扉を開いて足を踏み入れると、見慣れた見慣れない人影があった。
「あれ、長官だ」
 開いた扉を片手に押さえたまま声を上げれば、金色の背を見せていたその人はすんなりと振り返った。黄金色がこちらを捉えて、ああ、と声が落ちる。
「お前か。珍しいな」
「長官こそ。書庫塔に居るとは」
「探されている訳でもないが?」
 言う時にはもう視線も身体も大きなテーブル、机の方に向き直っている。他に誰もいないのか、やけに静かな中でフィレンスは後ろ手に扉を閉め、数歩だけそちらへと距離を詰めた。
「執務室にクラリスしか居ないし、クラリスも怒ってる訳でも無さそうだったから、休憩中かと」
「ほとんど変わらないな。……気にするな、見て良い」
 今度は肩越しに言われて、フィレンスはそれでようやくヴァルディアが立つその近くに歩を詰めた。そうしてテーブルの上に見えたのは、やはり大量の本と紙、数式と図形。
「……構築?」
「の、前段階だ。十二法師の査定が近い、その準備だな。新種の魔法一種の提出か、あるいは『異種』に関する研究報告書の提出か」
「あれ、階級査定は黒服の間は免除じゃ?」
「だから長官にはなりたく無かったんだ……余計な義務が増える」
 どうやら長官は黒服扱いをしてもらえないらしい。面倒そうなとはほんの少しの同情を浮かばせながら、フィレンスは色違いをテーブルのそれらに向けた。報告書には見えないから、どうやら言う通り前者の構築の方らしいが。
「『異種』の研究報告書の方が楽なんじゃ? 情報なんて毎日入って来るんだし」
「若干、そんな気はしている」
 言いながら彼は紙の合間に埋まった万年筆に手を伸ばして拾い上げる。ペン先から黒い文字がするすると生まれて行くのを暫く眺めて、そうしながら口を開いた。
「……それなりに前から思ってたんだけど」
「何だ」
「長官の字、綺麗」
 流れるような筆記体だ、字も文も書き慣れているお蔭だろうかと思って言った瞬間に急にそれが止まった。横で溜め息。
「……疲れているのであれば素直に寝め」
「まあ二人で出た後に一人で行けって言われたら多少は拗ねるっていうか」
「……拗ねてるのか」
「少し。……私とかクロウィルも、フェルの書き文字見てあげてたのにさ。結局長官の字に近くなってるよねぇ……」
「話が違うだろう」
 前後の繋がりがちぐはぐだ。だがそれ以上は言わないで、ヴァルディアはただ文字列を書き連ねて行く。ペン先が滑らかな紙の上を走る音。
「……お前は何をしに来たんだ?」
「勉強。魔法構築の上級、でもフェルが見つからないから」
「構築は、出来ないのか?」
「無理な気がして来てる」
 言いながら、緑の視線はテーブルの上に並んだ本の中でも、積まれたままになっている数十冊の題名を追っていた。聞いたことも無いようなものや題名すら読めないものの中に、だが見慣れた一つを見つけて手を伸ばす。制止されなかったのを許可と見て、山の中程からその一冊を注意深く引き出す。――『初級魔法構築理論』。
「……初級」
 呟く。横に眼をやれば、魔導師は既に目の前のそれに集中してしまっているようだった。相変わらず魔法使いは意識を失うのが早いと思いながら、もう一度それを見下ろして、そして異変に気付いた。随分とくたびれている上に、何故か変に膨らんでいる。明らかに背の厚みよりも紙の厚さが太い。不思議に思えて、何の気無しに、腕の上でその表紙を開いた。表題の一枚と、序文の二枚ほどを繰る。
 最初の頁が見えた瞬間、瞠目した。
 元から細かく文字の詰まった本の見開き、その余白に隙間無く手書きの文字が詰め込まれていた。どれも綺麗な筆記体、次の見開きも同じような状態で、その次には別紙が頁を延長するように張り付けられている。その表も裏も、やはり黒インクの文字で埋め尽くされているのが見えて。
「勝手に見るものじゃない」
 音を立ててそれを閉じた。反射でそうした後に、ええと、という控えめなフィレンスの声が落ちる。呟いてから眼をそちらに向けて、気付いた方はそれを見返した。
「見て面白いものでもないだろう、人の書き付けなど」
「……でも止めなかったし」
「参考にするなら、そこの棚に同じ本がある」
 すぐ近くの本棚を示して長官が言う。あちらの方が読みやすいと続けるのを聞いて、ではやはり彼の私物なのかとフィレンスは持ったそれをもう一度見下ろした。表紙のしっかりとした皮の装丁の、だがその端がすり切れてしまっている。長い間ずっと使っているのだろう事は見ればすぐに判る事だと思って、かわりにと少し迷ってから、フィレンスは改めて黄金の方へと顔を向けた。幾つかの資料を並べて何かを確認しているそこに、問い掛ける。
「こういう、基礎のやつって、長官くらいになっても使うの?」
「生憎その中身はまだ諳んじられない」
 答えには三度目、手に持った一冊を見下ろした。その間には声が続いていく。
「魔法構築は初級中級が完全でないと通らないからな、暗記でどうこうなるものでもない。必ず参照する」
「……魔導師は上級以上が肝心なのかと思ってた」
「あれは小手先か、難しすぎるかのどちらかだ。装飾で煌びやかにするには技術が要る、私は必要な場合にしか使わない」
「そういうもの?」
「魔法の意義と普及を考えずに構築ばかりを飾り立てるのは三流だ」
 そういうものなのか、と小さく零す。会話の間も手は止めず、資料から必要な部分を書き写し終えてから、やおら万年筆を転がして、彼は騎士の方を見やった。
「上級の何が見たい?」
「え? と、陣の描生……」
 フィレンスが言い終わらないうちに、ヴァルディアはテーブルから離れて本棚の方へと足を向ける。唐突に取り残されたフィレンスは、テーブルの上の様子と彼の背とを交互に見やった。
「作業は?」
「詰まった」
 返って来た言葉は明快だった。成程と苦笑する間に彼は本棚の合間に消えて行って、そうしている間にフィレンスはテーブルの周囲へと目を向けていた。邪魔なのか脇に寄せられていた椅子の群れの中から一つを、導線の邪魔にならない場所に引っ張ってから腰掛ける。そうしてから、膝の上でもう一度その本を開いた。
 序文に何も書かれていないのはらしいと思う。自分でも読み飛ばしてしまって、本文へさっさと入ってしまう。印刷された文字は楷書体、周りの書き込みは筆記体だからか、彼の言うような読み難さは無かった。本来の印字の文字列を追いかけながら、周囲のそれがどこを指して記述されているのかを探す難しさはあっても、だが流れるような迷いないそれが手がかりになったお蔭で、理解に支障を覚える事はない。元々、それなりには理解していた部分だとしても、はっきりと習得したと言うには遠いと思っていたからと、時間があるのを良い事に二種類の文字を追う。
 ゆっくりと二回、違う顔を見開き全てに眼を通し終えるより先に、足音が戻って来る。今度は何も言われないまま、だが視線を遮るようにして一冊が見開きの上に落とされて、受け取り損ねて慌てて落ちそうになるそれを捕まえた。
「っと、と、っ、」
「描生の図式だ。上級の式と定理が陣に与える形はどれも特徴的だ、すぐ判る」
「……有り難う」
 取りに行ってくれたのかと思って見れば、彼も別の本を三冊腕に抱えていた。ならついでかと納得して、それを持ち上げる。教本にしても分厚く重く、そして大きい。題名は『命と形』、そのままなものだが今までに見た事の無いものだ。一応この書庫塔も一通りは把握しているのだが、本の一冊の題名まで記憶している訳でもないのは当然かと思い直して、そうしながら渡されたその中程を開く。その瞬間に見えたものには勝手に呻き声が漏れていた。
「……数字式……」
「構築には必須だからな」
 ばらばらと頁の勢い良く繰られていく音に長官の声が被さる。一枚捲った次の場所に、まるで柄のような曲線の重なりが羅列されているのを見て今度は眉根を寄せた。その間にも、ヴァルディアはその様子に一瞥もくれないままで続ける。
「お前は形と効果が判れば良いんだろう、だから数式は気にするな」
「それはそうだけど、……なんかこう……威圧感」
「ただの文字だ」
 素っ気なく言い切ってみせるヴァルディアも、だがフィレンスが上級の構築理論をどうしたいのかは正確に把握している様子だった。それはただ素直に助かると思いながら、もう一度図を見やる。
 魔法を構築し使役する必要性は感じているが、だがフィレンスが扱う魔法はそのほとんどが既に調整され適応されたもの、それで足りないという事は無い。数にしてみればそこらの魔法使いとも変わらない二百程度、しかし禁忌破りが使う魔法は剣との併用を前提にしたものだ。通常の魔法の構築理論を知ったところで、出来るようになるのは通常の、現存するようなものを作る事、それだけだろう。禁忌破りにとってはあまり価値のないものだ。
 それでも知識としてそれを求めるのは、フィレンスが魔法使いの開く陣を見てそれを消し去る術を持つからだ。陣のどの部分がどのような意味を持ち、どこを壊せばその魔法が無に還るのか。どこを壊してしまえばその魔法が『異種』に変わってしまうのか。それらを全て知り、的確に対処出来るからこそ、更に構築理論の理解を深めるに超した事は無いのだが。
「……魔導師はこれ理解して使ってるの?」
「当然」
「うわあ……」
「さして難しくも無いだろう、描生の数式は」
「いやだってこれ、数字だけじゃないじゃん、文字どころか文章って」
「そうだな」
「……え?」
「決まりきった手順で数字を動かす、という意味だ。序論の定式を見ろ」
 言われてフィレンスは素直に頁を遡るように繰り、そして見えたそれに即座に表紙を閉じた。テーブルの端のそれを置いて再び初級の、書き込みの大量なそれに眼を戻したのをちらと見やって、ヴァルディアは息をつく。それでも立ち去る事をしない分まだ上等な部類だが。騎士の大半にその気があるが、彼等は潔いのか単に諦めるのが早いだけなのか、たまにそれが判らない。
 それでも、こうして禁忌破りで居られるのだからと思うのはそのままに、ヴァルディアは自分の手元に眼を戻した。箇条書きにされた条件は単純明快でも、それを不備無く不足無くと思えば途端に難しくなる。想定する全てを入れれば一般に使用可能な域からは逸脱してしまうが、かといってこの国に於ける魔法使いの水準に併せたところで出来る事などたかが知れている。個人の使役だけを考えれば良い常の構築とは、勝手が違うのも面倒だった。
「……魔力問題……」
 呟きに、緑が向くのが判った。片目がうつろとは思えないほどしっかりとしたものを寄越して来ると、そちらを見やる。
「お前の魔力の総量は?」
「あんまり。吸収効率がいいとか言われてるけど、万全なときは、大体、五万とか八万とか……振れ幅大きい、かな」
「案外少ないな」
「まあ根が騎士っていうか、アイラーンはどの代も魔法使い向きなの少ないらしいし、その辺りもあるのかもしれないけど。長官は?」
「人外程度には」
 さらりと返されたそれには、フィレンスが色違いを瞬かせる。ヴァルディアは手元に眼を戻しながら、薄く笑ってみせた。
「そう言ったのは紫樹の長官だがな」
「……なんか、こういうと不敬とかになるんだろうけど、フィエリアル様って丁寧で几帳面に見せて実際ものすごいざっくばらんっていうか、丼勘定するよね」
「ああ、……だな。最近になって度が増して来た、お蔭で資料しか信用出来ない」
「資料はすごく細かい上にわかりやすいのに」
「作ってるのがフィエル様じゃないからな」
 揃って小さく笑う。その最中にフィレンスがはたと思い至った顔をして、何かと目を向けた黄金を椅子の上から見上げた。
「長官って、紫樹の学院だったよね」
「ああ」
「……これ、その時の?」
 膝の上のそれを指し示す。使い込まれた本の題名は『初級魔法構築理論』、学院の魔導師課程であれば、恐らくは教科書の一つとしてあげられることもあるだろう。
 それを言ったフィレンスに、長官はただ眼をちらと向けただけだった。そのまま、すぐに手元に視線を落として、万年筆を持ち上げる。
「私は落第生だったからな」
「……え!?」
「お前の兄のようにはいかなかった。あいつは話を一度聞くだけで把握していたからな」
「……え、いや、そっちじゃなくて」
「人の過去をあげつらうものではないな」
「……隠してたんじゃ?」
「学院の事は調べれば簡単に記録が見れる。隠す意味も無い」
 そうなのかとは幾つかの事に重なった。あるいは信じられない心地が混じる。落第生、と、自分で口にしていたが。いまこうして、テーブル一杯まで使って魔法書を広げている様子からも、その中から問題無く意味を拾い上げている様子からも、そんな様子は感じられないが。
「……意外、っていうか……」
「だから今も苦戦している」
 広げられた紙の束を指の先で叩いてみせる。言葉の割には、深くにはなっていないようには見えるが、だが何事も隠してしまえる彼の表情や仕草を見たところで何が判るのかとの疑問も消えないままで、フィレンスはただ無言で本に眼を戻した。少し考えて、変わらず綺麗な形の字を指でなぞった。
「……学院の講義って大変そう」
「代わりに実戦には弱いがな」
 作業に詰まったと言う先程の言葉の通りなのか、呟きにも反応が来るのには苦笑を浮かべる。実戦に弱いという事もあり得ないのに。――実戦。
「……雑談良い?」
「もうしてる。何だ?」
「何で剣使えるの?」
「もう一戦やるか?」
「絶ッ、対、やんない」
 即座に返って来たところを見る限り考えている事は同じと考えて間違いないだろうと、フィレンスは眼を逸らしながらもすぐに言い返した。たとえあの時、魔法が使えたとしても変わらない。それは互いに解り切っている事だ。ヴァルディアは眼では文字を追いかけながら声はテーブルの対岸に向けていて、椅子に腰掛けた女騎士が苦々しい表情をしているだろうと思って息をついて顔をあげれば、想像通りのそれだった。気付いた彼女が、眉根を寄せる。
「……学院は課程でほとんど変わるんでしょ、訓練内容も講義そのものも。何で魔導師課程で剣が使えるようになるの」
「学院の訓練でやるやらないは単位になるかならないかだ、ならない訓練に出れば良い。それに、出来そうな事はやってみる主義でな、魔力で剣を作る技術を教えられたのがきっかけだ、訓練は学院の騎士課程に潜り込んだのと、お前の兄を使った」
「……うん、幾つか突っ込みたい」
「端的に」
「魔力で剣って作れるの? いつも使ってるのってそれなの? 兄ってリア兄さんだよね? あの戦闘狂と何してたの?」
「作れる。普段からそうだ。リアファイドは確かにあの時から戦闘狂だったが、今程飛び抜けて人外だった訳でもない」
 返す言葉も端的になるように選んでいう。ヴァルディアはその間に紙の上に数式を書き連ねて行く作業に戻って、その間に向こう岸から次の声が聴こえていた。
「……詐欺……」
「騙している訳ではないな、言っていないだけだ」
「だって、魔導師って」
「魔導師だろう? 実物の剣は使っていない。使えない訳でもないが」
 どこか不満げな声には、紙に向き合う為に屈めていた背を戻して宙に片手を向ける。軽く空気を掻き混ぜるように指先までを伸ばせば、そこに浮かび上がるようにして黒い刃が現れた。既製品よりも僅かに長い柄を握る。左手で逆手にそうしたそれをくるりと回して順手に直し、いくら薄く研がれても一切黒さを失わない刀身を視線だけで辿る。
「単純だ、魔導師の杖と同じだからな。魔力に形を与える。その形に刃を付加する。そうすれば出来る」
「ええ……?」
「お前も杖は作れるだろう」
 使っては居ないようだが、と眼を向けられれば、フィレンスはそれとなく眼を外した。落ちた視線は自然と腰元、剣帯を見やる。いつ襲撃があるとも限らない、だから眠るときでさえ手の届く場所に置いているのだが。今は、静かに吊られているだけの、宝珠の無い一振りがあるだけだ。気付いたのが、ヴァルディアは一度横眼を虚空へと向けて、自分はまた紙の上の文字へと金色を向け直す。その傍らに、浮遊し行く気配。気付いた色違いが見上げるより、早く。
『少なくとも魔法を使う人間なら、宝珠を手放すなんてしない事ね』
 見上げた女騎士が眼を見開くのを見てなのか、言ったそれが満面の笑みを浮かべてみせる。風も翼も無いのに浮かび上がる全身、纏う衣はひらひらと重なり合いたなびき揺れるその姿は、魔法使いの手助けがあって何度か、ようやく目にする事の出来た。
「せ、精霊……!?」
『残念、ちょっと近いけど、でも別物よ、"フィレンス"』
 瞬間、浮かぶその身体が炎に包まれた。思わず椅子の上で身を引いた白服には更に距離を詰めてにこりと笑いかける。
『うふふーじゅーんすい。ねぇ主様、ちょっとでも駄目?』
「駄目だ」
『ええー。だって、すごく美味しそうなのに?』
「だから駄目だと言った、お前も勝手に他人の名を享けるな」
「……え、ちょ、え、何」
『うふ。はじめましてね。貴女の剣は中々痛かったわぁ?』
 燃え盛る炎を身に纏いながら、だが熱は感じない。火の以前は白い姿だったそれは頬に両手を当てて至近距離で笑んだまま動かない。フィレンスはそれと数秒見合って、そして耐えきれずに金色を向いた。
「長官!」
「宝珠だ。何年も魔導師が使い続ければ、宝珠もこうして姿を得る」
 目を向けないままのそれにはすぐに炎のそれに眼を戻した。女の姿をしたそれは、見るからに嬉しそうに笑みを深める。
『そう。私は主様の為に作られ調整され学習させられた自律演算古式宝珠、呼号は『音曲』よ、禁忌破りの子。……私よりはお姉さんだから、姉さん、かしら?』
「……ごめんちょっと、待って、突っ込みたい事多すぎて混乱してるから」
『ふふふー。呼号というのは呼び名の事、貴女の『短剣』もその名は呼号と言われるものよ。古くは製造番号だったらしいから、それに比べれば素晴らしい進歩かしら』
「え、あ、うん」
 女騎士は燃え続けるそれに向かって両の掌を向けながら頷いた。問いを口にする前に答えてくれるとは思わなかった。宝珠、『音曲』だと名告ったそれはフィレンスの双つの掌に自分の掌を重ねながら、しかし意図は通じていたのかふわりと浮かび上がって距離を空けてくれる。さながら海老反りのようになっていた身体を椅子の上で直している間に、彼女、だろうか、宝珠の声が続く。
『自律演算古式宝珠というのは、私のような宝珠の型の事。色々あるのだけれどね、種類は。私の型は、そういった型の中でも、特別強くて、特別魔力が大量に必要で、特別演算能力が高い、特別古い型なの』
「……そ、そうなんだ」
 何か変に我の強い、と、フィレンスは思いながらも口には出さないままに返す。長官の方を見れば、彼は作業に集中している様子だった。倣うようにそちらをみた『音曲』も、同じように見たそれにくすりと笑う。
『始まってるわー』
「……なにが?」
『設計、が一番近いかしら。魔法構築はね、文章を書くのとは違うから、先ず大まかな設計を決めるのね』
 言うのを聞きながら、眼は黄金を見やる。本の記述を追いながら絶え間なく手を動かしているのが見えている間にも、『音曲』は呼号の通りに声を響かせた。
『宝珠は、演算式の性能が高ければ高いほど姿を得易いの。姿を得るという事は自律するという事。自律するという事は、使い手である魔法使いの知識を自分自身に転写して、宝珠単体での活動、行動、魔法行使が可能である事を示す指標なのよー』
「演算性能」
『速度、が一番解り易いかしらー。一たす一に十秒掛かるより一秒の方が良い。十二かける十二に十秒より、一秒、一秒よりも早く短く、その方が性能は上。勿論、それだけじゃないのだけれどねー。私は七年目で姿を得たのよー』
「七年……じゃあ、かなり良い宝珠なんだ?」
『うふふ。とっても良い宝珠なの。で、こうして姿を得た宝珠は他の形にもし易いから、ちょっと特別な技術と慣れがあれば、杖だけじゃなくて剣にも成れるのよー』
「あ、そう繋がるんだ」
 いつ回帰するのかと思っていたら意外と早かった。うふ、と笑うその姿は、いつか見た精霊の姿とは似通っているが、だが物言いや言葉は魔導師のそれに近いように思える。思考にはそう浮かべながら、その『音曲』の言葉を頭の中で繰り返した。姿を得た宝珠は、形も得易いと。
「……長官は、姿が先?」
『ううんんー。主様は技術が先よ、剣は私よりももっとずっと先にだったからー』
「あ、そうか」
『そうなのよー。だから私にとっても、剣の形は馴染みが強いのよー』
 へえ、と声を漏らして何度目かちらと金を見やっても、彼はやはりこちらには気付かない。気付いていても構う暇がないだけかもしれないが、返されるものは何もない。だが、話を聞けば聞くほど、彼が自ら言った『落第生』という言葉が気になった。そんな風には見えない。そんな風だったとは思えない。
 いや、正確に言えば、何となくそうだったのかもしれないという、記憶はあるのだが、しかしその記憶にある彼と長官としての彼が、既にその空気も雰囲気もかけ離れているという事に、上手く整理が付いていないだろうが。
『貴女もね』
「え?」
『私と同じように、貴女の『短剣』もとても性能のいい宝珠なのよ。沢山使ってあげてくれると嬉しいわ。宝珠は使い手の魔法を通してしか、使い手の事を学べないし、理解も学習も出来ないから』
「……そうなんだ?」
『そうなのよ』
 そうなのか、とは妙な心地の納得が落ちる。宝珠の事は宝珠が一番に理解していて当然のようにも思うが、自分にとっては多少の反応と限りのある援けをくれる道具という認識に留まっている。その機能に関して考えても、宝珠そのものの事は魔法使いのようには考えていなかった。魔法使いのようにしなければならないのだろうという今更の、何度目かに思う事実に息を吐けば、宝珠、『音曲』が首を傾げるのが視界の端に映って、それで勝手に俯いていた顔を上げた。
「混乱しない?」
『ん?』
「剣になったり杖になったり。前にちょっと見たけど……」
 あの時に、と思って黄金を見やっても、色々な図式や数式が書かれた紙と見合っているその視線と眼が合う事はない。集中しているところをみるのも珍しいと思っている間に、『音曲』は少し眼を上に向けるようにして指先を口元に当て、思案しているような仕草を見せていた。人間とよく似たように見える姿勢。だが言葉は淀みなかった。
『あまりそういう事は無いわー。人が人を相手にした時に、その相手によって言葉が切り替わるのと似ているかしら』
「……そうなんだ……?」
『私は、主様の声があるから、もっとずっと楽だけれどねー』
 宝珠はふふ、と笑って見せる。嬉しそうな、と言えばそれまででも、今こうして人の姿をしているものも宝珠、魔法を効率よく扱うために開発された道具なのだと思えば妙な心地が再来する。長官を見やれば、やはりまだ視線は噛み合わないまま。
『貴女も出来るとは思うのだけれど』
「え?」
『宝珠を剣の形に。杖の具現は、できるのでしょう?』
「……まあ、一応……?」
「お前は禁忌のこととなると途端に口が重くなるな」
「軽い方がおかしくないそれ……」
 何か言おうとする前に返していた。こちらの話を聞いているのかいないのかわからない、眼を向ければ今度は視線がかみ合った。黄金の窺うような眼。
「苦手、というのであれば分かるが」
「聞き出そうとするし……まぁ、苦手なんだけども」
「単に技術だ。慣れろ、その方が何かと楽だ」
「って言われてもな……」
 練習の場が無いわけではない。だが協会の黒服や紫旗達に訊ねるのも違う気がして抵抗が勝る。実際にそうなってしまえば予想とは全く違うのだろうとは思っても。なんと無く視線が落ちたところで、再び『音曲』の声がしてそちらに顔を向け直す。
『経験、とは言うけれどねー。宝珠のほうも、杖に形に馴れないままでは怠けてしまうわよー?』
「え、何それ」
『宝珠は怠け癖なの。本当は、温存の意味なのだけれどねー』
「『音曲』」
『だからうちの主さまみたいに、宝珠使いは荒い方がためになるわよー?』
 言いながらその炎を纏った姿がふわりと浮かび上がる。そのまま背の側に滑るようにいくうちに透き通るように消えていく。それを見上げているうちに不意に視界の中に手のひらが見えて思わず両肩が強張った。
「、っ」
「違う、避けるな。視界に見えているものを頼るからだ」
「、え、何」
「杖の話だ、勝手に混乱するな」
 させたのはそっちじゃないかと言いたくなったが力を抜こうとしているうちに良い逃してしまう。掌は開いた距離を縮めるように近づいてきて、それでようやくそういうことかとわかった眼を伏せた。覆いかぶさる位置で、手は止まる。声はすぐ後ろ、すぐ上から。
「呼吸の波は身体を巡る魔力に伝播する。吐く息は長く、それと同じ厚さに吸う」
 言う声と同時に左腕を軽く叩かれて、そうして促す通りに力を入れないよう、ゆったりと左腕を前へと伸ばす。それに重なるように袖の感触が現れて、ぼんやりと温かいものを白い衣服の周囲に感じた。手慣れている、と思う間に続く声。
「お前の腕に介して魔力を渡らせる。何もしなくて良い。纏める感触だけ追っていろ」
「纏める?」
「魔力は気体のようなものだからな、思うように動かすにも慣れが要る。……余計な事は考えなくて良い、感覚だけに集中しろ。杖は五感に頼ってどうにかなるものではない」
「……なら、どうやって?」
「自身の能力を頼る。まずは呼吸を整える、形だけでも鎮める。身体の中にある魔力を感じ取る、形は様々でも内を鎮めて意識すれば蒸気か雲のようなものが感じ取れる」
 そういうものだろうかと浮かんだのが一番でも、変に威圧も押し付けもない声には抵抗も浮かばずに、素直に言われたままに声は押さえて呼気を整える。ゆっくりと呼吸を繰り返す、そうしようとして何度目かのところで静かな声が続いていく。
「魔力は常に身体を巡っている。脳から右腕、右脚、左脚、左腕、心臓に至って役目を終える。魔法に使うのは左腕の魔力だ、杖にも同じ左腕の魔力を使う。心臓に向かう魔力のうちから少しずつ、左腕に留め置く」
 風が流れたような、それでも全く違う感覚が熱のように腕を覆っていく。暖かい。
「留め置いた魔力を掌の先に集めていく。触れるよりも先、触れないよりも前の位置。拳を握る動作と同じように魔力をそこに集めて凝らせる形は丸く、可能な限り硬く」
 冷気が抜けていくのに似たような感覚。温かいものが手の甲を突き抜けて手のひらへと向かっていく。不意にこれがそうかと思い至った。思い至ったと思考に浮かんだのを認識した途端、その感触が遠くなる。眼に力が入る。すぐさまに声が聞こえた。
「考えるな、力を抜いていろ」
「……何も考えないって難しい……」
「感覚に集中していろ。呼吸を忘れるな、揺れる」
 眼を覆っていた右手が動いて軽く額に叩くように充てられる。なんだかなぁと思うのは押さえて、言葉で途切れた呼吸を言われるままにもう一度整え直して、そうしている間に何度目かの声。
「考えないのが難しいようなら言う事を繰り返し思うでも良い、…凝らせた次には形を与える。硬い鋼の珠が、空気に圧されて変わっていく様を思い浮かべる。身体の力は要らない、思うだけで全てがそうしてくれる」
 手の中のそれが、聞いているうちに変わっていくのが判る。眼を開かないでも、穏やかな熱を持つそれが重ずから動いていくのがわかる。腕にあった感触は消えていて、指先が熱かった。
「望む形に、細く長く。近付いていく毎に硬さを増していく。手に馴染んで確固としたものが現れるように」
 指先の熱が空気に触れて抜け出ていく。熱を感じなくなっても消えたのではないと何故かわかって、自然、応用に手が動いて。
「流れが止まれば、現実のものとして引きずり出す」
 声と同時に左手に重なっていた彼の手が動く。握られるのと同時に掌に硬いものがあって思わず眼を開いて、そして見えたものにその眼を見張った。すぐ後ろ、左手を包むように握ったままのヴァルディアの声。
「……やはりまだ一本には纏まらないか」
「……えっ?」
 手の中に細長い銀があった。金属細工のような細やかな蔓が巻き付くように、緩やかに幾筋も伸びて握る軸を飾り立てているようにも見える。今までに見てきた魔導師達のようなそれではないと一瞬で見て取れて、そう理解した瞬間に眉根が寄るのが自分でわかった。
「……あれ、ちょっと待って」
「何だ」
「……これ誰の杖の扱いになるの?」
「使ったのは私の魔力で今維持をしているのも私だが、お前の身体の一部を介したからな」
 全身が硬直するのが自分でもわかった。背後で彼が動く。
「離すぞ」
「待ッ、無理絶対無理絶対消える!!」
「消すな。維持しろ」
「どうやって」
「……気合だな」
 どうして魔導師は唐突に根性論を持ち込んでくるんだ。文句が浮かんだその間にさっさと手を離していってしまったそれを引き留めることもできずにどうすれば良いのかもわからないまま、無闇に強くての中のそれを握り締めれば、その力に負けたかのように硬さを失ってふわりと宙に消えていく。何もなくなった手を所在なく開いては握りを繰り返しながらきまずさに視線を泳がせている間に、背中に視線。
「……本当に消したな」
「……む、無理って言った……」
「考えすぎなだけだと思うがな。魔力と言葉は根本から異なる、だから考えるより感覚と想像でどうにかする方が近道になる」
 聞きながらフィレンスは自分の手を見下ろした。感覚、とは、先ほどまでのあの事だろう。あれを覚える事が出来たとしても再現ができるとは思えない。――感覚と想像。
「……想像……?」
「魔力は現実に存在していても原則眼には見えないからな。形も色も感触も硬さも軟さも人の意思が現出には必要だが、言葉で規定しても言葉の中に意味がないから通用しない。頭の中で想像だけするのが一番良い」
「……考えるなって」
「形と色と硬さを思う事に言葉が要るか?」
 言いながらの声が離れていく。眼をやればテーブルに向き直って、積み上げられた本の山の中から何かを探しているようだった。すぐに、他に比較すれば薄い一冊を引き出して、差し出されれば疑問符を浮かべながらも受け取る。
「……身体魔法論?」
「人間そのものが魔法生物である、という立場から書かれたものだが、魔力の扱いについては魔法学の論説よりも詳しい。結局は自学の世界だ、教えるにも限界がある」
「学長」
「教師になったつもりはないしその才があるとも思わないな。学長は経営者だ、教導師ではない」
「じゃあなんで……」
「杖の無い状態での攻撃魔法は天井が低すぎる。そもそも杖を現出させられないのであればいくら加護があろうともたかが知れている。むしろどうして今まで紫旗にでもそれを言われなかった?」
「紫旗は禁忌の事言わないからなぁ……」
 こんなに、まるで普通の事のように会話するような事柄では無いと長らく思っていた。違うのは場所が場所だからなのか、人が人だからなのか、それが未だに判らないままでいるから、蒼樹以外での変わりなど無いも同然だった。ここでの変化が大きすぎたというのも、他を考えられていない理由の一つではあるだろうが。
「フェルは何も言わないのか」
「あの子は私に魔法教えたくない、って公言してるから、あんまり。攻撃魔法が使える分とか、楽にできるようにっていうのは自衛の一部だからって教えてくれてるけど、それ以外は全然。召喚とかも正規の方法は知らないし」
「召喚は攻撃魔法に含まれるのか……?」
「……どうなんだろう……?」
 そういえばそういう事になるはずだ。召喚も禁忌を越えたその場で許されたものの一つで、攻撃魔法しか扱えないはずの自分が使えるということは分類は攻撃魔法なのだろうか。首を傾げながらも受け取った本をぱらぱらとめくって眺めてみれば、さして固すぎる文章とも見えなかった。これなら読めるかもしれない、と表紙を閉じて、そうして少し迷ってから膝の上に置き去りのままの二冊を持ち上げた。片方はこの書庫塔の、片方は、書き込みのされたそれ。
「……ちょっと借りても良い?」
「参考にはならないと思うが」
 拒否ではなかった。描生の一冊に帯出不可の印が貼られていないのを確認してから立ち上がる。上着の中から時計を取り出して針を見れば、そろそろ日付が変わる頃合いだった。既にテーブルに向き直っている長官に目を向ける。
「寝まなくても?」
「今日は久々に昼寝が出来た」
 だから良い、と言いたいらしい。昼寝も仮眠と変わらないだろうにとは言わないままで、三冊を腕に抱えて椅子から立ち上がる。椅子を邪魔にならないように元あった場所に戻して、それからもう一度金色を見る。万年筆を持ち上げた彼は、振り返らないでも気付いたらしかった。
「何かあれば時間があるときにでも来い。黒服を捕まえれば大概は解決すると思うが」
「了解」
 世話好きなのはどうやらそうらしいと、苦笑して答える。そのまま外へと向いた扉を潜った。




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