朝と言えるのかどうかも怪しい時間に肩を揺すられて眼が覚めた。分厚い毛布から顔をのぞかせれば、巨躯、そして紅い瞳と青い髪。
「ん、……とうさん……?」
「よ。悪いな、起きれるか?」
「……なんじ……」
「三時半。開門の時間だな。話がある、起きろ」
「……うーーーー」
「悪かったって。ほれ早く」
 曇りで陽が弱いから暗いのかと思えば明らかに時間の所為だと判って、睡魔を押し退ける意志も遠くなる。団員たちのように夜遅くまで動き回っているわけでなくとも、鍛えた大人たちとは体力も違うのにと思っているうちに毛布が剥がされて盛大に呻いた。さらにうつ伏せにしていた身体が両手で持ち上げられてベッドが遠くなる。
「重ッ……」
「うあー……ねむい……」
「デカくなったなぁお前も……ほら起きろ。今日はお前らは休みだから昼寝しても良いしな」
「いまねたい……」
「会話できてんだから起きてるだろ。ほら」
 落ちあげられた体が動かされて、とん、と音を立てて足が絨毯に触れる。力を入れてみれば色々なものがぼんやりとしていながらもなんとか立てた。両脇を支えた両腕から少し力が抜けて、確かめるように少し離れようとする。左手を持ち上げて目をこすった。
 声が零れる。笑う声がして見上げれば頭を撫でる手が現れた。
「ほら顔洗って着替えろ。訓練始まったら、起きるのは大体こんな時間になるんだから、やるなら今のうちに慣れとけ」
 ぼんやりとした視界に映る色が藍色でないと、聴きながら思う。後ろ首の長くなった髪を撫で付けながら問いかける。
「……とーさん、私服……?」
「おう。ちょっと休みとってな、一回村に帰る。母さん連れてくるから、お前はここでおとなしくしてろ」
「……なにかあった?」
「合流したら詳しく話す。その前に準備な、ほら身支度。ちゃんとしてないとカルドに怒られるぞ」
「うん……」
 話しているうちに多少目も覚めてきた。あの魔導師には怒られたくない。ぼやけたままの思考でもそれは浮かぶ。イースは多少は見逃してくれるが、あの無口な彼はこちらが自分から折れるまで無言の圧力がかけらも減じない。恐ろしいわけではないが、とにかく気まずくなる。
 ぽんぽんと頭を撫でてくれる手はすぐに離れて、父は小さい部屋から廊下に消える。すぐに寝台に向き直って毛布を整え直し、壁に寄せられた箪笥の中から服を引っ張り出した。寒いのはそうだからと寝間着を脱いで、襟の高い長袖を頭からかぶる。分厚くゆったりとしたズボンと、紐合わせの裾の長い上着を羽織って、それでも間に合わないから砂色の外套を羽織った。このコートだけがキレナシシャスによくある形で、中に着ているものはコウハの村のものだから、自分から見ても少し奇妙だ。とはいえこの王都はひどく冷えるから、村のように油断できない、のだと父は言っていた。
 とは言っても寒さには強い方なのだが。あまり病やら不調やらに出会したことはない。思いながら革と布で作られた靴の紐を解けてしまわないように結んで、机の上から藍色の硝子玉を手に取る。整えた髪に朱色の髪紐をからげて留めて、硝子玉はその紐の先に通して落ちないようにくくる。長くなって来た後ろ髪は髪紐の長い端を持って来て括っておく。本当なら編み込まなければいけないのだが、面倒だし、今は時間がない、ということでそれで済ます。毎日そうして理由をつけては簡略化しているのだが、父が何も言わないのだから問題ないのだろう。
 最後に扉の前で部屋を見渡して乱れた場所がないかを確かめてから廊下に出れば、途端に度を増して冷たい空気に全身が触れた。相変わらず寒いが、この国の人々が言うには本番はこれかららしい。どうしてそんなところに住もうと思ってしまったのか。同じキレナシシャスでも、南の方は雪も降らない年があるくらいには暖かいのに。
 毎朝の通りの道順をたどって、まだ無人の厨房に入る。水瓶の中から少しを小さい手桶に分けて分けて洗って、凍りつく前にタオルで丁寧に拭う。それでようやく意識が根から覚めた気がして、足早に広間に向かえば、扉を開いた先では思ってた通りの父の姿と、もう一人。
「おお。早いな」
「……おはよう、エディルド」
「来たな。お前の教官になる」
 え、と声を漏らしていた。言った父と、示されたエディルドを見上げれば、後者の彼は苦笑していた。
「教官ってほど硬いもんじゃないけどな」
 言う、その彼は既に藍色の制服に替えている。訓練の開始が早まったことにも驚いていたが、それに。
「……良いの? エディルドって確か……」
「その辺りはほら、副長命令」
「まあな。だから仕事の合間に、ってところにはなるがな、そこは我慢してくれ。じゃあ、俺は母さん探してくっから、あとはエディルドにくっついてろ」
「あ、うん。えっと、宜しくお願いします」
 頭を下げて言えば、ふたりぶんの手に乱雑に撫でられた。片方はすぐに離れて、軽く言い交わしてから扉の向こうに消えて行く。
「……事情は聞いた」
 急のそれに、残ったもう一人を見上げる。椅子に腰掛けた彼のほうが、まだ目線が高い。
「副長が戻ってくるまで時間あるだろ、知り合いに兄弟種の奴がいるから紹介する。一通り準備だけして、今日は休め。夕食後に裏門に来い」
「……わかった」
「怒らねえのな?」
「これで怒る相手は勝手に喋った父さんの方だし……」
 忘れろ、という無茶苦茶なことも言えない。なんとなく意図も見える、と、それで言って返せば彼は呵呵と笑った。
「お前本当に八歳児か?」
「一応商人、の助手してたから」
「だからってそんなになるか? まあ良いけどよ。……よし、ついて来い、まずお前に合う剣があるかどうか、備品の中から探すから」
「わかった」
 立ち上がりながらのエディルドのそれにはすぐに頷いて、すぐにそのあとについて歩いて行く。一度広間の横の戸口から中庭に出て、反対側、紫旗の隊員たちの宿舎の方に入った。こちら側は今まで出入り禁止だった場所だと、並ぶ同じ模様の扉たちになんとなく引け目を感じながら、ずっと奥にある戸口のすぐ脇の扉を示された。エディルドが鍵を取り出しながら言う。
「訓練用の装備が保管してある。普段から団員が使ってるのは別だけどな。まずは刃を潰してある剣から慣らしていく」
「うん。……その、折れたりは……」
「……あり得るなあ……。ただまぁ、まずは抜くより先のことだな。しばらく訓練も儀礼所作と座学になる。剣の、じゃなくなるけど根気強くな」
 南京錠を外して足を踏み入れた中は、想像していたよりもずっと広かった。倉庫のようなものかと思っていたが、武器を専門に扱う店があればこのようになるのだろうかと、壁や棚に様々な武器が整然と置かれている様子を矯めつ眇めつして眺める。そういえばあちこちの国を渡り歩いた中でも、武器屋の類には寄らせてもらえなかったな、と思う間に、エディルドは少しばかり刃渡りの短いものの一つを取り上げて差し出してくれた。
 組紐で鍔と鞘とが結びつけられて、見るからにしっかりと固く巻き付けられている。なんとなく圧を覚えるような気がして、注意深く手を伸ばして受け取った。騎士が離せば、手に重い。木とは明確に違う、地面に吸い付くような、だが両手でしっかりと支えれば静かに落ち着くような感覚。
 ――この国は魔法が大勢を担っている。だからか、剣を持つ人間は特殊だ。特に剣に特化した『騎士』たちは、禁忌に触れ得る事が無いようにと、魔法を全て封じる称号を負う。でなければ『騎士』は人の身であるというそれだけで、容易に禁忌を超え得てしまうから。
「……俺、騎士になるかはわかんないけど」
「うん?」
「良いの? 無駄かもしれないのに」
「教えなくて入った時の方が無駄だからな、再教育ってのは労力がかかるが、全くやってない方は半端じゃない」
 伸びて来た手が頭の上に乗る。ぽんぽんと軽く叩かれるのには、意識していなかった緊張が少しずつ抜けていくのがわかった。抜けきらない間に手は離れて、見上げれば彼は既に別の場所で何かを漁っていた。
「重すぎたり軽すぎたりしないか?」
「……よくわかんないけど、多分大丈夫」
「まあ細かい重さについては追い追いだな。今は剣の形の鉄の塊を持ち歩けるように、だ」
「うん。……剣帯?」
「簡単なやつな」
 エディルドが持ち上げたのは固く形を保つ皮の帯。コートの中、長衣の上につけてくれながら面倒そうな色も見せずにディエリスが言う。
「金具と紐で括って固定する。据わりが良いようにな、動いてもずれないように、動かそうと思った時には動くように。締め付けるのは間違いだ、融通効かなくなるからな」
 言いながら手早く帯を腰に回して取り付けてくれる。言葉と手元に集中しようとしている間に終わってしまって、どう取り付けるのかもわからないまま。眉根を寄せた。
「難しい……」
「具合わかるようになるまでは繰り返しな。俺らの標準装備には短剣なりなんなりもあるから、訓練が進めばまた形も変わったりで面倒だけど」
「頑張る」
「よし。……剣はここな、鞘を帯に吊るようにする」
 示された通り、剣帯の端から垂れる革紐を鞘の金具に通して括る。結び方にも決まりがあるようで、一度見せてもらったそれが一度で覚えきれずに疑問符を浮かべているうちにもう一つも結ばれてしまった。
「さって。今日一日、何もないときはこのままな。夕方、いつもの座学の時間終わったあたりで剣帯は外していいが、その剣はずっと持ってろ」
「わかった。……何か、解けたりしたら持ってく」
 しっかりと巻き付けられた紐は、簡単には緩みそうにはないが。もう一度頭を撫でられて、それから肩に手が置かれた。
「今日は休みって聞いてるけど、朝の仕事はいつも通りにな。隊員たちには大抵に事情通してあるから、俺がいない間は騎士の連中なりに訊け」
「わかった」
 紫旗の面々は、休憩の間も武装を解く事は少ない。完全に任を解かれる休暇の間は別らしいが、この建物の中で見る彼らは制服であろうがなかろうが常に剣を携えていた。魔法使いは、よくわからないが。
「こっちの棟の出入りは、誰かが一緒なら良い。仕事の範囲その分広がるだろうけど、すぐ覚えろな、魔導師の奴らの頼みごと面倒だし」
「うん。厨房行ってくる」
「おう。楽しみにしてる」
 行って良い、と送り出されて、小走りに部屋を出て、来た道をとって返す。途中で廊下を別の方向に折れて、厨房に向かって大きな扉を目指す。剣を片手で押さえながらだ、今までなかったものがあるというだけでも違和感は大きい上、押さえていないと足に鞘がぶつかりそうでこわいのもあった。なまじ剣を鍛える職人が親類にあるから、疎かにしたと知れたらどんな事を言われるか。思いながら扉を押して開いた。
「おはよう、ファリマ」
「お早うクロウィル。少し遅めだったかしら?」
「ご、ごめん」
 そういえば、窓から差す光は大きく強く変わっていた。思わず口ごもれば、彼女のふふと笑う声。悪戯めいた表情。
「剣の事が始まったなら、そろそろ時計が必要ね。まだ火を入れたばかりよ、大丈夫。手を洗って、それから手伝って頂戴な」
 言われてほっとした。陽の加減でなんとなくの時間はわかっても細かい数字までは判らない。確かに時計が要るかもしれない、母に相談しようかと思いながら細く保たれた火と、その上に据えられた薬缶の方に足を向ければ、見慣れないものが椅子の上に座っているのを見つけて思わずあれ、と声をあげた。火のすぐ近くに、銀と紫。
「……い、いたんだ」
 『小さいの』は、既にこちらを見上げていた紫を瞬かせる。後ろからああと、どこか嬉しそうなファリマの声。
「レティシャが早くから王宮に行く用事があるって、任されたの。今日は私はただの食事係だから」
 ね、と近付いて来たファリマが小指の先で『小さいの』の頬をつつく。『小さいの』は彼女が抱えていたボウルを見つけると手を伸ばし、苦笑したファリマはボウルの中からレタスの一枚を持ち上げて軽く丸めて渡してやる。『小さいの』はそれを受け取って、両手で支えてしゃくしゃくと食べ始める。もう飲み込むのに支障があるわけでもないと見ればなんとなくほっとする。少し目を離しても大丈夫だろうと、そのまま薬缶から小さい盥にお湯を分けて、水でぬるめて丁寧に手を洗い、拭ってから作業台に体を向けた。置かれていた紙に書いてある通りに作業を進めているうちに何人かの調理担当のいつもの面々が次々と集まってくる。何度目か扉が開いたところで声が掛けられた。
「クロウィル」
「ん、と、なに?」
 頼まれた通りに楕円の形をした芋を大きめに刻んでいたところに声をかけられて、刃を横にして俎板に置いて片手で押さえたまま顔を上げる。こちらを向いていたのは男性の魔導師、カルドと、フェリスティエの二人。フェリスティエがいつもの柔和な表情を、ほんの少し笑みの方向へと傾けながら口を開いた。
「ちょっとしたお知らせ。ラシエナが今日から少し帰省するから、『小さいの』の相手をよろしく、って、伝言だよ」
「え」
「それと少し訊きたい事がある。ファリマ、子供たちを借りるが」
 ガルドが言って、問いかけた先のファリマも手は足りているからと快諾する。なんだろうと思って手を洗って拭い、それから少し迷って、ずっと大人しく椅子に座っていた子供の方に距離を詰めて手を差し出した。
「おいで。カルドが、話したいって」
 紫がこちらを見上げているのを、視線を合わせるように軽く背をかがめて声を向ける。子供はこちらと差し出した右手を見て、それから握り返してくれる。そのまますとんと椅子から降りるのを手伝ってからカルドを見れば、彼は頷いて踵を返す。扉を抜けて、向かう先は広間とは反対にある会議室の一つらしい。なんだろう、と思っているうちにフェリスティエがその扉を軽く叩いて、それから扉を開かないまま声を上げる。
「連れて参りました」
 僅かに疑念が立って眉根を寄せた。それに答える声は部屋の中から、入りなさい、と、聞き覚えのない声が返すのを聞いてフェリスティエが扉を引き開いた。入る前に腰を折る。胸に手を当てる第一立礼。
「御前失礼致します、陛下」
「うん。寒いだろう、入らせなさい」
 まさか、と瞠目したそのまま動けなかった。振り返ったフェリスティエが気付いて苦笑して、すぐ後ろのカルドの手が背を押す感触。
「中へ。陛下のお召しだ、その子と、お前と。失礼の無いように」
 ――そんな事言われたって、が、口を衝いて出てしまいそうなのを必死に抑える。思わず手に力が入っていたのか、強張った手の中で子供の小さい手が揺れる感覚に我に返った。見れば、紫は此方を見上げている。不思議そうに。
 不器用に笑いかけてから、その手を引いた。背筋が曲がってしまわないように意識して、開かれたままの扉を潜った。部屋の最奥、上座には真紅の髪と瞳を持つ、老成した男性。皺の刻まれた目元が、視線が合うに少し遅れて柔んでいく。
「ユゼの息子か。話だけは聞いている、なるほど、利発な面立ちの小剣士だな」
「……クロウィル=フィオン・テス=コウハです。お初にお目にかかります、ラディスティル国王陛下」
 声が震えないように押さえつけて、言葉とともに腰を折る。手を繋いだままの子供が、言い終えた少し後にどうやら不安定に揺れていると片手の感触に見て思わず顔を上げて見れば、子供は此方の手を握る手を右に持ち替えて、左手は上衣を握っていた。視線は真紅――国王に向いていて、まるで盾にするように半身を陰に隠している。
「はは、やはり昨日のうちに息子らが怖がらせてしまったな。『小さいの』、あの二人は今はいないから、安心して居なさい」
 もしかしてこの人由来なのかこの呼び方――思う間に再び目が合って思わず言葉に詰まって、そしてはっとした。許しを得る前に顔を、と、蒼褪めそうになる顔色をなんとか取り繕っているうちに王の視線はフェリスティエに向いていた。
「ご苦労だった。クォルクとユゼには聞いているが、詳細に状態を聞きたい。三人とも座りなさい、『小さいの』は、クロウィル、君が抱えてやるのが良いだろう」
「、は、はい」
 急に水を向けられてまごつきながら、カルドに示された一人掛けに足を向ける。大人しく手を引かれて付いてきた子供を途中で抱き上げて、椅子に落ち着く。左斜めに国王、という状況は全く心臓の早鐘を宥めてはくれなかったが、ただ子供が抵抗せずに大人しく膝に抱えられてくれたのには小さく安堵の息を漏らした。
「……して、現状は?」
「母語を古代語とする種族は依然発見されていません。やはり共通語も他の言語も通じて理解できている様子はありません」
 答えるフェリスティエの視線がこちらを向いて、それにはそういうことかと理解してすぐに頷き返した。こめかみから垂れる朱色の髪紐の先、玉飾りを子供が見つけて掌に握るのには好きにさせておくうちに、同じように椅子に腰を下ろしたカルドが次の句を継いでいた。
「またレティシャとイースの報告を鑑みるに、この子供の過去の記憶は失われているか奪われているとするのが妥当だろうとも結論付けられました」
 思わず彼を見上げていた。玉飾りが子供の掌から零れ落ちて、紫の視線だけがそれを追いかけている。それが視界の端に見えた。
「記憶走査は現状不可能ですが、知っていて当然の品、知っていて当然の物にも『当然の』反応が見られません。順応力は高いようですが」
「……具体的には?」
「雑炊を食事と認識していなかったと」
 いつの間にか左手が子供の両手に握られていた。落ちてしまわないように右手で軽い身体を支えてやりながら、視線は落ちていく。脳裏に反芻する。
「……食べること、自体がわからなかった、みたいに見えました。口に入れる事は見せて教えられましたけど、噛むとか、飲み込むとかは、最初はかなり苦労してるみたいで」
 だから呼ばれたのか、という思いが半分、何故紫旗も居たのに自分なのか、が半分だった。だが今日は変に本部の中も静かだった。だからだろうとは思うものの。
「あとは……甘いものが苦手みたい、くらいしか……」
「そういえば、そうらしいとはクォルクからは聞いたな。理由は、判るかね」
「食べはしたんだけど、なんか……混乱……? してたのかな、そんな感じ、でした」
 なんとか語尾を取り繕う。王はそうか、と口元に手を当てがって何かを考えている様子だった。なんとなく重い空気の、と思っていると、不意に子供が仰け反るようにして見上げてくる。疑問符を浮かべてそれを見返せば、子供の口が動いた。軽い音の厚い重奏。
 ――夜の陽はいないの?
 右の拳を握って、腕輪を掴むのだけは免れた。まただ、『解らないのに通じてしまう』。胸の内から全身を不躾に撫で上げられたかのような感覚を伴う、不快と不安と恐怖の入り混じった言語だと、二回目でようやくそこまで言葉にして落とし込む。そうしている間にカルドが他の二人に訳していて、答えに窮しているようだった。――夜の陽、聞こえた瞬間に脳裏に浮かんだのは一人だけ。『通じれば』理解以外無いこの感覚は、まだただの二回目なのに只管に不気味だった。
「……団長はいないよ、部屋かな」
 紫は、ただ瞬いていた。伝える術が無いとはこうだ、そのうちこの子供も次第に声を殺してしまうのかと歎息しかけた時にカルドの声がした。どうやら伝えてくれたらしいそれは音としてしか聞こえないのに、それに対して、いつ来るの、とこちらに聞き返す言葉も聴き取れた。全て、カルドを中継する会話。
 やりとりを終えての無音、王が手を口元から外す布の音。
「知能に障害は」
「ありません。身体にも魔力経路にもそれらしきものは皆無、歯の成長を見るに五、六歳であろうという医術師班の見立ては妥当でしょう。会話に難こそありますが、会話内容は年齢相応に思われます」
「父母は。まだ見つからんか」
「紫旗を総動員して捜索しておりますが、発見された区域は現存の居住区域から離れており、今朝に第一の多くを投入し、紫樹の全域に対象を拡大、続行しております。これ以上の増員は不可能かと、紫銀の存在を知る人間が増えすぎます」
「一月の間に国内を洗うよう。我が国には紫銀の先例が多すぎる、二の轍は踏まん」
「御意に」
「報告は逐一に、誰でも良い、気付いた者は全て報告を。……クロウィル」
 カルドと王のやりとりの最後に名を呼ばれて、慌てて上座を見上げる。真紅は、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「君が知っているかは判らんが、キレナシシャスという国は今までにも多くの紫銀を擁してきた」
「、……はい」
「だがその多くは、擁したとは雖もただ国の糧に紫銀を使っただけに過ぎん、そんな愚行が多すぎる。私はその愚王の列に並ぶ気は無い」
「……はい」
「もしこの紫銀に親が無ければ、拾ったのはこの国だ。この国が子の親となろう。だが君は、親があろうとなかろうともこの子の兄で居て欲しい」
 え、と、声が漏れていたかもしれない。カルドとフェリスティエの反応もわからなかった、見えていなかった。ただ王の言葉だけに驚愕していた。
 真紅の王は、そこでようやく笑みを見せた。
「国の子となれば、この子は王族に同列の扱いを受けよう。だが、子供は子供だ。子供として当たり前に育って欲しい。出来れば賢く、利発にとは願うが、それは大人の欲だからな」
「あの、…………え……?」
「私も王子、王太子と呼ばれた頃には、随分と王太子らしくない行いもした。兄弟達と結託しては世話役の目を盗んで街に逃げ出し、その足で遊びに出たりな。この子は私と違い女児だから、同じようにとはいかんだろうが、『唆す身内』も『諭す身内』も居て欲しいのだよ、この子には。大人としてではなく、にな」
「……俺、で、いいんですか……?」
「王の信頼する紫旗、それもあのユゼの息子だ。そして紫旗に剣を習う剣士でもあり、母君から才を継いだ商人でもある。そして君は、貴族ではない。この子もそうだ、紫銀は紫銀だからと貴族にはならない。だから、アイラーンの娘であるラシエナには頼めない。それとも嫌かね、『妹』ができるのは?」
 ――その問いに首を振って返せたのは、自分では予想もつかない程に素早くだった。




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