あと二日となって、さすがに協会の中も慌ただしいような、何かに気構えるような空気が漂い始めていた。何かというのも正体が知れているから変に緊張ばかりが先走らなくて良いと、フェルは眼元を押さえながら情報室の扉を軽く叩いて開き、中を覗き込む。
「レンネさん、同意書集めてきましたよー」
「おお、助かる。悪いなサージェ、黒を使い走りにして」
「準備とかも時間あってできちゃってたので、大丈夫ですよ」
 執務室とは比べ物にならないほどの紙の山の中、そのどこかから聞こえてくる声には、いつもながらすごい光景だなぁと思いながら返す。這い出るようにしてこちらに来ようとする一人を見つけて、腕に抱えていたものを整え直した。
 合同任務、と関係者の内外を問わず呼ばれているのは、実際には四協会全体での意味であって学院と、という意味では無いのだが、こうなっては同じらしいと同意書の内容を確認しながら何度目か思う。同意を求める内容は主に魔導師に向けてのもので、大筋としては『この任務中に見知った禁忌魔法をその以後許諾なく使用あるいは流布する事を禁じる』というものだ。
「全員署名してくれたか」
「はい。つまり任務中に知ってる魔法使いから聞き出して使えるようにすれば良いんだな、って満場一致でした」
 紙の山から這い出てきた男性、書記官の一人であるレンネは、フェルの言ったそれには遠い眼をして答えてくれ、差し出された書類入れを受け取って開き、署名を確認しながら枚数をあらためる。
「……うん、よし。サージェも書いてくれたか、有り難うな」
「エクサさんが立ち会いしてくれたので、良かったです。……にしても、見てると任務行く人って結構な人数ですよね」
「だな。医療班やら、特別配備の戦闘要員とか、記録員もいるとかで小規模な行軍と同程度だなぁ。周辺貴族の小競り合いとかでよくある数」
「それってよくあるんです?」
「それなりにな。……あれ、知らないか? エジャルエーレの所なら、かなりの頻度で喧嘩ふっかけられてるだろ」
「私エジャルエーレのお屋敷に居る事少なかったので……」
 えへ、と笑ってごまかす。後ろ盾を得て魔法を学ぶ子供の多くは、後ろ盾をしてくれている家に住み込みで働きながら、が通例だ。そうやって勉学や訓練がし易いだけでなく、行儀作法も身に付けていく。他人の子供を育てようというのは多くが貴族であり、それは彼らがその身分に生まれついたゆえの義務でもある。そうした彼らの恥にならないように、与えられるだけでないのが『ラクト』を得た子供たちの役目でもある。
 が、名目だけのフェルにそうした経験は無い。珍しく猛暑となった何年か前の夏にエジャルエーレの当主であるカティアル候に招かれて避暑に訪れたのと、昨年の冬からの拝樹試験の間、この蒼樹の街にある彼の屋敷の一室を借りていた、その二度だけ。さすが貴族というべきなのか、非実在の人間ひとりを作り上げる手腕は素晴らしく鮮やかだった。思っている間に書類の山から這い出てきたもう一人が、こちらに気づいてか声を上げるのが聞こえた。
「お、サージェ。珍しいな、こっちに来てるの」
「レンネさんのお使いしてきたんです。……ヴァスさん、隈すごいですけど、大丈夫です……?」
「さすがに三徹越えるとちょっとな。先遣隊帰ってきたら流石に寝ると思う」
 越える、ということは四日目か五日目か、その上休憩も確定で取ると言えないとは。思っている間にレンネは書類の分類を終えたらしく、そこらから拾い上げた封筒にそれを揃えてフェルに差し出し返した。
「大型任務前だといつもこんな感じなんだけどな、今回は学院が絡むからって神経質になってるだけだから、あんまり気にしないでくれ。これ長官に渡してもらえるか、さっきからあっちこっち行かせて悪いんだが」
「大丈夫ですよ。わかりました、渡してきます」
「それで同意書関連は終わりだから、そっちの準備に集中してくれ。情報の確認とか、現地の地形図なんかはもうこっちに詳細詰めてあるから、その辺りが気になったらまた来てくれな」
「わかりました」
 答えながら、苦笑する。彼らがそう言う理由もなんと無くだがわかる、確かに少し前から若年の所属者が増えてきていたとはいえ、自分のような明らかに子供と見て取れる黒服は居なかっただろうから、構い症の彼らが放置するはずもないのだろう。今までは、クラリス以外の書記官とはあまり接触するなと言われていたから避けていたが、どうやら瞳の色で誤魔化すという手法が確立した為に解禁になったようだと、長官の言葉ぶりを思い返しながら、では、と背後の扉を抜けて廊下に戻る。しっかりとした扉を閉じてもその部屋の中の喧騒のような、あれこれとやりとりする声がくぐもって聞こえるのには、疲れていそうなのにと感嘆する。壁が薄いのだろうか、言葉としては聞き取れなくとも中の状況は聞き取れそうなほどだった。すごいなあ、と何度となく思いながら階段の方へと足を向けて、間を置かずに背後からの声。
「っと、お、フェル」
 振り返って見えたのは紅と桃。眼を瞬いて、珍しく何も連れていないように見える彼に向かって首を傾けて見せた。
「エーフェさん、どうしたんです?」
「いや、ちょっとした出迎え。緊急人員、っていうか、元白黒の連中が来るからって応対役仰せつかったのよ」
「……元、って、クウェリスさんみたいな?」
「そ。大型任務だからって人数投げ込んで、そのままこっちを放置ってわけにはいかないから、間はそういう奴らに臨時で動いてもらってるわけだな」
 どうやらそういうものらしい、と、何人かの口ぶりからして思う。どうやら白黒の返上をするときには、以後臨時要員としての要請を承けるかどうかを決めるらしい。そう言っていたのはあの魔法具店の店主だったが、彼も悪態はつきながらも蒼樹の樹章が縫い取られた黒いクロークを突き返す事はしなかった。
 能力の衰えがあるからなのか、騎士に対する呼び掛けは少なかったようだが、そういった面では魔法使いは良いのかもしれない。経年での衰えはほとんど無いと言って良いほど軽微なものだから。
「俺みたいに任務そのものに投げ込まれる輩もいるけどな」
「結構な人数、ですよね。エーフェさんとクウェリスさん以外にも、七人……でしたっけ」
「みたいだな。俺は面識無い奴らだけど、先輩やら後輩やら入り乱れて合計九人。クウェリスは救護の援助だけど、俺含め他の八人は寄せられてくる『異種』の相手が仕事。本当は八人なんかでやる仕事じゃ無いんだけどな」
「うわぁ……」
 酷い、と呟いても彼は肩をすくめるだけだった。分かっていて来た、ということなのだろうか、思う間にそういえばとエーフェは階段を指し示した。
「ヴァルディアが探してたぞ。他の協会から応援来るって?」
「あ、はい。主に東から、余剰人員をってことになってます」
 その関連で何故か神殿にも要請が来ていたから、よく覚えている。協会の人員の貸し借りについては該当する協会同士でやりとりするのが主で、それに関して許可を求めるとすれば魔法院になるはずだが。あるいは院が不安定だから、こちらに回ってきたのかもしれない。
 言えば、エーフェは分かりやすく眼を瞬いて見せた。
「……お前、偽装とかちゃんと考えてるか?」
「…………」
 沈黙と瞬きで数秒、そして眼を逸らせていった『紫銀』に工学師は深く嘆息してみせる。フェルが言葉に詰まっている間に彼は呆れたように腕組みしていた。
「危機感無ぇ……」
「……蒼樹って、すごい、奇妙なほどに治安良いですよね……協会の中も模範的な人格を持つ人達しかいないっていうか」
「それセオラスに向かって言えるか、模範的な人格って」
 さらに言葉に詰まっただけだった。この人までに言われるとはセオラスは思った以上に悪名高いのかもしれない。頭を突かれて渋々そちらを見上げれば、エーフェはどこか面白がるような表情を浮かべている。
「とりあえずヴァルディアのとこ行っとけ、なんか話あるみたいだから」
「……わかりました……」
 たぶんきっと絶対何か言われる、その予想が容易すぎて口籠るように返せば笑いながら肩を叩かれ促される。それで階段に向かって改めて足を向け直して、スカートを少しだけ持ち上げて三階へと駆け上がった。歩く走るには支障は無いが、段があると踏んで転びそうで少し怖い。そうしながら駆け上った先、二階の情報処理室の真上が長官の執務室で、階を隔てれば流石にもう何も聞こえない。渡すものもあるからどうせ逃げられないと覚悟を定めてその扉に近付こうとして、だがまだ遠くのそれが開くが見えてあれ、と声を零した。見えたのは黒服。
「オーレンさん」
「……ああ。紫銀殿か。如何した」
 声を掛けて駆け寄れば、扉を閉じた彼は少し遅れてこちらに顔を向ける。黒いローブを片手で押えながら体を向けるのを見上げながら問いには素直に答えた。
「書記官の方のお手伝いです。オーレンさんは、任務ですか?」
「ああ。急ぎのものが一つ、付随して幾つか。そちらは、大きな仕事があると聞いたが」
「色んな人と一緒に行ってきます、クロウィルとか、エクサさんとかと」
 答えながら苦笑が浮かぶ。物理的にも他の所属者とは距離を置いている彼だ、伝わりが遅いのも道理だろうか。そうか、と零した彼は、手を伸ばして銀の頭を柔く撫でる。
「多人数は勝手が違う。気を付けろ」
「はい」
 撫でられる感触には素直に暖かいと思いながら頷いて返す。そのまますれ違って背を見せた彼と立ち位置を入れ替えるように、執務室の扉に距離を詰めようとして。

「――ツェツァ」

 急に、視線が反転した。
 直前までとあまりに違う視界に瞬時に判断ができない。いつの間にか執務室に背を向けていた身体があって、見上げているのはこちらを見据えている紫紺だと気付いて、そうして眼を瞬いた。
「……あ、れ……?」
 声が漏れ出たことにも遅れて気付いて、見上げていた眼が落ちて手が口元に触れる。――寸前まで何か、何とはわからなくとも何か。
 見上げれば、紫紺は背を向けようとしていた。引き止めようと声を上げるより先に彼は歩き始めていて、そのまま何も言えずに見送ってしまう。
 その背が見えなくなってから、フェルはもう一度自分の顔に触れた。唇よりも頬や眼元、何か表情を、象っていたような気がする。
 気付けば片手から書類を入れた封筒が消え去っていた。落としてしまったのかとすぐに床から茶色い大きなそれを拾い上げて、軽く叩いて砂埃を払う。そのまま身体を返して、もう一度扉へと向き直った。
 違和感は、不思議なほどに感じない。腕を伸ばして軽く扉を叩く。声があるのを確認してから、把手を握って扉を押し開いた。
「失礼します、書記官の方からの届け物なんですけど」
「……届け物?」
 声を向ければ、意外だったのか黄金の視線はすぐにこちらを向いた。珍しくクラリスもいない長官一人きりの空間で、なんとなく書類の嵩も減っているように思える。その中からの声。
「直接来ればいいものを……何だ?」
「魔導師各員の同意書です。これって長官は書かなくていいんですか?」
「どうして魔導師なんて自己中心的な生物が長官などという究極の利他を追求するような職に収まっていると思う?」
 問いに問いで返されて、フェルは素直に首を傾けた。確かに制限が多そうな役職な上に、北のフィエリアルならともかくもヴァルディアのような魔導師がやるには他人行儀が必要そうでなかなか成り立ちそうに無いのだが。机に向かう間にも答えは見つからず、察しているのか手を伸ばしながらヴァルディアが言った。
「禁忌魔法の常時使役が許可されているからだ」
「……初耳……」
「私もなるまで知らなかった」
 じゃあ何でこの人長官やろうと思ったんだ、とは、なんとなく口には出せなかった。何故かその事については詮索するのは憚れる。気になるはなるのだがと、やはり口にはしないままで封筒を差し出せば、受け取ったヴァルディアはその中身を取り出して一枚一枚を検分して、そうして頷いた。
「これがあったところで明確な逃げ道が確立するだけなんだが、上を黙らせるには必要だからな」
「魔法院の上層部って本当に魔法使いなんです……? それにしては色々漏らしてるように思うんですけど、魔導師相手に」
「魔導師だからだな。多少でも逃げ道があったほうが良いだろう、そういうことだ」
 疑問は、だがすぐに氷解した。結局は同類なのかと納得している間に、それで、とヴァルディアの視線が向けられるのを感じて素直にそちらに向き直った。
「別件だが」
「……さっきエーフェさんとすれ違いました」
「そうか。なら改めて確認するが」
「性悪ですか」
「十年早く言うんだったな。何か考えてるんだろうな? そのために神殿にまで書類を回させたんだが?」
 ぐ、と、言葉に詰まる。どうにかしてこの話題から逃げたいと思考をつつきまわして口を開いた。
「……それもう答え分かりきってますよね?」
 金の瞳が面白がっているのがありありと見て取れる。絶対何か言う気だと分かってフェルは肩を落として嘆息した。
「……人員の貸し借りだって協会が決めたことじゃないですか……」
「その会議の時には大公も居たはずなんだがな」
「……ごめんなさい忘れてました……」
 粘ってもどうにもならないと理解した瞬間に素直に白旗を揚げた。譲歩すら引き出せない。ヴァルディアはなおも面白がるような眼で紫をみやっていて、フェルはどうもいたたまれなくなる。
「……だ、駄目ですか」
「いや。そうだろうとは思っていた、仕事もあった上にコウの事もあったからな。北と東からの応援が今日中に着くわけだが」
「……緋樹が今来て大丈夫なんですか!?」
「逆に白黒は現地にいてもやることがない、が現状だ。良くも悪くも戦闘人員だからな、波もその余波も去って『異種』問題が一時沈静化した東には過剰、というのがあちらの出した結論だ。糧食も足りない中で出番の無い協会の所属者を養ってやれるほどの余裕も無い」
「でも、それじゃ無防備に……」
「人口を各都市に分散させている、問題無い。紫旗も警護に手を回しているから暫くは保つだろう。今はひとまず眼前の問題だ」
 言いながら長官は視線を外して机の引き出しを開く。その中から小さな箱を取り出して、それをフェルに向かって差し出した。
「仮の物だがな」
 疑問符を浮かべながらもフェルはそれを受け取る。見た目通り軽い。箱の蓋を外して中を見れば、入っていたのは雫の形をした紅の石。掌に転がせばピアスの金具が取り付けられていて、直接肌に触れれば微弱な魔力が伝わって来る。魔法具かと見て取ってヴァルディアに視線を向ければ、彼は頷いて返した。
「まだ効力は安定しないが、身に付けていれば命色であろうと誤魔化しが効く。巨大な魔法を使った後、心身に衝撃があった時には破れてしまうほどに薄くはあるが」
「瞳を紅に、ですか?」
「ああ。紫を転化するには青か紅が楽だからな、魔法薬で紅くなったのならそれに倣うのが負担も無くて良い。暫くはそれを着けているように」
「……わかりました。今日着くっていうのは、本当なんです?」
「ああ。あちらの移動陣が破損したために中央までは陸路、その後は魔法院の陣でこちらに来る。北は単純に配置の調整で時間がかかるらしいが、それでも遅くとも明後日までには、との事だ」
「……気をつけてないとですね、そうなると……」
「急に人が増える事になるからな。呼び名程度であれば気にしなくて構わないが、それ以上は徹底して排除しておけ」
「わかりました」
 知られれば強制送還の理由付けになってしまう。反対派に塩を送るような事は避けたいから、長官の言うそれには否も無かった。引き出しを閉めて、では、と彼が言うのには紅玉から目を離してそちらを見やる。
「ご苦労だった、後は準備に使って良い。……ああ、あと、もう一つ伝えておくことがあるが」
「なんです?」
「獣医の所から猫が戻ってきた。談話室に居るらしいから、間違っても投げたりはするなよ」
 ――どうして立ち寄らないという選択の難しい場所に危険物を据えるのかと文句を言うべき相手は誰だろうか。




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