頭上から降りかかるような質量を持つ鐘の音は、今度は全部で四回響いた。四回目が響いた途端、堰を切ったように様々な人の声で溢れた。
 目を瞬かせて声の方、背後の空間を見やれば、どうやら木のベンチに座っていた人々が三々五々立ち上がって談笑している様子が見える。どうやらこの鐘の音で神事そのものは終わりらしいと幼馴染を見れば、色違いはわかりやすく口元を押さえたまま首を振る。あれ、と思ってフェルリナードを見ればラシエナのもう片方の手に軽く口元を押さえられている。まだ喋ってはいけないのか。
 他の色の子たちを見れば、大半はおとなしく座ったまま人の海の方を伺っている。数人はすぐ側に大人、親だろうか、迎えが来ているようで、その数人だけが口を開いているようだった。
「ラシエナ」
 聞き慣れた声は左からで、自分が呼ばれたでもないのに振り返れば、立っているのは呼びかけられた幼馴染の兄だった。ジュストコールに似たローブ、正装なのだろう姿のフェリスティエにラシエナが椅子から飛び降りる。
「兄様! お父様は、やっぱりお屋敷?」
「うん、母様の部屋の隣室にべったり。迎えに来たよ、二人にもそれぞれね。まだ喋ってはいけないよ」
 フェリスティエが目を合わせずにこちらに向かって言うのには、違和感を覚えてほんの少し首を傾げた。こういうことはしない人だと認識していたのだが。思ううちに両手でラシエナを迎えて軽く抱いたその人の視線が、こちらの背後を向いた。
「副だ……じゃなかった。お久しぶりな気がします、ユゼ殿。新年のご挨拶申し上げます」
「お前結局ムリヤリ退団処理通しやがったなフェスティ」
「年を越すので丁度かと思って。きちんと団長殿の署名は頂きましたから」
「魔導師の任免は俺の仕事……まぁ良いけどよ。クロウィル、迎えに来た。もう喋って良いぞ」
「……今後説明される機会があるって期待して良い?」
「まぁ、揃ったらな」
 振り返って目が合って、許可があってから問いかければその返答。その父の眼が更に後ろを向いて、何かを見つけたらしい、軽く手が上がって声が上がる。
「ディフィリア卿、こちらに」
「おう、最前列じゃねえの」
 聞こえた声に頭を抱えたくなった。なんでだ、いなかったはずだろ参列者の中に見なかったぞと声を出さずに浅い記憶を掘り返すうちにその声が他の誰かを促していて、硬いもので床を突く規則的な音、そちらのほうを覗けば、氷色の瞳の色。
「エフェレツィス!」
 声に反応してか、椅子の上でフェルリナードが身体を伸ばす。椅子の背が邪魔で見えないで上半身がゆらゆら揺れるのには苦笑が浮かんだ。繋いでいた手を話して椅子から下ろしてやれば、数歩動いて左側、壁際の通路を覗き込む。すぐにミシュリアの喜色いっぱいの声が聞こえた。
「ああやっぱり、思った通り! 義兄さん、義姉さんも、あの子ですよ」
「ええ、わかりましたから落ち着いてミュリー。転ばないようにしてね」
「平気ですよ義姉さん、子供じゃあありませんから」
 すす、とフェルリナードがこちらの膝を盾にするように身を引いたのを見て、あれ、と思って顔を向け直せば、『エフェレツィス』の母の後ろにオルディナの当主、そしてその隣には別な女性。杖を突きつつ距離を詰めたミシュリアが、その身を引いた中の娘に手を伸ばした。
「さあ、お迎えに来たわエフェレツィス。もう声を出しても大丈夫よ」
 言われてこちらを見上げてくるのには、一度会っただけでは慣れないかと思いつつ立ち上がって背中を軽く、そちらに向かって押してやる。
「喋って大丈夫。ご挨拶しておいで」
 妹はそれで、数歩の距離を縮める。その場に膝を突いて迎えたミシュリアに、その後ろの女性を気にしながらもしっかりとした声をあげるのが聞こえて来た。
「しんねんの、ごあいさつをもうしあげます、お母さま」
「ええ、ええ。良い年にしましょう。ね」
 頬を撫で、片腕で白い子供を抱いて、それから杖を手掛かりに立ち上がる。――子供好きな人のようには思っていたのだが、思った以上に、かもしれない。顔を上げたその人と目が合って頭を下げた。
「新年のご挨拶申し上げます、ミシュリア様。ディフィリア卿にも、良い年の巡りがありますよう」
「こちらこそだ。流石だな倅は。エフェレツィスの引率ありがとな」
「俺は一緒になって固まってただけなので。お初にお目にかかります、ライラシュク様」
「おや。お話に聞いた通りの聡いお子ですね、ユゼ殿」
「母親似なもんで」
「皮肉ではありませんよ? 初めまして、クロウィル。エフェレツィスも、初めまして、と言った方が宜しいかしら。貴女の伯母に当たります、伯父の妻のライラシュク、と。ライラ、とお呼びなさい」
「……ライラおばさま」
「ええ、そのように。……ふふ、少し面映ゆい心地がしますわ、やはりわたくしたちにこういうことは向かないのではなくて、シーヴァ?」
「家族構成に向くも向かないも無いだろ」
 言いながらの二人も加わって、ちょっとした一団が形成される。ラシエナとオルディナの夫婦、フェリスティエも入っての挨拶合戦の最中にフェルリナードが足元に駆け寄って来て、長衣の裾を軽く握って見上げてくる。
「どうした?」
「……ずっと、こっち、見てるひと、いる……」
 言う妹が見る方向は椅子の背の向こう側、だが人々がたむろするベンチの方では無い。フェルリナードの視線を追いかければ、最初の鐘が鳴る前に目が合って見合った一人。彼はじっとりとした眼でこちらを睨み続けているようだった。色は黄、雷のそれ。ああ、と思う。あれは嫉妬の眼だ、だが何に対してのものだろうか。疑問に思うのはそのまま首を傾げるのに反映して、それで粘っこさを増した視線は不意に外れてそれていく。大人、男女なら両親だろう、その二人が近付いて声をかけたその次には少年が喚くのが聞こえた。
「俺が白の子だったのに、なんで黄色なんて!!」
 あまりな大声に周囲の眼が一斉に集まる。迎えに来た両親だろう二人は慌てた様子でそれを宥めにかかっていた。
「こ、こら、黄だって立派な象徴色だろう。雷の神は勇猛な男神らしい、まさにぴったりじゃないか」
「嫌だ!! 黄の子なんて花冠も意味ないし水ももらえないし意味ないじゃないか、なんで白じゃないんだよ、俺がやるはずだったのに!!」
「ま、まあまあ、そう言わないで」
 彼の父母は、どうやらあまり宥め上手ではないらしい。少年の大声はこちらに周囲の目を集めるのに十分で、どうするかなあこれと父を見上げれば腕組みに肩をすくめる仕草。下から両手が伸びてくるのには腕の中に抱えてやれば胸元にすがるように身体を寄せてくる。一瞥だけを騒ぎの中心に向けた『エフェレツィス』の伯母が距離を詰めて来て、杖に身体を預けていたミシュリアを空いた椅子に腰掛けさせながら口を開いた。
「気にすることではないわ。色の子はもともと色を添えて神殿から指名されるもの。その子に相応な色が与えられるのだから」
「その指名自体三日前までなんも前触れも無いしな。子供は新年に王都にいるか、って確認の後に衣装が届いて、それが前日。『やるはず』なんて無えんだよ」
「そうなんだ。……その割には目の敵にされてるみたいだけど」
「最前列は水貰える率上がるからな。……ああでも、今年は四色か。多いな」
「去年までずっと二色だったからな、増えるもんなんだなぁ、あれ。実際見て見ると驚くわ」
 総長に父が言う。それで思い出して、いつの間にか互いに知ったるという様子の二人をもう一度見上げた。
「そういえばだけど、さっきので終わり? 日の出までって何度か言われたからちょっと覚悟してたんだけど」
「ああ、神事自体はさっきので終わりだ。終わっても気抜くんじゃないぞ、って意味だな、日の出までってのは。街の方じゃもう篝火やら何やら始まってるだろうが、俺たちは少し待機だ」
「わりともう今にも逃げた――」
「嫌だ!! こんなのサギだろ!!」
 閉口する。したはずだが、うるせぇ、と低く声が出てしまっていた。腕の中で妹が身構えてしまうのには背中を叩いてなんでもない、お前のことじゃないから気にするな、と言っておく。父が喚いている少年の方を見やって、ああ、と声を漏らした。
「オルマニュア卿か……」
「知り合い?」
「仕事柄、大概の方々とはな。ただまぁあそこのことならアイラーンのが詳しいだろ、フェスティ」
「人を噂話の場には巻き込まないで欲しいなぁ。誰も聞いてなさそうではあるから、それはいいんだけど」
 人々の注目はあの少年に向いているようだった。ラシエナが短い距離を駆け寄って来て、腕の中のフェルリナードを覗き込むのに紫青は大丈夫と返している。大声は苦手だもんな、と後ろ頭を撫でてやれば少し力が抜けたように思う。喧騒の中心は、やはり未だに文句を言い立てている少年で、的にされているこちらに視線は向けても耳を立てている様子の人は見当たらなかった。フェスティがその少年の目から庇うような位置に立ってくれ、ラシエナの肩に両手を置いて言葉を続けた。
「オルマニュア卿、オルマニュア伯は東の方でね、五代前の国王陛下の姪御が降嫁した家の一つなんだ。当時は侯爵位にあったけれど失敗が続いて戦時中に降格してしまってね。召し上げられた領地の預かりになったのがアイラーンの分家にあたるヴァスヴィランで、だからって何かとやっかんでくる家だ。あの二人、今の当主夫妻は大人しい方だけど、大体はあの子みたいな癇癪持ちだね。思い通りにならないとなると、ああやって文句わがままのし放題」
「……幾つですか?」
「あの子は確か九とか十とか。君に較べるのは相手がかわいそうだけど、年相応ではないね、確かに」
 俺そんなに長じて見えたりするのだろうか。まだ至らないところがありすぎると母なんかを見て思うのだが。不思議に思っているうちにざわざわとした騒めきの示す先が動いて視線が集まる先が移動する。追いかけて目を向ければ、人垣を隔てて別な集団を築いていた国王と王女が、囲っていたその幕を破って姿を見せたところだった。王が騒ぎの方をぐるりと見渡して、そして眼が合う。会釈だけ向ける周囲に倣って自分もそうして、おそらくこの集団の誰かに頷きを返してくれたその人は紅を少年とその父母に向けた。
「卿ら、なにかあったのかね」
 声の上がった瞬間に夫妻が慌ただしく振り返って礼を象る。取り繕うような声。
「あ、新しい年の初めにしてお騒がせして申し訳ございません、陛下」
「元気なのは、良いことだが。そろそろ神官長も戻られる頃だろう、あまり声を荒げるのはな。精霊たちにも忌まれてしまっては元の子も無い、良いかな」
 最後には少年に対して言って、子供の小さい返事に頷いて返す。国王はそのまま視線をこちらに向けて、見た先は父のようだった。数歩、詰められる。
「今年もよくよく頼む、ユゼ」
「そういうのは団長へどうぞ、陛下。自分は今はただの子供の迎えなので」
「魔導師相手に言った言わないの問答は骨が折れるからな、言質だよ。今年こそ逃げられかねんとも思っているのだから、多少は許せ。夫人は、いらしていないのか」
「これの兄弟を迎えに行ったようで、後で合流を」
 これ、と言われつつ肩を叩かれる。『エフェレツィス』も抱えているのにやめて欲しい、こっちの気持ちはわかっているだろうにこの親は。自分の知らないところでなら自由に使ってもらっても気にしないのだが、物体として巻き込まれるとどうにも居心地が悪い。唯一幸いなことは衆目に『フィーヴァ』として知られることは無い、ということだろうか。命を狙われる危機は今のところ回避されているように感じる。そこは注意されて徹底されているようだった、きっと母が恐ろしいからだろう。王の目がこちらを向く。
「そうか、次男だったか?」
「はい。兄も姉も今は村で職に就いています。兄は既に御用達の門下に入ったと聞きました」
「そうか、ならその手のものも既に見たかもしれないな。数日はこちらの用が入って空きがなくてな、夫人にも会えれば良いのだが。……ディフィリア卿、姪御の様子は如何だね」
「まだぼんやりしてるところもありますが、程々に。その折は陛下にも紫旗にもご助力頂いた、区切りを超えてではあるが感謝申し上げる。このようによく懐いて離れないで、紫旗には迷惑かもしれんな」
「二次被害がないのが一番。こちらこそ母御から引き離してとは心苦しいが」
「いいえ、エフェレツィスには兄も姉もおりませんもの。まだしばらく不安のあるうちは、病のこともありますし、見ていただけた方が私も安心できます。私はきっと手放さなくなってしまいますから、ラシエナ様やクロウィルさんと一緒の方が。会えないわけでもありませんし」
 ――全然思ってなかったがこの人も演技派か。きっと総長からありとあらゆる情報を仕入れてのこれだろうが、王に全く怖じもしていないのは確実に素質だ。あるいは自分たちが訓練なり勉強なりをしている間に会談でも設けていたか。そういえばあの使い魔は父が参謀に入ったと言っていた、なら安心して任せられる。曲がりなりにもあの母と対等に言い交わすことのできる人だ、コウハの村に戻ってから、それまでには一度も見なかった母が言い負ける場面というのを何度か目撃したか、その相手は必ず父だった。やはり魔導師ということなのか、母の惚れた弱みなのか。頭上の会話を聞きながら思っていると、腕の中で紫青が動く。流れのまま別の一団に声をかけに行った王に周囲の視線は追従していて、フェルリナードの視線の先には人垣の先でひょこひょこと揺れてこちらを伺っている様子の水桃。ああと思って下ろしてやれば、フェルリナードは一目散にそちらに駆けていって、それで数人が気付いて視線が動く。足元まで駆け寄って来た紫青を抱え上げた王女は、本当に近い位置の数人だけの視線を引き連れつつ、青銀の背中を撫でながらこちらへと距離を詰めた。
「気を遣わせてしまったわね、ありがとうクロウィル」
「いえ、本人が行きたがってたので」
「そう? ふふ、嬉しいものね。フェリスティエも、お久しぶりです、ごきげんよう」
「急に団から消え、申し訳ありません、殿下。『エフェレツィス』とも随分懇意に見えますが、良かった。色々あったとは妹から聞きましたから、少し不安にも思っていたのですが、殿下のとなれば憂いもありません」
「何人も助けてくださる人が居ましたから。クロウィルも、ラシエナもね」
 名を指して言われると、流石にくすぐったい。苦笑してそれでなんとかごまかして、王女と妹が声を交わしてきゃあきゃあしているのには平和だなあ、と心中に呟いた。先ほどまで視線の中心にいた少年は、どうやら父母に扉の方に急き立てられているようで、今はすっかり大人しい。やはり王の言葉は効くらしかった。
「……あ、そういえば、フェスティさん」
「うん?」
「ちょっと気になったことあって。さっきの、鐘の後のって、なんですか?」
「ああ。君たちは色の子だからね、神事の間は神殿側の存在だと見做される。それを現実側の人間が迎える、その行為でこちら側に連れ戻すんだ。声をかけて、迎えたと明言してね。それまでは声を交わすのは厳禁。水を受けた子は特に、眼を交わすのもよくなくてね、一方的に言うのはいいんだけれど、とにかく会話は駄目だね」
「……なんでですか?」
「さて、理由は、どうだったかな。神殿のことは『そういうもの』って決まりが多いからね、あまり理由を考えないんだよね」
 理由らしい理由は不明。そう言われて疑念が浮いた。神事の間にという理由は、神官から聞いて理解できたが、理由のないものを、そうだから、というだけで魔導師であるこの人が納得するものなのか。それとも神殿が、魔法使いたちの研究や究明を許していないのか。
 魔導師がわからないものを放置しているのも珍しい気がする。思いながら、父もそうなのだろうかと視線をそちらに送れば、いつの間にか父のいる方には他の上位の貴族らしい数人が加わって談笑している。男性たちは勲章を付けているから、おそらく大きな軍を抱える指揮官だろう。この国の勲章はまだ読めない、勉強しておかないととざっくりその場の顔ぶれを頭の中に入れてしまう合間、大人たちに混じって楽しげに笑い声を交わしているラシエナが見えて感嘆した。さすが公爵令嬢。この国の第三位の女性の冠は伊達ではない。すごいなぁと思いながらそちらを眺めていると、背を向けていた側、段の上で木の軋む音が聞こえた。振り返れば、紗の幕をくぐり抜けた白衣、老女がひとり戻ってくるところだった。
「あら、あら。こんなに沢山の方をお待たせして、失礼いたしましたわ、皆様」
「待ち構えていたところだ、神官長殿。それで、どのような?」
 王が応えて、続けて問いかけるのに、老女はフードと紗に隠されない口元で笑みを浮かべる。そのまましっかりとした足取りで段を降り、王と王を囲う集団の方へと足を向けた。さほど離れていない場所で立ち止まる。
「恙無く。鏡は常の通りに在りまして、泉は豊かに満ちておりますよ。わたくしもこの齢にて初めて泉で潜水致しましたほど」
「それまでに」
「はい。祭を過ぎましても、水位は増して留まりましょう。祭祀の役の者も、継ぎ手を探さなくてはなりませんね」
「何か手伝えることはあるかね?」
「何も。王にして頂けるようなことはございませんよ、陛下」
 言う白衣が、立ち止まったそこで何かを探すように視線を動かしたのがわかった。フードの頭の先が向いたのは王女で、老神官は紫青を抱きかかえたスィナルに向かって足を進める。『エフェレツィス』を抱えたままの王女はその場で老神官に軽くお辞儀を向けて、老女が一歩もないまで近付けば皺の手はその王女の頬に添えられた。軽く撫ぜるように手が動く。
「殿下、十二年もの長いおつとめ、よく投げ出さずにして頂きましたこと、感謝致します。成年までの最後の一年でございます、立志の色が定まりましたらお知らせくださいませね」
「はい、神官長様。もう最後と思えば寂しくはありますけれど、成年すれば好きに北宮から出られますもの、きっと二日と空けず参りますわ」
「スィナル……」
「お父様だって、私がこちらに参りますのに反対なさったことはありませんもの。そうでございましょう、お父様?」
「それはそうだがなぁ。神官たちの迷惑にはならんようにな?」
「心得ておりますわ。……そうだわ、神官長様、この子です。オルディナの当主様の姪御で、今は紫旗にて保護を続けております、市井の法力の子です」
 言って、王女が腕に抱えて抱きしめていた紫青を老神官に示す。紫は示されるずっと前から老女を見上げていて、手を下ろした白衣はゆったりと頷いた。
「承知しております。エフェレツィス、ですね」
「はい、クィルネアスさま」
 驚いた。面食らった、の方が正しいか。すぐ横で王女が抱えた紫青がすんなりと応えたのも、その声がはっきりしていることにも、知らない名で神官長を呼んだことにも。呼ばれた老女がふふと笑う。
「きっと精霊か『隣人』でしょう、とても良く視え良く聴く子。……お母上は、そちら?」
「はい、ミシュリアでございます、神官長様」
 いつの間にか周囲の目は神官長を中心にした数人を取り囲んでいて、喧騒は無秩序な声の塊ではなく、一様に噂するような小声の波に変わっていた。声を向けられたミシュリアは一切の物怖じも見せずに椅子の上から応えて、当主夫妻を子の伯父と伯母であると付け加える。老女はそれに一つずつ無音の相槌を返して、それから両手を袖の中に組む仕草が見えた。
「ご安心なさって、法力の子だからと勝手に召し上げることはありません。本人が望んでこその役目です。生家との糸が絶え、長い任期が明けるまでは辞すこともできませんから、尚のこと。それでも?」
「娘は既に『隣人』を視ます。ですが正しい扱いを知る術が当家にはございません。家と血の繋がりを絶つとはいえ死に別れるでも、会えなくなるわけでもありませんでしょう? ですから、あとは本人の意思のみです。私が最終決定の権を持つつもりはございませんわ」
 神官に、そのための会話だと気付いてミシュリアを見、父を見上げても指先で後でと示されるだけ。そうですか、と笑みの声音で老女が言うのが耳に聴こえた。
「良いお母上を持ちましたね、エフェレツィス。貴女はまだ幼すぎる、……勉学なさい、今よりもずっと多くのことを学びなさい。……お兄さんを説得できたら、修行においでなさいね」
 最後はひそめられた小さな声。老女は紫青の頬をゆっくりと撫でて、そして唐突に声を上げた。
「……この子の瞳は赤ですね。きっと傷に青を負って、そうして濁って混じってはいるけれど、純な氣に染まればそれは綺麗な真紅の色。命色は紅青、氣は氷と闇。ふふ、夏は少し苦手かしら」
 言ってようやく、手が離れる。なんのことだとフェルリナードを見れば――瞳の色が、濃い赤に変化しているのが視えて、瞠目を瞬きでごまかしているうちに、老女は変わらない様子で、だが笑む口元を袖で隠す合間に囁き。
「わたくしの預かっていた『隣人』です、害はございません」
 紫青――紅青が両腕を伸ばしてくるのをスィナルの手から受け取って抱きかかえているうちに声は止んでしまっていた。ちらと見上げた大人たちの表情には変化はない。
 街の祭りに行く前にやることが増えた。ひとまずはそう思うことを意図して意識して、それ以外の重さを軽く軽くと念じる。フェルリナードは、腕の中で自分の両手を見下ろしていた。
 気付けば声が聞こえなくなっている。口の中には魔石の痕跡もなかった。




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