眼を覚ませば、なんとなく建物全体がざわめいているようだった。
 押さえつけるような緊張に抵抗するように身体を起こす。寝台の上、毛布の中から素早く這い出て、簡素な衣装棚から一通りの衣服を取り出して夜着から着替える。寒い、と、建物の中でも不可欠になりつつある上着と外套を取り出して袖を通して、それで部屋の扉を潜った。
 間借りしている部屋は、貴族の邸宅として使われていた頃には使用人達の部屋だったのだろう、屋敷の端の小さな一部屋だ。公爵家の令嬢も同じように小部屋に納めてしまうのだから藍色達は少しもブレが無い。思いながら部屋から出た廊下を広間のある方角へと小走りにして、その途中にある大きな樫の扉を開いて中を覗き込んだ。
「おはよう」
「あら、おはようクロウィル。昨日も遅かったのに早起きね?」
 台の上で作業をしていたらしいその人が振り返って笑みを浮かべる。大きな厨房では、既に何人もが包丁や食材を手に朝食の準備を進めていて、その彼らとも朝の言葉を交わしながら、彼女――ファリマの側に駆け寄る。
「外晴れてるから、明るくて」
「良いことね。そこにお湯を沸かしているから、使って顔を洗って頂戴な。そうしたら手伝ってくれる?」
「うん」
 子供が紫旗の本部に居座る条件の一つが雑用だ。そもそもここに立ち入れるのも親という強力な伝手があってこそだが、ここに集まる大人達はそれだけで全てを許容してくれるほど無防備ではないし、クロウィルもその方が気が楽で良かった。そう思っているからファリマの言葉にも素直に頷いて、弱火の上に据えられた薬缶から、すぐそばの流しに伏せられていた盥に熱湯を注いで、熱すぎないように冷たい水を入れてぬるめてそれで顔を洗う。
 横に積まれていた手拭いを一つ借りて水気を拭ってしまおうとしているうちに、背後の扉が開く重い音が聞こえて振り返った。質素な私服に変えたラシエナが、目元を擦りながらふらふらと入ってくる。
「おはよう」
「……おはよう、クロ、ファリマ……」
 声音からして眠そうなのがありありと伝わってくる。思わず苦笑すれば、どうやらファリマもその様子だった。
「もう……朝弱いのに、あんなに無理するからよ」
「ディストにもいわれた……ごはん手伝う……」
「その前に顔と手を洗って頂戴な。クロウィルは、こっちをお願い」
「わかった、どうしたら良い?」
「そこの野菜を細かく刻んでしまってくれるかしら。雑炊を作るから、少し手間がかかるのだけれどね、楽になるから」
「雑炊?」
 珍しい、と、素直に聞き返した。朝の厨房ではこの屋敷で寝泊りをする団員達の朝食を賄うが、職務もあってか朝から中々重いものが並ぶ事が多いのだが。言いたい事を察してくれたのか、彼女は調理台の上を示しながら口を開く。
「あの子の分よ。かたいものは少し、ね」
 あの子、と口の中で反芻して、それでああ、と声を漏らした。そうかと首肯してすぐに作業に取り掛かった。揃えられたのは根菜、人参や蕪やシャロットと、あとは別の場所には珍しく魚の干物が置いてあった。
 魚は苦手なんだよな、と、既に泥は綺麗に落としてある人参に取り掛かる。葉ごと頭を落として余分なひげは手で取ってしまって、包丁でそれを言われた通り小さくしているところで、横にもう一人が合流した。
「ねんむい……」
「指切るなよ……?」
「がんばる……ファリマ、ヴァスカ採ってきた方が良い?」
 同じように包丁を手に取ろうとしたラシエナから不意に上がったその声には、鍋の中の様子を見ながら団員の準備も進めていたファリマが振り返る。調理台の上を見渡してから口元に手を当てた。
「あら、やだ、無い? 忘れちゃったかしら」
「畑にあるよね? 何枚か採ってくるよ」
「有難う、お願いね」
 踏台から飛び降りてラシエナが扉の外に駆けていく。少しの間それを見送って、それで手元の作業に戻った。一人分の量にしては多すぎるから、恐らくは子供という分類で一緒くたなんだろうな、とは、思っても口にはしない。
 手際よく人参を刻み終えたところで、ラシエナが何枚かの香草の葉を手に駆け戻ってくる。真冬の冷たい水にも怖じもせずに緑の葉を丁寧に洗って、水気を払ってから調理台に身体を向けて作業を始めた。
 ラシエナはもうすっかり眼は覚めているようで、二人がかりであれば大した作業量でもない。思った通りすぐに終わって、今度は出来上がった団員達の分の料理を大皿に盛っていく作業に移る。重さと大きさのあるそれを運ぶのは流石に大人達に任せて、かわりにと取り分ける皿を抱えて食堂に向かった。
 食堂も、この屋敷が貴族のものだった時には大勢の使用人達が詰め掛ける場所だったのだろう、厨房からすぐの場所の広い空間には長机と長椅子がきっちりと据えられている。その中のいつもの場所にいつものように丸皿を並べて据えて、それを何度か繰り返したところでファリマに呼び止められた。
「二人とも、もう大丈夫よ。有難う、助かったわ」
「全然。他は平気?」
「ええ。最後に、あの子とあなた達の分、これを大広間に持っていって頂戴な」
 示す先には、盆に乗った深い丸い皿が三つに、もう一つの盆には牛乳とコップが三つに、焼いたばかりのパンが幾つも積まれている。やっぱりと思うのと、大広間にという言葉には首を傾げた。
「……広間にいるの? ずっと?」
「ええ。少し、ね。団長達がいるみたいだから、そこで話を聞いておいてくれると助かるわ」
 言いながらファリマが盆を持ち上げて、雑炊が盛られた方を渡されるのには素直に受け取る。ラシエナももう片方を受け取って、それで押し開いてくれた扉をくぐって広間へと足を向けた。
「……どうしたんだろ?」
「んー……?」
 ラシエナの呟きにも疑問符でしか応えられない。紫旗の大人達は、子供相手だからといって誤魔化したり変に隠すような事はしないが、だからと言って真意が解る訳でもなかった。結局は言われた通りに大広間に行くしかなくて、その扉を開けて暖炉の方に目をやれば、やはりというかそこに何人かが集まっていた。
「団長、おはよう」
「おお。もうそんな時間か、おはよう二人とも」
 声を掛ければ藍色の頭が動いて紫色の眼が見える。紫藍、クォルク団長は椅子に座って暖炉に身体を向けていて、その視線の先では重ねた絨毯の上に腰を下ろしたレティシャと、その彼女に抱き付いた銀色。気付いたレティシャが顔を上げて、そして苦笑する。
「二人ともおはよう、運ばせてしまってごめんなさいね、動けなくって……」
「いいよ、おはよう。……その子、大丈夫そう?」
 二人の近くの丸テーブルに盆を据えて、そうしながらラシエナが銀色の様子を伺えば、ちらと上向いた紫が見えた。目元が赤く熟れたようになって潤んでいるのに気が付けば途端に金がたじろいで、その様子には団長が笑う。
「朝一に客がいらしてな。あんまりに声がってんでまた泣いちまったんだよな」
「……だ、大丈夫……!?」
「大丈夫よ、怖かったのよね」
 レティシャが膝に抱えた銀色を撫でれば、その藍色の制服を握る手が僅かに緩むのが見えた。盆を同じようにテーブルに置いて、そうしてからレティシャと、彼女と同じように絨毯に腰を下ろした数人に向かって言葉を向ける。
「皆の分、持ってこようか?」
「ああ、いや、俺は大丈夫だ。後でなんとかするよ。イース、ディスト、どうする」
「もう朝だしあたしは退散するわ。ちょっと昼まで寝むわね」
「私は向こうで頂いて来ますよ。レティシャに後は任せますが」
「そうね、私も平気よ。先にこの子のご飯にしましょうか」
 言ったレティシャが腕に子供を抱え上げて絨毯から立ち上がる。その間にイースとディストの二人は大広間から出て行く扉を潜って姿を消してしまう。その間に盆の上から皿をテーブルに移してとして、促されるままに椅子を持ってきて一つのテーブルを五人で囲んだ。気にせず食べろという団長の声には有難くその通りにさせてもらいながら、しかしレティシャがスプーンに雑炊をすくって膝に抱えた少女の口元にそれを寄せるのに、なんとなく視線が向く。
 紫銀は、自分の口元に向けられたスプーンからほんの少し逃げるようにレティシャの胸元に縋って、それでも表情は不思議そうに掬い上げられた一口分の雑炊を見つめていた。動かないまま数秒、そうして紫が漸く女性を見上げて、瞬く。
「……どう、したのかしら。食べたくない?」
 レティシャが慌てて紫銀の顔を覗き込む。紫はただ彼女の瞳を見返しただけで、そこには僅かに不思議がるような色が浮かぶだけだった。手を止めたラシエナが、首を傾げる。
「こういうの食べたことないのかな。……お腹空いてない? お茶とかホットミルクとか持ってこようか?」
 言いながら手を伸ばして、ラシエナがレティシャの膝の上に行儀よく収まった子供の頬に手を当てる。子供は触れた掌の持ち主をちらと見上げて、それからスプーンを皿に戻したレティシャを見上げて、彼女の藍色の衣装を軽く握る。
 やはり言葉が通じていないのかと、その様子に思いながら、皿から掬い上げた一口を押し込んだ。魚の干物をほぐしたのが入っているのが噛んでいるうちにわかったが、あの独特な濃いような分厚いような匂いがないのには軽く驚いた。美味しい、とそう思ううちに視界の中で大きく藍色が動いて、見上げれば団長がテーブルに肘をついて額に手を当てていた。
「……どうかした?」
「あー、まあな……。お前らは良いから食ってろ、午後まで色々仕事あるだろ」
「あるにはあるけど」
「ならつべこべ言わずに食うの」
横から伸びてきた手がこちらの手の中からスプーンを奪い去り乱雑に掬い上げた一口を口の中に突っ込まれる。むぐ、と呻きながらもクロウィルは大人しくそれを食んで嚥下する。何だかなぁと思いながら食事を再開しようとスプーンを奪い返したところで、不意に視線に気づいて、目を向ければ紫にぶつかった。
 視線が合った瞬間に理由もわからず硬直した。子供、紫銀を抱えたレティシャとクォルク団長が思案しながらぽつぽつと何かを話しているのが聞こえたが、言葉が頭に入ってこない。横に座った幼馴染の声。
「……どしたの?」
「いや……」
 濁して返しながら眼を逸らせる。ラシエナは弟がいるから良いが自分は自分以外に子供なんて少しもいない環境で最近まで過ごしていたのだから、扱い方なんて少しもわからない。昨日は眠ってしまっていたから落ち着いて抱えていられたが、こうして眼が合ってしまうとどうも難しい。思いながらもう一度ちらとその子供を見れば、雑炊の入った皿とクォルクの手とを、交互に見比べているようだった。
 ん、と、思う。テーブルに置かれたスプーンに指先で触れて、それでも持ち上げはしないままクォルクとレティシャを見ているのに気付いてか、隣のラシエナが首を傾げて同じように視線を向けるのが視界の端に見えた。同時に揃って見上げた大人二人は、小声で何かを言い合っていて気付かない。
 色違いと視線を合わせる。そのまま彼女が首を傾げるのを見て、ならと手を伸ばしてラシエナの皿からスプーンを拾い上げ、掬い上げて、その口元に持って行った。少女の疑念がわかりやすく表情に生まれる。
「え、なに」
「何って見本」
「え、なんの?」
「いいからいいから」
 ほら、ともう一度示せば、疑念はそのままに口を開いてくれる。大人が子供にするようにしてその口の中に一口分を入れてやれば、ラシエナもそうしている間に視線に気付いたらしかった。分かりやすくゆっくりと咀嚼して、わかりやすく大仰な仕草で飲み込んでくれる。紫がこちらを向いているのを確認してからもう一度同じように繰り返して、それから子供の前の皿に手を伸ばす。置いてあったスプーンで小さく雑炊を掬い取って、注視しているらしいその口元に持って行って近づけてみれば、今度は素直に口を開いて咥え込む。大人二人も気付いた中で、赤子にしてやるように流し込んでやれば、どうやら難儀しながらも飲み込んだようだった。
 よし、と内心に思う。二口目もゆっくり続けてそうやってやれば、今度はさほど苦労もしないで咀嚼して飲み込むのを見て、それから藍色の方を見上げれば、二人は揃って難しそうな顔をして考え込んでいるようだった。
 駄目だったのかという不安が急に湧いて、色違いと顔を見合わせる。それでようやく片方の苦笑が聞こえて、目を向ければレティシャだった。
「大丈夫よ、有難うクロウィル」
「え、……っと、大丈夫だった……?」
「ええ、大丈夫。食べられるみたいね、なら良かったわ」
 言う手に促されて、それでスプーンを渡してしまえば、あとは彼女と子供の仕草だけのやりとりで、子供は道具を握らされる事も素直に受け止めて、使い方もすぐに覚えたようだった。それでようやく、何かがおかしいと言葉が浮かび上がったと同時に、藍色の片方が立ち上がる。クォルクは視線を向けた子供二人には目もくれなかった。
「レティシャ、預ける。少し調べ物して人を呼んでくるが、俺が戻るまで絶対に誰にも渡すな」
「ええ、了解したわ」
 すぐに返した彼女は子供が膝から落ちてしまわないようになのか、それともその言葉の通りなのか、腕を回して子供の体をしっかりと抱えている。その背後で空気に溶けた藍色がわずかに揺れるのを受けてか彼女は頷いて、それで影は消えていってしまった。
 ――本部の中なのに隠形してまで控える団員がいる。異様だと感じ取ったそれにかレティシャはこちらに目を向けてくれた。
「気にしないのよ。それより、早く食べてしまわないと、すぐに仕事の時間でしょう?」
「……あっ、そうだ今日色々やんなきゃ」
 は、と我に返ったらしいラシエナが急いで食べ始めるのに続いて自分も手と口を動かすのに専念することにする。水気で嵩増しされている分たぶん昼まで保たない、というちょっとした不満は口にはしないで、ちらと見やったさきで子供はもう一人で食事をしていた。時々咳き込むのには、レティシャが甲斐甲斐しく口の周りを拭いてやりながら、背中を叩いてやっていた。その度に見上げるのも、きっとその意味がわかっていないからで。
 なにかがおかしいのだという漠然とした不安を表に出すこともできないで、結局そのまま急いで雑炊を流し込んで大広間を後にした。食事が終えても、子供はまだ抱えられたまま大広間に残っていた。




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