今何時。そう問われて、わっかんね、とだけ答えられた。そっかと素っ気ない、気力も尽きた声が返ってくる。ととと、と軽い足音が駆け寄ってきて上着の中を探られる感触。
「フェルそっちじゃなくて……右の……」
「ん。……みぎ、……みぎ、は、クロのみぎ?」
「フェルの右でだいじょぶ……」
 言えば小さい手が鎖を見つけたらしく、時計が引っ張り出されて行く。からからと鎖の鳴る音が落ちついて、数秒してから声。
「十四、時……さんじゅ、四十、二分」
「正解。ちゃんと読めるようになったなフェルリナード」
「うん。きょうは、クロとエナ、おわるの、早い?」
「おう。今日はこれで終わり、夕飯までちょっと時間空いてるから、ちょっと何かつまめるものと、あと飲み物用意するか。フェルリナードも休憩だろ?」
「ごはんたべたら、つづきやる、って、フィエル様言ってた。それまでは、おやすみ」
「よし、じゃあ何か探してくるか。二人は疲れてるからそっとしておこうな」
「わかった」
 エディルドのそれには素直に感謝が浮かんだ。今のこの状態でフェルリナードを構うのは無理だ。暖炉の前の絨毯に転がったまま思う。
 明日からは祭りの準備するから年内の訓練は今日で終わりな、と、この教官は言い、都合五日間訓練は休みになるから、と、まるでお手本のような詰め込みをしてくれたのだ。死ぬかと思った。投げ出した両手両脚がまだ細かく震えている気がする。ずっと二人の相手をし続けてぴんしゃんしている教官には、流石現役紫旗、としか言えない。なんだあの体力お化け。自分はあそこに辿り着けるのか?
「……おや、死んでますか、二人とも」
「……ちょっと声にならないですフィエルさま……」
「喋れるくらいなら大丈夫ですね。その時々の自分の限界を知るのは戦闘を生業にする人間には必須です。良い教官ですね、彼は」
 そう言えばこの人も教師だった。しかも協会学院という騎士や魔道士を排出する専門の教師だった。良い師に恵まれている。そう思おう。横のラシエナが呻くだけの返事をするのが聞こえて偉いなぁと思う。自分はフェルリナードに向けて使った声で最後だった。ローブの擦れる音と頭を軽く撫でられる感触。思考だかがやけに元気で、隣で倒れているであろう幼馴染に言いたい文句がいくつか浮かぶのに口も喉もそれに追いつかない。
 どうやら自分とラシエナの剣の相性は最悪らしい。ラシエナは紛う事なく即決型だ。そして自分は完全に相手の自滅を待つやり方。――二人で訓練すると泥沼化する。エディルドもわかっているのだろうが、制止の声を上げるのは七分以上が経つか、ラシエナが動けなくなるか、自分が首を取られるか、そのどれかに当てはまった時だけ。全力で持久戦に持ち込む自分がいる時点で、毎回七分と指導を全力で繰り返す事六時間。途中休憩を入れたとは言え再開時ですらふらふらしていたのだ。一時間くらい死んでいたって構わないはずだ。誰かこのまま俺を湯船に沈めてくれ。
 少しの遠くで扉の開閉音。小さいものが小走りする足音。止まって、隣のすぐ近くで止まる。
「エナ、あー」
「あーー……」
 幼い声とそれに即応する幼馴染の声。なにしてるんだろう。しばらくしてからラシエナが再び呻いた。
「うう、おいしい」
「エナの、すきなの」
「ありがとフェル……クロにもあげて……」
「んっ」
 元気よく返事したそのすぐ後にこちらに向き直ってか近付いてくる気配。そういえば気敏くなっているように思う。剣の訓練を始めてからか。
「クロ、あー」
「あー……?」
 言われるまま横倒した眼を開けられないまま口は開く。すぐに滑り込んできたのは冷たいものだった。舌で転がせば甘い。噛めば果汁がじわりと広がっていく。梨か、たしかにラシエナの好物だったはず。
「……おいしい……」
「……だいじょうぶ?」
「大丈夫……疲れてるだけだから……」
「ファリマが、おゆ、つかえるように、て、言ってた。くらくなるまえに、て」
「わかった……」
「フェルもはいろか……髪ちゃんと香油してあげないとね……」
「こうゆ、……すずらんの、だめ?」
「すずらんのは作るの難しいから、もうちょっと我慢な……」
「うん」
 フェルリナードは中々ぐずらない。待ったり我慢したりに不機嫌そうな様子は見せず、唯一不服そうにしていたのは自分とラシエナが日中を訓練で過ごして全く相手ができなかったあの一件だけで、それ以降は同じような状況となっても何ともない風である。それはそれで少しばかり淋しい。思っているうちに別の足音が近付いてくるのが聞こえた。すぐ近くで止まって、幼い声が上がる。
「クォルク、しごと、おわり?」
「いや、休憩だ。クロウィルもラシエナもどうしたんだ、揃って倒れて」
「エディルドと、ずっとやってた。けん、て、たいへん?」
「おう、大変だぞ、すごーくな。フェルもっと大きくなったら、少しやった方が良いな」
「やるの?」
「少しだけな。よしこっち来いフェル。クロウィル、ラシエナも起きれるか?」
「……ちょっと待って……」
 呻いた。細く長く息を全て吐き出して、吸いながら眼を開けて手を突いて起き上がる。そうして、あれ、と疑問符が浮いた。少し体が軽くなっているような。腰の鉄拳を一度手で押さえて、それであ、と声が漏れた。団長を見上げれば、に、と笑う顔。
「気付いたんならなにも言わねぇさ」
「ご、ごめんなさい……」
「疲れてんだろ、仕方ねぇよ。ラシエナ、駄目そうか」
「……からだ痛い……」
「怪我はしてないか」
「だいじょうぶです」
「よし、ならトーリャ寄越すから少し見てもらって、風呂で解して来い。放置するときついからな」
「はい」
 応える声音にもいつもの張りが無い。本当に大丈夫かな、と眼をやりつつ、膝を押して立ち上がった。団長は既にフェルリナードを抱えている。――昨日、神殿の水で色は落ちてしまっていた。朝に染め直して、今はもう変わらない青銀色。腕が伸ばされるのには苦笑して、抱えてられないかわりに頭を撫でる。今抱えたら絶対落とす。撫でながら団長を見上げた。
「何かあった、とか?」
「出用だ、少し必要なもん買いにな。付き合え、療師の許可も貰ったしな、フェルの用意はさせておくから、一回風呂で湯使って汗落として来い」
「……そういえば制服じゃないの初めて見た……」
 見上げた大人のその服装。襟の背の高いシャツに中着と重ね袖の上着。剣帯に長剣は変わらずだが刺繍の入った幅広の帯を腰に巻き付けて、手首には腕輪も見える。上着の刺繍は左右非対称、珍しい意匠だが奇妙ではない。洒落ている。まじまじ見ているうちに肩を叩かれて促されて、それに頷いて扉に向かった。身体中痛くて今までになく重いが、大人だけに任せておけないのははっきりしているからと準備を急ぐ。



 通りがかりのディストに体力の限界を察されて魔法薬をもらってから、疲れはみるみるうちに抜けていった。こうも効果が劇的だと後が怖いような。それでも言われた通りに横に並んで歩いていれば、祭りの準備も始めないといけないからな、とクィルクは通りを下りながら言った。
「『エフェレツィス』はほとんど初めてみたいなもんだしな、四季祭は」
「しきさい?」
「四季ってのがある。春、夏、秋、冬、の季節のことだ」
 この国は色々な支度も、終えるのも早い。朝の五時前には市場が開いて買い物客が大通りに溢れ返るし、肉や野菜といった食品の店は八時にはほとんど閉めてしまう。粉や果物、加工物は昼まで並んでいることが多いが、それも昼までだ。午後はそれぞれの店は配達に出てしまうから。
「今は冬だな。十月から二月、三月の半分くらいまでは冬で、寒い季節だ。雪の季節だな」
「さむくて、水がこおるから、あめが雪になる」
「そうそう。冬の次が春で、雪が溶けてあったかくなる」
「あったかい……おふろ?」
「あれは熱い、だな。春は、そうだな、こういうコートとかマフラーが要らなくなる」
「いらないの?」
 夕方も近いこの時間にもなると、通りに面した店も閉め始める。酔っ払いが出るにはまだ早いが、食堂や酒場は開いているだろう。クォルクが向かっているのはどうやら東南の方角らしい。本部から円状の中央通りを東へ回り、真南を向いた大通りを右手に見ながら素通りする。フェルリナードはクォルクに抱えられていて、この時間だと言うのに往来の多い道を眺め、会話に疑問を浮かべて同じ紫の色を見上げていた。
「だからって捨てたりはしないけどな。こういうの着てるとあったかいだろ?」
「うん」
「あったかくする必要がないから、洗って綺麗にしてしまっておく。そんで次の年の冬が来たら出して来て着る」
「冬のあいだだけ、つかう」
「正解」
 ――あの時以来、フェルリナードの共通語は安定しているように聞こえる。声音が幼いから舌ったらずに聞こえるが、単語だけの受け応えは減って会話として成り立っているようだ。声を上げることも多くなった。
「で、その冬の一番大きいお祭りが、今年が終わって新しい年になった一月一日からある。冬雪祭だ、冬の一番寒い日でもあるな」
「……もっとさむくなる?」
「祭りが終われば少しずつあったかくなるさ。外遊びはそれからだな」
「おまつり、って、なに?」
「季節とか時間とかが正常に動くってのは、神様のおかげだからな。だから季節に関わる神様にお礼して、神様がいるから自分たちはこれだけ元気です、って伝えるんだ。神様の像には会ったろ?」
「うん、神さまたくさんいた」
「エフェレツィスが関わるのは主にあの十人……十柱? だからな、覚えとけよ」
「だいじょうぶ」
「よし」
 紫藍を見上げれば、後でな、と頭を抑えるように軽く叩かれる。衆目がある中で詳しくする話でもないかと頷いて、フェルリナード――エフェレツィスの質問が途切れたのを見てからクォルクに声を向けた。
「買い物って、なんの?」
「祭だからな。近いし初日の集会は大神殿で見た方が良い。エフェレツィスもだけど、お前も都市の祭は知らないだろ?」
「そう、かな。覚えてはない」
「何事も経験、ってな」
 ほら、と言いながらクォルクが東南に伸びる大通りを顎で指す。この辺りは雑貨や衣料品、革用品を扱う店が並んでいたようなと記憶を掘り返す。王城の東側の町並みは貴族の邸宅も少ない。商人や職人街はディアネルの支部があるあたりだが、こちらは平民や旅人のための街並みとなっている。旅の宿があるのはこちらだけ。だからか、日常に関係ないものは、この辺りに集められている。都市民にとっての最大の非日常は、年四回の旬祭と季節祭だろう。直近のものでは話に出ている冬の祭。冬雪祭。
「……冬雪祭って、新年祭と同じだよな?」
「同じ、って言や同じだな。ただこの国の祭だ、他の国と較べれば全くの別物だな。色々と作法があるから面倒だが」
「全部覚えられたら良いけど。団長は、仕事?」
「おう、人が多くなるからな、警戒しとかないとな」
「わかった。……ちょっと不安だけど」
「『五人だけ』だからな。まぁ気にすんな」
 言うそれを見上げる。見返された次にはクォルクの眼は道の先に向き直っていた。フェルリナードを抱え直して、揺れたからか紫青は身を伏せて肩にしがみ付く。ほら、と背を叩いてクォルクがあそこだと眼で示す先を見れば、看板には雑貨屋の文字。
「……雑貨?」
「おう。祭で使う道具は、祭ごとに材料から用意して作る。祭で使った後は燃やしちまうからな、手元に残しとくのは良くない」
「『隣人』?」
「いや、精霊だな」
 会話のうちに看板の下の扉が近付いてくる。何を用意するんだろうと思いながら中に入る団長の背中を追いかけて屋根の下に入った。
 都市の店だな、と見て最初にそう思った。隣に建つ別の一軒と接する壁には窓がなく、通りに面している入り口の脇に光を取り入れるための大きな硝子張り。中に目を移せば、文具店も兼ねているらしい、入ってすぐ、店の真ん中の一番手前の背の低い棚にはインクの瓶や紙の束や箱、あるいは全く別の分類だろうに食事に混ぜて風味をつける薬味が詰まった袋もある。どうやらカウンターの向こうにはいくつか名の知れた銘の万年筆まで置いているようだった。流石に大都市の王都、廉価品はいたるところに置いている。
「いらっしゃい。お探しで?」
「冬雪祭の準備でな。出遅れたが残ってるか?」
「勿論。子供かい?」
「俺のじゃないけどな。親の都合で預かってる」
「へえ。紫と、青と翠か、枝は二束で良いか?」
「緑と紅を半束ずつと、枝をもう一束頼む。あと一人留守番がいるんでな」
「揃うもんは揃えて出してくる。他になにかあるか?」
「大丈夫だ、ありがとな」
「はいよ。見ながら待っててくれ」
 出迎えの声に次いでの会話の間にそこまで言い終えて、店主らしき男性はカウンターの奥に引っ込んでしまう。クォルクは棚と棚の間の通路に紫青を下ろして、コートを掴んで周りを見渡している青の上に手を置いていた。
「あんまり触ったりしないようにな」
「……ここ、どこ?」
「色んなもの売ってる店だ。雑貨屋、ちょっと変わったものとか季節のものはこことか、別の雑貨屋だな」
「ざっか」
「道具とかだな。まあ、店の種類はおいおい勉強だ」
「うん。……見る、のは、いい?」
「おう。気になるのがあれば言えな」
 言う手が軽く背を押してやれば、きょろ、と一度見渡した紫青はすぐに棚の一つに吸い寄せられて行った。眼で追いかければ外からの陽の光と天井の灯りの両方に照らされてきらきらと光を弾く、平べったい硝子の、小さく丸い重石。文鎮。横でクォルクがくつと笑う。
「欲無えなぁ……髪飾りとか色々真横に置いてあんのに」
「帯飾りとか……蜻蛉玉好きじゃないのかな」
 硝子の重しは、透明な中に青や茶の色の波紋が折り重なって広がる質素なもの。同じ棚のすぐ横にはそれより鮮やかな色付けの帯飾りや、髪紐飾りなどに使うのだろう穴の開いたものが綺麗に並べられている。それに見向きもしないでじっと硝子の重しを見詰めているのを見詰めていれば、しばらくしてから青が揺れて振り返る。そういえば今日は髪結いをしていないのか、と不意に思う。幼い声の問い。
「クォルクの、ないの?」
「おう? 俺のなにが無いんだ?」
「目の色の。むらさき? ディアせんせいのもない」
「あぁ……あーそうか禁色のこと忘れてたな……」
「きんじき?」
 鸚鵡返しに問い返す間に大人の方の紫がちらとこちらを見るのにはあからさまに眉根を寄せて返せばすぐに逃げていく。まったくと小さくつぶやいていると小さい方の紫はそれを見ていたようで、不思議そうな眼をして首を傾げた。
「クォルクと、クロ、けんかしてる?」
「ちょっとな。――な、団長」
「ほんと怒ると怖いよなコウハ……」
「コウハ自体はめっちゃくちゃ気が長いはずなんだけどなあ?」
「悪かったって……」
 横目だけ向けたままわざとわかりやすく音を発すれば降参だとクォルクが軽く両手を挙げた。こういうところは素直というか正直だよな、と眼を戻す。まだ疑問符が消えていないフェルリナードには、そうだな、と言葉を探して口を開いた。




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