終了、と見たところで、さて、とフェルは息をついた。白黒二人は評価紙を手にしながら何かを言い交わしていて、三組目の五人は呼び止められることもなくさっさと結界の外へと出て来ていた。
 相変わらず何かしらの意図があるようにも感じる視線には、だが何の反応もしないようにとだけ気を付けているうちに、少し離れた場所から、潜められ、それでも十分に言葉まで聞き取れる声が耳に入った。
「どうせ十階梯だろ」
 思わず眼を向けそうになったのを押し止める。肩から腕の中に降りてきたコウを胸元に抱えているうちに、声が続いていた。
「あんなのよりももっと上の――」
 意識して息を吐き出す。腕の中の鋼色が、ふわふわとした長い耳をそよがせた。
『……噛んで来るか? 不味そうだが』
「素晴らしく複雑骨折しそうですねぇ」
 『竜』の一噛みともなれば相当だろう。地下で見たあの姿でのことならなおさらだ、きっと二秒で跡形もなくなる。思っているうちに白黒がすぐ近くまで戻って来ていて、眼が合うなりクロウィルが疑問符を浮かべた。
「……どうした?」
「…………」
 顔に出ていたらしいと気付いたフェルが寄った眉根を揉み解すのとセオラスがその肩を軽く叩くのとは同時だった。蒼青を見上げれば、に、と笑う顔。
「気持ちもわかるけど、それでキレるのは俺が先な」
「……わかりました……」
 相方だから、と言外に言われてしまえば何も言えなくなってしまう。クロウィルを見やれば疑問符は浮かんだままで、臙脂色の方を見やっていた。
「……何かあったのか?」
「……な、案外鈍いだろこいつ」
 ご、と重い打音は黒服の頭と刀身の納められた鞘がぶつかり合った音だった。白の手が黒の手から評価紙を奪い取りながら、それで、ともう一人の黒を見る。
「大体解ったか?」
「思ったよりも何もしないんだな、と。セオラスさん封紋はやめときません?」
「だってヒマなんだもん……」
 両手で頭を抱えてうずくまった彼からは予想通りの答えが返ってきて思わず遠い眼をする。白服にも全く疲労の色が見えないのだから、黒服が気を遣うといえば白の負傷を防ぐ程度だろうか。
「ん、で、俺はあんまりやんなかったけど、攻撃とかも普通にしちゃっていいかんなフェルは」
「……です?」
「ちょっとな。あんまりにも防御しないから、連中が」
 頭を押さえながらのセオラスのその言葉には、少しの間を空けてああ、と声を落とした。そうか、と結界の中を見やる。あまりに戦いの痕跡の薄い訓練場、学生たちが個別でしか動いていないから、魔導師はどうしようもなかったのだろう。暇というよりは、手を出せば終わってしまうから手が出せなかった。これで彼らの疲労の理由も予想がついた、思うように動けない、動いてはいけない戦いは、通常のそれ以上に疲弊するものだから。
 少しの間思考のために眼を落とす。もう一度蒼青を見上げた紅は、そうして首を傾けた。
「私あんまり優しくないですけど、良いです?」
「構わんさ、危機感も恐怖も足らぬからな」
 返したのは横から、オルエは言いながらもその表情は変わらない。セオラスが肩をすくめ、クロウィルが深く息を吐き出しながら顔を覆ったのは故意に無視して、フェルは腕の中の鋼を見下ろした。
「コウも、機会があったら今のうちに練習しときましょうか」
 きゅる、と鳴いたその尾がばたばたと振られるのには小さく笑って、じゃあ、と見上げた青翠は、今度はわざとらしく大きく息を吐き出した。
「まあこれで全組1回ずつ、基礎は『注意』はしたしな」
「わぁ、なんかすごい混沌な予感がする俺。何フェルてそんな鬼教師なの?」
「教官ってやったことないんですよね。紫旗のやり方しか知らないのもあります」
 にっこりと笑って言って、クロウィルから受け取った評価紙と、サシェルが渡してくれた名簿とを手に、腕から飛び降りた鋼を引き連れてフェルは結界の中へと向かう。クロウィルもすぐにそれに続いて横に並んだ。
「まあ、言っても、手加減は宜しくな」
「しなかったら一瞬で終わりそうですし、私が手を出す隙もなく終わりそうですしね……」
「俺じゃなくてな」
「分かってます、大丈夫ですよ。……あ、コウ、少し大きくなって大丈夫ですよ」
『そうか?』
「ええ」
 黒服の足元の鋼はそれには一度瞬いて、そして唐突に青い炎が全身を覆って吹き上がる。一拍おいて大型犬程度の大きさになった『竜』がそこに行儀よく座っているのを見て、フェルはその頭を撫でた。
「声かけたら、じゃれてあげてください」
『わかった。魔法は使わないほうが良いな……』
「後で教えますね」
 フェルが言えば応えるように軽い吠え声。それを見やってからクロウィルが目を向けた先では、次の五人組が何かを言い合いながら近付いてくるところだった。青翠が腕組みし、少し考える。
「……あ、そうだ。次七班だ、回数少ないのから回してる。初回じゃないから、そこは気にしなくて良いからな」
「了解です。一応名簿で名前と配置は覚えておきました」
「流石。……よし。ちょっとこっち来い、一回説明する」
 白服が声をあげれば、位置に着こうとしていたらしい五人がこちらに向かってくる。クロウィルに向けられた視線の意味はすぐに察して、フェルは右の手に杖を喚んだ。
 集まった第七班は全員が男性で、全員が成年を超えてしばらくという風貌をしていた。クロウィルは気構えもためらいもない様子で口を開く。
「三回目になるから、もう基礎的なことは言わない。昨日の分をどれだけ行動に移せるか、自分の役回りをどこまで理解できてるのかを見る。良いな」
 はい、と返される五人の声には、不承不承という色がありありと浮いていた。分かり易い、と思いながら、翠の視線を受けてフェルも口を開いた。
「黒が交代になりますから、少し勝手は違うかもしれませんが、基本は同じことです。魔法使いは攻撃よりも防ぐことに意識を裂くようにしてみてください。今回からは使い魔も入りますから、注意するべき事柄が増えて大変かとは思いますが」
 言ったそれに返答は無く、ただ魔法使いの二人が顔を見合わせただけだった。答える声を待たずに、フェルはただ五人ににこりと笑いかけてすぐに背を向ける。鋼色もすぐにそれに従って、それを横目にしてからクロウィルは五人を改めて見やった。
「初回とは違って今回からは俺たちが負傷に気を遣う事もないからな。まずいと思ったら自分で外れてくれ、外れたとわかれば標的にはしない」
「……分かりました」
 返したのは一人だけ、五人組の先頭に立つ碧黄の剣士。先に三回目や四回目を経験した班からもすでに話は回っているのだろう。目立って混乱もしている様子は無いと見て、それで準備をといえばすぐに臙脂色の背を見せて距離を開ける。クロウィルもすぐに剣を抜いて、黒服より二歩手前で足を止め、五人へと向き直った。
「と、いう事で、さっきみたいな初回とは違って二回目以降は暴れても良いようになってる」
「わあい。じゃあ、二分制限ですね」
「十三番か。懐かしいなぁ」
 白服が軽く笑ったところで、視線の先、臙脂が足を踏み出すのが見えた。杖を握り直して構えた時には、白のクロークが十歩先で翻っている。
「『冬の風の子、万里支う旅の杖』」
 小さく声を落とせば一瞬輝きを得た構築陣がすぐさま周囲に簡易な妨害壁を築き上げる。それを見届けて、わざとゆっくり次の魔法を呼び起こす。
「『木枯らしの雫、来りて銀の奇跡に番を刻む、”レイヴァ”』」
 見据えた先、臙脂の放つ魔法を難なく避ける白の周囲に風の防壁が生まれる。思い出したかのようにこちらへと向かってきた炎の先は、しかし地面を蹴った鋼が空中で噛み砕き霧散していった。ぶる、と全身を震わせた鋼が小さく声を零す。
『……不味い』
「魔力が美味しい人ってどれくらい居るんです?」
『わからない、でも協会のは皆美味しそうに見える』
「色だけじゃなくて技量とかもあるんですかねぇ……」
 言いながらフェルの足元には陣が浮かび上がっていた。一気に空気が水気を増し、空中に水の刃が浮かび上がる。
「『――“シャント”』」
 名を持って命じれば、白服に向かって白人を振り抜こうとしていた剣士のその視界を遮るように水の一陣が奔り、残る二陣は剣士達の向こう側、白服の剣が未だ届かない『安全域』に留まったままの二人の魔法使いを狙っていた。
 詠唱を中断して飛びすさって避けたのが一人、結界で受け流したのが一人と見て、フェルが残りの三人へと目を向ければ、数秒前に攻撃を妨害された剣士の一人がこちらに向かって地面を蹴っていた。
「ッ、ライ!」
 学生の誰かが呼び止めようとする声。フェルはただ杖先を地面へと向けた。
「『地を満たすは獣の群影、歌うは根産す木々の残影』」
 黒服を中心とした構築陣が開いた瞬間、足元に青い日が舞い上がって肩に小さな鋼が飛び乗ってくる。流石に同じ魔法同士察しが良いと胸中につぶやいて、フェルはわずかに口の端を釣った。
 剣持つ臙脂は、三歩の距離。
「『絡み括る森”タヴィア・トラス”』」
 瞬間、光を放つ構築陣が暗い赤へと変色して、剣を振り下ろそうとしていた剣士の身体が何の前触れもなくその進行方向とは真反対に吹き飛ばされた。
 遅れて姿を現したのは巨大な蔦だった。まるで毒されたかのようにどす黒い赤の葉すら持つそれが一人を捉えてその首に蔦を這わせて叩きつけるまでに二秒もかからなかった。
 白服に臙脂の一人が躍りかかる。黒の魔法の構築が消えても消えないままの蔦にもう一人が駆け寄り魔法使いが詠唱を始めたのを見た白服が、相対したその剣を受け流しながら、ふ、と、息を漏らした。
「十五秒」
 剣士の瞳に疑念が浮くのが見えれば嘆息する前に長剣を振るっていた。甲高い音、かろうじて受け止めながらも体勢を崩した臙脂に向かって空いていた左手を伸ばした。襟首を掴み力を込める。
「ッ、え、ッ!?」
「受け身は取れよ」
 もう一人の剣士が蔦に飲み込まれていく悲鳴が聞こえるのを背中にしながら、クロウィルは体勢を崩した相手の間合いになど欠片も気にかけず深く踏み込んだ足でしっかりと地面を踏みしめて、掴んだそれをただ単純に、投げた。
 驚愕する声が遠ざかっていく。弧を描いて落下する先のもう一人の臙脂が思わずだろう、詠唱の手が止まったそこに真正面から突撃するのを見て残った一人が構築を作り変えようとして。
 詠唱をと息を吸った喉に探検が突きつけられて、そこで臙脂の動きが全て止まった。
「敵がどこにいるのかはちゃんと確認して追いかけておきましょうね」
 短剣の柄を握った黒服が、臙脂の背で笑って言う。



 ここまで、と騎士の声が上がって短い刀身が首から離れるのを感じて、それでようやく振り返れば黒い子供は折り重なった二人の方へと駆け寄っていた。暗い色をした蔦が消え去って、その中から制服が二人が現れたのには白服が距離を詰めていた。
 ぼうっとしていた事に数秒かからず気がついて我に返って、慌てて仲間の元に向かう。下敷きにされたクレイが黒服の手当てを受けているのを見て、そのすぐ近くにしゃがみ込んだもう一人の肩に手を置いた。
「ディユ、大丈夫か?」
「大丈夫、俺はな。クレイが、倒れた時に頭を……」
 打ったらしい、というそれに眼を向ければ、地面に座り込んだ彼の側頭部に触れた黒服の手に燐光が集まって何かの模様を描いていた。回復魔法だろうかと思う間に立ち消えて、うつむいていたクレイが頭に手を当てながら顔を上げる。黒い子供の声。
「痛みは?」
「……平気、あ、いや、大丈夫です……」
 言い直すそれには何も言わず、子供はすぐに立ち上がって剣士二人を助け起こしていた白服の元へと駆け寄って行く。ひとまずクレイに手を貸して立ち上がるのを手伝っている間に、ディユが少し離れた場所に転がっていた剣を拾い上げていて、そして白服が五人を呼び集める声にはすぐに全員でそこに足を向けた。蔦に覆われて身動きが取れなくなっていたらしい二人は、特に外傷はないようだった。
「さて、と。二回目なわけだけど」
 三歩の距離まで詰めればすぐに白服が口を開いて、それで足を止める。
 白は、見上げれば上背のある体格。だが剣を持っても白い衣装に十階梯の刺繍があってもと、訓練の参加者の中では言われていた。
「先にも言った通り基礎的な事は言わない。できているとも判断しない」
 はっきりと言い切るそれに、胸中で凝るような感覚が起き上がるのにはなだめすかして無言を貫く。翠が紅を見下ろして、使い間だという鋼色の翼持つ犬のようなそれを足元に従えた黒服がこちらを見る。剣士ではなく、魔法使い二人を。
「いくつか確認しておきたい事がありますから、先にその事なのですが、開始前か開始後か、どうするのかは五人で決めていましたか?」
 紅が向いた先は魔法使いなのに、問いは全員に向けたもの。特にこれという返答も持ち合わせのないまま顔を見合わせているうちに、子供が軽く息を吐く音がして眼を戻した。
「何も決めていなかった、と。あれだけ分かりやすい手本を三回も見ていたのに、それを参考にもしなかったわけですね」
「……事前に、打ち合わせは」
「それが役に立ちましたか?」
 口を開いた碧黄、オルディユールが言い終える前に黒の声が割って入った。手には杖、だが今はその杖先は地面を向いている。戦闘を行う場には幼く聞こえる声音は、そのまま先を続けた。
「その事前の段階で、相手をする騎士と魔導師のことを十分に調べて全ての事象に対策を講じて、実際の場で徹底するだけの力があるから、事前の打ち合わせだけで済ませたのだと、そう受け取りますが」
「試験会の交代なんてこっちは一言も聞いてないのにそんな事が、」
「では、あなたたちは初めて戦う『異種』には必ず一度は負けて帰って来るつもりなんですね」
 聞こえたそれに絶句した。オルディユールが、返す言葉を探すように何かを言いかけては止め、声にはならない。黒服の目は嘲るでも憐れむでもない、淡々とした色すら浮かべてはいない。平常、いつもの通り、そのように見えた。
「そう聞こえましたが、違いますか? 魔導師の交代を知らなかったから事前に打ち合わせた内容が役に立たなかった、と言いたいようですが、それが自分たちが何もできなかった理由になりますか?」
 特別、言葉が強いわけではない。語調が荒いわけでも、声音に怒気やそれに近しいものが浮かんでいるわけでもない。叱責ですらない、単純な問いかけが続いていくだけなのに、それに何一つとして返す言葉が見つからない。
 見つからないというその事だけで無言を貫くには難しかった。袖の中で拳を握る。右手の人差指にはめられた硬い指輪の感触。紅が、こちらを向く。
「敵を前にしてどのように動くのか、戦うのか逃げるのか、戦うのならどのようにして敵を追い詰めるのかを判断して伝達するのは、剣と魔法の混成部隊であれば魔法使いの役割です。敵と接近しその情報を集め、魔法使いに伝達し、洗濯された最適解を達成する事と魔法使いを生かして返す事が剣士の役割です。少なくとも協会学院であれば、その程度は基礎ですらないのに、そのどちらもできていない剣士や魔法使いに対してどういった評価が下せますか」
「――ッの、やろ」
 我に返ったときにはすぐ隣に立っていたはずの剣士が手を伸ばしていた。まずいと浮かんだのが一番で、呼び止めるより先に手を伸ばしてその肩を掴んで制止しようとして、
 ――触れるより先に剣の鳴る音がして、怒気に任せて黒を掴み上げようとした碧黄の動きが止まった。白刃、制服の首。
「悪いけど白の役目もあってな、こいつに何かあったらこいつの相方に申し訳が立たない。害意があるようなら排除する」
 見据えた翠が言い放って、いつ抜いたのかもわからない長剣を押しつけるようにして白服が黒から臙脂を遠ざける。あからさまに青翠を睨みつけるその様子に気づけば、慌ててその肩を後ろから掴み直した。
「落ち着けよ、らしくない」
 声は無く、だが掴んだ手はすぐさまに振り払われる。首に突きつけられた白刃も腕で追い返して、白服もすぐに剣を引いて鞘に収める。そこまでを終えてようやく緊張も僅かに和らいでいくのを感じて小さく息を漏らした。
 その中で、怒りに任せた腕が向けられようと間近に剣が現れようと欠片も揺らがなかった『黒』が、ようやく、小さくそうか、と声を落として、そして軽く首を傾げて見せた。
「貴方達、自分が誰かを殺すことになるかもしれないって、少しも思ってないんですね」




__________




back   main  next


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.