた。
「薬は?」
「部下が作ってくれるわ、大丈夫」
 イースが言う間に金色の手が動いていた。自分の髪を一つに纏めていた髪紐を解いて青銀の髪を取り、器用に編み込みながら三つ編みに潜って、それから長く紐の垂れる結び目に小さく印を指先で刻むのを見て、魔法だ、と思う、その間に終えていた。
「疾病のある程度は抑える。半日が限度だが」
「良いの? 貴方だって……」
「小児喘息の方が重症だ。俺のは魔法の使い過ぎでなければ出て来ない。紫旗が居る中で十法師の出る幕もないだろ」
「貴方も何か?」
「慢性の霊化症を少し」
「……対処薬の備蓄予算を立てておきましょう。魔導師の病については疎いとも言えぬ程無知なこと、後々教えてもらえますか」
「俺が知るものなら。なんなら療師に繋ぐ、あの人もディアネルが魔法薬を備えてくれているのならある程度多忙さにけりがつくだろうしな」
「そうですね、対価は用意致しましょう。……フェルリナードは大丈夫そうですね。イース殿、隠形に負荷は?」
「ありません、ご安心ください」
 そりゃ団員たちがあれだけ突然出たり消えたりしてるんだから無いも同然だろうな。思っている間にフェルリナードを抱えた腕にかちりと音がして慣れない重さがかかる。右腕を少し持ち上げてみれば手首に見慣れない腕輪。痩躯を取り落としてしまわないように腕を戻して見上げれば、イースが模様違いの腕輪を見せていた。
「こちらが『親』の魔法具です。『子』の腕輪は絶対に外さないよう、運が悪いと岩なり壁なりと同化して大変なことになりますので」
「あいわかりました」
 母が即座に返したそれに、自分はおそらくものすごく嫌な顔を浮かべていた。絶対に離さないようにしなければ、とちらと見遣ったフェルリナードは眼を閉じていた。眠ってしまったのだろうか、揺り起こすものでもないかと顔を前へと向け直した瞬間に『それ』が起こって、眼を見開いて思わず一歩足が退いた。
 見えているものが全て薄い闇に霞がかかったかのようで、物の輪郭も見えるような見えないようなで分からない。変わらないままの声。
「こちらにいる間は私の後ろを離れませんよう。声は、あちらに届けようと思わない限り聞こえません」
「……何度やっても慣れない」
 イースや母、妹ははっきりと見えるのにと急な視界の転換に早く慣れようとしている間に後ろからの声が小さく聞こえた。注意深く見渡してみれば色調が変わった世界にぼんやりと仄火が灯っているように見えるいくつか、そしてイースが目の前の壁に半身を埋めていく。
「こちらに。ヴァルディア、隠形の間クロウィルの先導をお願いできる?」
「分かった」
 声がして、青銀の乗っていないほうの肩を叩かれる。促すようなそれの後に黄金はイースの方に向いていた。
「慣れていないとどうしても勝手がわからなくなるからな、これは」
「ごめん、ありがとう」
「気にするな。行くぞ」
 肩に手が乗ったまま、彼が歩き出すに従って横について足を進める。イースと母が抜けていった壁になんとなく身体を強張らせたまま指先から触れれば、何か柔らかいような、脆いようなものを抜けていく感触。何となく眼を閉じて抜ければ、見えたのは暗い空間だった。濃い土の匂い。不意に視線がぶれて、淡く光が左右上下に動いていた視界が真っ暗に変わる。同時に靴の下の感触も確かなものに変わって、そういえば隠形って床の判別をどうしているのだろう、などという疑問が浮かぶ。眼を上げれば光の玉を緩やかに纏ったイースが青銀の様子を伺っているようで、それにつられて眼を向ければ眼を瞑ったまま。大丈夫そう、と伝えれば見るからに安堵したような顔が見えて、まさか何かあるかもしれないのかと思えば腕に力がこもった。あまりにわかりやすかったからなのか、すぐに小さく笑う声。
「ああ、違うのよ、ちょっと変な感じしたでしょう、抜けたとき」
「う、うん」
「それが覿面合わない、って人もいるの。そうじゃなさそうで良かったわ」
「そ、そうなんだ……」
 便利なものだとばかり思っていたが案外そうじゃないのかもしれない。思っているうちにイースは背を晒してゆっくり歩き始めていて、それに続いて土を踏んで行く。かなり深くまで潜ったはずだ、折り返しの踊り場を二回挟んで九四五段、地下街の更に地下まで降りただろうか。自分が仕事の時に使うのは、地下街の支柱の中に作られたものだけで、ここまで降りることはない。だが訊いてしまうのも憚れて、結局無言のままイースの後をついて行けば、程なくして暗いだけの土に囲まれた空間の中に、突然白い煉瓦塀が現れた。視界がまた切り替わって、一度振り返ったイースが唇に小指を当ててみせてからその壁を越えていく。なんだろう、と思いながら母に続いて、肩の手に伴われて同じように壁を越えれば、見えたのは白煉瓦で作られた丸い巨大な円筒の横穴だった。目の前の巨大な穴は、今は後ろの壁に突き当たって左に抜けて行く。
 洪水の時の貯水路だろうか、この国の首都は過去に何度も地下街が水害に遭っているから、と、何となく緩やかに斜面を描く白い壁を、エルドグランドの積み方かと眺めているうちに、すぐ近くを大きな青味がかった光が抜けて行くのが見えて思わず身構える。すぐに横から小さな声。
「紫旗だ、十五程度は常に付いてる」
「……そんな……?」
「少ない方だ、本来なら数百人動くはずだからな。別階層を使っているのなら俺たちにも見えないから、総数は判らないが不足はないだろう」
 受け答えの間に視線を巡らせてみれば、隠形したままの自分たちを囲うように八人。うち二人は母のすぐそば、三人はばらけた立ち位置のように見えて自分とヴァルディアを囲うようにしている。
 暫く無音のまま待って、青銀の背をゆっくりと軽くあやすように動かしていた手が一〇七を数えた時に、遠くから何かが響いてくるのがくぐもって聞こえた。正面の道か、左の道からなのかは分からない。先頭に立っていた藍色の一人が片腕を軽く持ち上げたと同時に更に十人以上の藍色が現れて、同時に暗いままだった巨大な横穴に突如として灯りがともる。日や魔法のようには見えないそれになんだと眼を瞬かせているうちに、響いてくる音は左からだと気付いて半身をそちらに向けた。ここまでで手の動きは一二三回。見えたのは車輪もよく手入れされた馬車だった。連なって三輌。
《止まれ》
 声をあげたのは藍色の中の一人。聞いたことのない声、隠形していると人の声もくぐもって聞こえるのか。制止の声に応えるように、御者はすぐに手綱を引いて距離のあるうちに車輌がぴたりと止まる。それで気付いた。傀儡車、馬の形をした魔法によって牽く馬車だ。そうそう見れるものではない。
《グラヴィエントの使者だな。先に証書を照らし合わせる、良いな》
《はいな》
 先頭の車輌から降りてきた御者が、紫旗の声に応えて上衣の中から封書を取り出し、一人だけで藍色に歩み寄ってそれを差し出す。受け取った藍色はすぐに別の封筒をその手に渡して、御者はすぐにそれを先頭の車輌の窓の中に差し出す。受け取った手は間もなくそれを御者に差し返して、それで御者はこちらに向かって声を張った。
《相違無ェ、積荷は丸ごと持っていける。前後はこっちの護衛だ、中のに積んでくれ》
 御者が言い終えると同時に藍色の数人が動く。それを見届けないうちにイースが小さな声で母を促しているのが聞こえて、眼を向ければ頷いて手招かれる。ヴァルディアの手も促して先導してくれるのを有り難く思いながらイースの背に従って藍色の輪の中から抜け出して壁に対して正面を向いている硬い道を進んで行く。合間に振り返れば藍色たちの間には全身を覆い隠した小さなもの。動いてはいるが光は纏っていない。疑問が浮かびかけた次の瞬間には合点がいって、それから喉に苦いものを感じた。顔に出るのは押さえつけて、何も言わないままで暫く進めば、次第に届く光の量が減って行く。薄闇に足を踏み入れたところでイースが足を止めて振り返った。
「グラヴィエントと敵対する組織がフェルリナードの存在に勘付いている様子があると報告を受けていますから、陽動を。グラヴィエントの迎えは探知『させて』います」
「フェルリナードを『紫銀』と?」
「いいえ。ですがグラヴィエント総長の親族となればそれだけで標的足り得ます。グラヴィエントも護衛は優秀ですが、隠し通すに紫旗を措いて他にはありませんから」
「信頼しております。馬車はそのままグラヴィエントに?」
「王都から少し南にある別邸に向かわせています、暫く王都の監視の目は減りますし、減らせているかと」
「あいわかりました」
「はい、ではこちらに。少し歩きますが、あとはアイラーンの邸宅の中に直通の道がございます」
「あの邸も面白いもの。いつか完全な見取り図が見てみたいと思わずには居れませんね」
「見ても分からないでしょ母さん……」v 「クロウィル」
「フェル起こすのはしのびないので後にしてください」
「…………」
 肩から上だけで振り返った母は僅かに思考の時間をさし挟んで、それから何も言わないままイースに向き直った。内心で拳を握る。やっとそれらしい口実が生まれた。盾にする気は無いがこの人の弱点は迷子癖以外即座に修正されてしまってどうにも手出しが出来ないのだ。本来ならその必要もないのだが、あとで父には伝えておこう。
 小さく笑ったイースが手で示してくれた先には、暗い中に紛れて曲線を描く壁に空いた、大人の背丈ほどしかない小さな横穴。先に母がその中に足を踏み入れて、その次に、と藍色に促されて、抱えた青銀が壁に擦れてしまわないように気をやりながら潜り抜けた先にはすっぽりと穴を覆う跳ね戸があって、その先は明るく照らされ、絨毯が敷かれた四角い部屋だった。
「……?」
 見渡せば、跳ね戸以外の壁には、それぞれ形の違う、それでも気品のある高級だろう扉が三つ。ヴァルディアに続いてイースが入ってきて隠形が解かれて、あれ、と思いながら跳ね戸をみれば、ごくごく薄く構築陣が刻まれているのが見えた。
「クロウィル、フェルリナードは起きれそうかしら」
「どうだろ、……フェル?」
 青銀の乗った肩を少し持ち上げるようにして、乗せられた顔を伺いながら声を掛ける。むずがるような様子もなく、どうやらすっかりと寝入ってしまったようだった。どうしよう、と思っている間にヴァルディアの声。
「まだ少し時間はかかるだろう」
「ええ」
「なら着いたあとに必要なら起こせばいい。多少の無理をさせたあとだしな」
「あー……」
 そういえば掠れたような呼吸音は既に落ち着いていた。苦痛がなければいいがと思いながら背中を軽くゆっくりと叩く手を再開させながら視線をやれば、イースが手を掲げた跳ね戸はすぐさま形を変えて黄い扉が壁に生まれる。それから藍色はすぐに黄から見て左手の緋色の扉に正対してその扉に軽く手を当てて瞑目している。気付いてそのまま左へと視線を動かして背後を見れば紫が、黄の右手側の扉を見れば蒼。
 四協会の色かと見て、ならば緋色は東のはずだと眼を戻す。扉には僅かずつ光の線が浮かび上がってきていて、ならここが「直通」のそれだろう。少し時間がかかるだろうかと思って見上げたのは黄金。
「いつもここから?」
「ああ、俺はな。紫旗に呼ばれればこの道を使う。毎回道中の道は別々だがな」
「そうなんだ?」
「あの横穴自体が紫旗の支配下らしい。組み替えられるらしいな、どうやら」
「ヴァルディア、駄目よ」
「規則性も何も無いんだからいいだろ別に。隠れて作ってた見取り図が透かし紙を大量に重ねていくつか共通点が見つけられたくらいには解らない」
「もう……そんな事言われたら全部作り直しだわ。……さ、開きました、フィメル様」
 扉から手を離し、押し開いた藍色が扉を越えた先から振り返って促す。繋がった先の部屋は、灯りのついていない、窓からの光で照らされた絨毯の一室だった。




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