「クロー」
 眼を開けて一番に見えたのは紫で、一番に聞こえたのは幼い声だった。目の前の紫が瞬いて、どこか別を見上げる。
「クォルク、クロ、おきた」
「ん、おう。ありがとなフェル。頭痛いの治ったか?」
「うん、なおった。カルドは、まだ?」
「みたいだな。フィメルも今日は遅くなるから、ラシエナと一緒に寝てていいぞ」
「ほんと?」
「ほんと。部屋わかるか?」
「……みっつ、……よっつ、くらい、むこう」
「三つ向こうな。ほら、行って寝てろ」
「うん。おやすみ、クォルク」
「おやすみ」
 団長が決して、それから紫銀の手が頭を撫でていく感触。手の感触が消えてからぱたぱたと足音が遠ざかって行って扉の音でかき消されて、代わりに手袋をした手が視界の中に椅子を運んでくる。藍色の制服がそこに座ってから口を開いた。
「団長、禁忌破ったのか」
「……やっぱ忘れてねぇか。魔法じゃねえけどな、別なもんがどうしても必要で、破った。破ったってか正確には越えた」
「母さんは?」
「グラヴィエントとの調整に行った、話は預かってる。頭大丈夫か、相当痛むはずだが」
 言われて疼痛に気付いた。手を持ち上げて左のこめかみを押さえつける。疼くような痛みだが、それで一杯いっぱいになるようなものでは無くなっていた。深く息を吐き出す。
「……説明求めて良い?」
「何から訊きたい」
「……フェルのこと。様子おかしかったから」
 あの時ああして出てくるなら最初から見ていたのだろう、と思いながら言えば、思った通りクォルクはそれ以上を訊かなかった。すぐに答える言葉が聞こえる。
「神殿、というか、この王都の大神殿は他に無いものを持ってる。『鏡』だ」
「かがみ?」
「世界が有する中で、属性の龍神を召喚するのに最高の触媒と言われてる鏡だ。あの鏡さえあれば他に何の準備もしないで龍神が呼べる。フェルは、どうやら神殿に近付いただけでその鏡と感応しちまったらしい。神を呼んでも作法が分からない、だから知ってる精霊に聞こうとして乗っ取られた」
「乗っ……は!?」
 思わず上体が跳ねて身体が起きる。寝かせられていたのは寝台で、被さっていた布団は膝の上でわだかまる。起きた瞬間に頭痛が激しくなって思わず両手で押さえれば、大人の手が伸びてきてゆっくりと撫でられた。
「あーまぁ害はそんなにない。精霊だしな、助けを求めれば答えてくれる、精霊側も乗っ取れて驚いて説明にまで頭が回らなかったらしいな」
 言いながら紫藍の眼が横に滑って、それを追いかけて眼を動かせばすぐ近くのテーブルの上にコップに入った水。触れもしないのにその水面が揺れて波紋が広がるのには、そうやって存在を主張してもらう手があるのか、と頭の中で受け取った。
「フェル……紫銀はな、神殿に入るのに『潜り』をしちゃならん。必ず『渡り』をする。精霊が憑いた時、『潜れない』って言ってたろ」
「ああ、それ……俺神殿行くの初めてで知らなかったんだけど、潜るって?」
「神殿は異界なんだ」
 それを聞いて、そういえばそんな事も、と脳裏に浮かぶ。頭に張り付いた疼痛を振り払うようにこめかみを揉みながら口を挟まないままでいれば、様子を伺うようにしながらの団長の声が続いていく。
「異界だから、人間は入れない。生身のまんま入れるのは特別な訓練をして、異界の方が生活の場になった神官だけだ、神官の全部がそうってわけじゃない。他の奴は『こっち』のままじゃ入れない、だから胎道に見立てた『潜り』の道を通り抜ける事で『あっち』に生まれ直す」
「……ぇえ……?」
「まあ、わからんよな。俺もそうだった」
 異文化すぎる。何だ生まれ直すって、ただ通るだけなのにそんな大仰な機能があるのかあの通路。何も感じなかったぞと頭の中で言うだけ言って、それで一つに気付いた。紫藍、クォルクを見る。
「……だった?」
「おう。まあ俺の誓約越えの内容的にもアレなんだが……」
「気になる」
「……特に恩恵とかないぞ?」
「表向き品行方正で通ってる団長がどういう馬鹿やったかは気にならない方が馬鹿だろ」
「……お前微妙に怒ってないか?」
「怒らないとでも思ってんのか」
 言ってからそうかと思った。そうか俺怒ってるのか。団長が腕組みに眼を逸らすのを見て怒筋が浮かぶ心地というものを生まれて初めて知った。これ怒って良いやつだよな?
「解って動いてんのかと思えば行き当たりばったりは多いし解ってないまま動いた結果何かあれば全部が想定外で一番安全じゃなきゃいけない推定六歳実齢三歳取り上げて異常だ何や言いまくって」
「あーー……」
「正直保護されてからの心身の被害ってあの馬鹿って冠でも間に合わないくらいに人として終わってる馬鹿王子除いたら状況的に仕方がないとはいえ紫旗がほとんどの原因だよな、喘息の見落としに魔導師向きだって自分らで言っといて霊化症の可能性一切見なかったり精霊に身体乗っ取られて水に溺れかけて正真正銘フェルのために動いてくれたのヴァルディアさんとフィエリアル様の二人だけじゃないか。俺もラシエナも八歳児だぞ? 何期待してんだよ大の大人が」
「……だってお前八歳児に見えな」
「あ?」
「すまん」
 即座に謝罪が聞こえて溜息を吐き出した。正直なところを言えばフェルに対する大人たちの言動についても二言三言と小一時間が言えそうだったが、時間がかかりすぎるから断念した。次があったら俺の分の怨嗟も込めて二時間使ってやる。
「……で?」
「あーー……いや、俺の禁忌は命色だったんだよ。俺は元々は『尊紫』だったんだ」  団長の紫を見る。頭の後ろで一つに縛った髪は藍色、それとは全く違う、全ての色の中で最も貴いとされる色。瞳と髪が揃って紫なら『真紫』と呼ばれる。『尊紫』はそれより位の高い色、髪と瞳の両方に『完全な紫』を持つ人にだけ向けられる尊称。
「……それで『色嫌い』?」
「まあ、龍神にはそう呼ばれる。瞳の紫は捨てられなかった、死ぬか良くても狂うだけだって言われてな、だから髪だけでも変えてもらった。『尊紫』だった頃を知ってる人間の記憶もな。んで、それ以来俺も『潜り』が出来ない」
「……」
「さっき言ったろ、あれは生まれ直しだ。身体のじゃない。魂の生まれ直しだ。俺は自分の魂を改変した、しかも色を、だ。そんなのが正常に魂の生まれ直しが出来るわけない。寿命なり、それこそ騎士が魔法の力を、ってくらいなら、連続しなけりゃ大丈夫だったろうが、色を弄れば無理だ。『潜り』をすれば死ぬ」
「……なら、フェルは」
 クォルクが制服の中から短剣を抜く。何気ない手つきでそれをテーブルに向けて、そして切っ先を天板に垂直に立てる。指が離れても短剣は立ち上がったまま、突き刺されてもいないのに微動だにせずにいる。
「『紫銀』は、こういう状態だ。銀と紫を同時に持つ、両方を持つっていうのは珍しいんじゃない。あり得ない事なんだよ。だから神と人との不干渉が誓約として結ばれる以前に地上に紫銀が居た形跡がない。神が地上から手を引く代わりに、地上に残って何らかの役目を果たす為に残されたか、あるいは作られたかだ。『紫銀』の魂は人のそれじゃない。神のそれに近い。『潜り』をして何が起こるか解らない、精霊が止めに入ったってことは、何かしらヤバいんだろう」
 同意なのか、テーブルの上に置かれたままのコップが水滴を真上に吐き出す。ぽちゃんと音を立てて落ちた、その衝撃とも言えないわずかな揺れで短剣がぐらりと平衡を失った。倒れる前に拾い上げた手袋の手が上着の中にそれを仕舞う。
「……紫銀の役目って、なんなんだ?」
「わからん」
 即座の答え。わかっていたならと思う間にも、声は沈黙に任せることはしなかった。
「キレナシシャスの側からじゃ何も見えない。あまりにも人が紫銀を殺しすぎた、紫銀が長生きした例がこの国にはほとんど無いんだ。スザナ……は、分かるか。大昔に絶滅した種族だが」
「……どこかで聞いたことはあるかもしれない。けど、詳しくは知らない」
「二千年前にキレナシシャスが侵攻して一人残らず殺し尽くした種族だ」
 思わず、面食らってしまった。クォルクは尚も続ける。
「きちっと勉強した奴くらいじゃねえと知らんがな、大陸歴で四一〇〇年代に、フェルの前の紫銀が行方不明で姿を消した。そのあと一〇〇年かくらい紫銀が現れなかった、だからって当時のどっかの馬鹿がスザナに恭順を求めたんだ、軍勢を引き連れて脅しながらな。スザナは『紫銀の種族』だった、十人いればそのうちの一人は紫銀、一族を率いる当主も代々紫銀。そんな馬鹿げた種族だった」
「……知ってるみたいに言うんだな、団長」
「まぁな、それも禁忌のおかげだ。……当時まで、世界の中心にいたのはスザナだった。魔法も剣もスザナが最も優れていた。そして異様なまでに紫銀が多かった。そこに乗り込んで、スザナそのものを国の中に抱き込んで国のモノにしようってやつが現れて、それで殺された。自国に加わらないのであれば他国に渡らないように、紫銀も含めて全員をな。その上殺した紫銀の死体だけ選り分けて持ち帰って研究までした。キレナシシャスとしては無かったことにしたい過去だろうな」
「よく生き残ったなキレナシシャス」
「ほんとになぁ。まぁ他国からの弾劾とそれきっかけの内戦で、名前こそ同じだが傍系の血縁者が玉座を仮で預かって、ほとんどの貴族や有力者を排除なり掃除してなんとか、だろうな」
「しぶといな……。……で、研究内容だろ、大事なの」
「ご明察。言っても一個だけだけどな。スザナの紫銀は、その全員が何らかの形で神や精霊と契約を交わしていた。使い魔とかじゃなくな。普通の人間じゃできない形で、なにかしらをやってた。……俺の推測だがな、スザナの紫銀は地上の物事を天に伝える役目を負っていたんじゃないか、と考えてる。スザナ以外の紫銀の最期は、殺されるんじゃなければ他は全部が行方不明だ。その後発見されるわけでもない」
「天に行ってるとか?」
「かもしれねえ、ってな。スザナの紫銀たちは契約を介してやっていたものを、スザナ以外の紫銀は死ぬか何かしてやるんじゃないか。老年もスザナには居た、だがスザナの外にはない、キレナシシャス以外の他国の紫銀も全員行方不明だ。……だからキレナシシャスの紫銀は、スザナに倣って、神殿に繋がれることになる。なにも神殿にっていうのはフェルが最初じゃない、じゃなけりゃ神殿そのものが無いか残ってないかのどっちかだからな。紫銀は、唯一訓練もなにも必要なく、紫銀だからの一つだけで『異界』に渡ることができる。あの異界は神の異界だ。神の異界とは即ち天のことだ。それしか解らないんだよ。紫銀は天のものだ、ってことしか分からない」
 ――長い言い訳だ、とは、思わなかった。代わりに大きく溜息を吐き出した。
「だったら先に言っておくとか……」
「悪かった、もうちょいでもわかってるつもりだったんだ。……あともう一つ、これはフィメルからの預かりだがな。一緒に伝えておけって言われたから、伝えておく」
 見れば、クォルクの表情には困惑があった。母のなにがこの人にそうさせるのか、それが想像がつかないままで待っていれば、次に聞こえたのは短い伝言だった。
「よく分からんからそのまま伝える。『宵は樹、その樹の許にある者と種が一門だ』、と」



 眠れないな、と、そう諦めて起き上がった。毛布を退けて立ち上がって、机の上の時計を持ち上げる。月明かりでなんとか数字を読み取れば四時半を超えて五時が近い。ラシエナが起きてくるまでそうないか、と見て、衣装棚を開いた。手早く動きやすい服に着替えて時計を上着の中に仕舞う。あまり寒さは感じない。一応とコートだけを羽織った。
 灯りは良いかと判断して、剣だけを手にとって廊下に出る。向かうのは広間の方、なんとなく足が向いたそのまま歩いて行けば、閉じられた扉の向こう、暖炉の近くに一人。
「……アルティエさん」
「……どうした、こんな早くに」
 一度言いかけた言葉を飲むのが分かって苦笑する。その顔のまま口を開いた。
「目が覚めちゃったから。……他には? 誰も?」
「何人かは起きて出てきているだろうな。交代の者もいるだろうから」
 やっぱりそうか。話ができたら聞きたいことがあったのだが。アルティエは暖炉に入れた薪の様子を見ている最中のようだった、そこに足を進める。
「やっておこうか?」
「いや、良い。もう終わる」
 足は止めずに、火掻き棒を手にしたその横にしゃがむ。やはり火があると暖かい。
「……一門って知ってる?」
 小声で囁く。古い、炎に巻かれた薪が崩れる音に紛れる。
「力ある方々のことを、そのように」
「紫銀の事が知りたい」
「今は」
 制止が素早い。すぐに口をつぐめばアルティエが背後を見やって、そして火掻き棒を暖炉の脇に掛けて立ち上がる。追いかけて振り返れば父だった。
「おはようございます、副長」
「おはよう、父さん」
「おう、早いな。アルティエ、悪いが第二の編成案頼む、イースが手一杯で動けない」
「了解しました。別動の形で?」
「特殊で良い。任せる」
「はい」
 答えた彼が暖炉から離れて扉を抜けていく。それを見送る間に父が口を開いていた。
「頭痛大丈夫か? 相当だったろ」
「今は大丈夫。団長にも言われたけど」
「なら良いが。あれは巻き込まれでも色々持ってかれるからなあ、眼の魔力だけで済んで良かった」
「……もしかしてなんかあったのか俺……」
「あったさ、当然だろ?」
 にや、と笑う父には視線を泳がせた。そう言えば魔導師だったかこの人。思いながら眼を上げれば、今度はソファに手招かれる。座れ、と一人掛けを指し示されて、なんだろうと腰かければ父はすぐ横の三人掛けの端に腰を下ろしながら口を開いた。
「フィメルに聞いた。お前、もう『声』効いてないな?」
「、……うん、たぶん。母さんのにも、打ち消さないでも対抗できたから……」
「わかった。なら、その上でだ。お前のことだ、『一門』の中に入れば紫銀の事が解る、とか思ってるだろ」
 言い当てられて瞠目した。父は、ユゼは腕組みに苦い顔を浮かべる。
「しばらく様子見ってんでクォルクとお前のことにはなにも口出さないでいたんだがな。クォルクは、あいつやっぱり色が関わると無能だわ」
「むの、」
 言って良いのか。というか言えるのか。ユゼは大仰に嘆息してみせる。
「フィメルにスザナと一門のこと言われて気付けない時点で駄目。無能。やっぱあいつ天才だけど馬鹿だ、教材ねぇと何にもならん」
「え、な、なんのこと、」
「クォルクの禁忌破りの案内したの俺なんだよ」
 は、と、息が声になり損ねたまま溢れていった。その音が耳に聞こえた直後に、理解した。
「は、え、じゃあ父さん」
「『一門』の事は知ってる、母さんがそうだってのもな。だが俺自身はそうじゃない、外様の協力者ってだけで母さんが言う当主やら樹やらのことはわからん。分かるのは、禁忌破りには紫銀の助力が必要で、その方法を知ってるのは、今じゃ『一門』だけってことだ」
「スザナって、生きてるのか」
「分からん。だが少なくとも史上では絶滅してる。今じゃほとんど情報も残ってない。俺ができるのは禁忌を越える必要がある奴を連れて行くだけだ。それ以上は無理だな」
「じゃあ、」
「お前も、今は無理だ。言われなかったか、”コウハ"じゃ無理なんだ。未熟な”グリヴィアス”の血でも駄目だ。母さんも、『一門』に加わったんじゃない。降るように迫られたんだ、危険な血族だから、ってな。『一門』はそういう連中だ」
「でも一門なら紫銀のことも分かるんじゃ、元はスザナが中心の集まりだろ、それなら」
「それなら、なんで母さんは『一門』にあの子をって言わない?」
 言われて、言葉を失った。そうだ、母はずっと前に覚醒しているはずだ。自分や、兄や姉が生まれるよりずっと前。
「そもそも、どうして母さんが『紫銀』だと理解した上で親役をする、なんて言った? 親役に利益なんて生まれない、フェルリナードは結局王族になるんだ、王族との取引を続けてるだけで良い。なのにどうして、親役をなんて言って行動して、それなのに紫銀に一番詳しいはずの『一門』のことを言わないんだ?」
「……それは……」
「勝手に俺が思ってるだけだけどな、今は『一門』にも紫銀は少ないんじゃないのか。スザナが滅んで二千年、キレナシシャスの紫銀もぱったり絶えた。『一門』は多数の種族の集まりだ、けどそこにスザナがいないなら、もし『一門』にも紫銀がいなくなってるなら、『一門』は外に紫銀が居るって知ったら、どうする?」
「でも、それじゃ利権争いとなにも変わらない」
「利権争いなんだよ、とっくにな。……母さんは、『一門』をあまり信用しちゃいない。援けてはくれるが本心ではなにを考えてるのか分からない、てな。それは俺も同意する。だがな、俺だけじゃない、母さんも外様扱いなんだ。自分の血の、種族の意味を知りながら捕縛されて脅されるまで一門に加わらなかった。そう言われてるらしい。……お前のことはまだ知られてない、お前はまだ”グリヴィアス”でもない。だから、決めるなら今のうちしかないぞ。どうする」
「行く」
 答えはそれしか無かった。父の言葉の途中からそう感じていた、だから問われても迷うことはしなかった。父は、分かっていたのか、表情は変わらない。ただわかったと頷いてくれて、そして次の言葉には、ただ絶句するしかなかった。
「なら、贄を見つけてこい。承認の有る無しは問わない。お前の衝動を抑えられる人間を一人見つけたら、『一門』に繋いでやる」




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