目的の扉を見つけて、両腕に抱えていたそれを抱きかかえ直す。ノックするより先に把手を握って押し開いて中を覗き込んだ。
「クロウィル、居ま、……」
 言いかけた、その言葉が半ばで消える。見えたのは蒼。床に転がってこちらを見上げた、黒服の、蒼と青。
「…………えっと、」
「悪い、説明はちゃんとすっから先に助けてくんねえ?」
「……何か、あったんですか、セオラスさん……?」
「おう、ちょっとな」
 腕を後ろ手に纏め上げられて縄で締め上げられている上に頭に魔法封じの魔法具をくっつけられて放置されるその原因は本当にその言葉通りの「ちょっと」なのだろうか。疑問に思ったそれを言うのも少し憚るような気がして、そのまま両腕に抱えていたものを一旦テーブルの上に置いてからそちらへと駆け寄った。分かり易く横向きに身体を向けてくれたセオラスの、その腕に巻き付けられた太い縄の結び目に指をかける。
「……ほんと何あったんです……?」
「うーん、ちょいな、怒らせたってか」
「クロウィルをです?」
「うむ」
 神妙に頷くような仕草を見せる彼に、フェルは眼を瞬かせた。縄を解きながら疑問符を浮かべる。クロウィルが怒るようなことは、この長い付き合いの中でも数える程しかなかったのに。思い返しながら堅い結び目を解いて、巻かれていたそれを解いていく。途中で腕を引き抜くようにしたセオラスは、大きな溜め息を吐きながら床に手を当てて身体を起こした。そのまま、フェルには背を向けたまま床に座り直して肩を回す。
「っ、あー……地味にきっついこれ……」
「……どう、したんです……?」
「ん、いやな。こう、かなりデリケート……繊細なところの話しててなあ。失言ってか……まあ、そんなところ」
「それで縛られてた、ん、です?」
「そ。お前が視界に入ると我慢ならない、ってな」
 だから動けないようにな、と言いながら、彼は髪に括り付けられた抑制具を外しにかかり、フェルはそれには更に疑問符を浮かべるしか無い。クロウィルに怒られたことはあっても、そこまで言われたことも、まして誰かにそう言っているところすらも見たことは無かった。怒るよりも諭したり、淡々と言葉で言う事の方が圧倒的に多いのに。
「……えと、大丈夫、です?」
「ん、俺はな。……流石に落ち着いた頃見計らって、だなぁ」
「……クロウィルが怒るの、あんまり、想像つかない……」
「まあ、あいつはな。基本保護者だしなぁ」
 あんまり自分を優先しないよな、と、言いながらセオラスが立ち上がるのに合わせてしゃがんで抱えていた膝を押し出すように立ち上がる。息を吐いて振り返ったセオラスは、一転してあれ、と疑問の声を上げる。何かと首を傾げれば肩口のあたりを指差された。
「コウ。居ないな」
「あ、はい。任務帰って来たフィレンスに拉致されていきました、抱えたまま寝ちゃって。それで」
「……おう」
「ふかふかであったかいんですよ?」
「いやそりゃ見りゃ分かるけどな。……ふうん、ちょっと意外だなあ……」
 言う彼は半端に長い髪を掻き混ぜる。この仕草は、彼の場合はよく眼にする。何か気まずい事だったり、言う通り意外だと思った時にそうするのは癖のようだと最近になって分かって来たと、そう思っている間に、不意に気になって首を傾げた。崩れた襟元、ボタンの外れてはだけた首元に何か赤いものが見える。血のような。
 どうしたのかと思って、僅かに距離を詰めるようにしながら手を伸ばした。
「……セオラスさん、首が」
「おん?」
「怪我、したんですか?」
 その場を見たわけではないだろうから、治癒は出来ないだろうが。抑制具をソファの上に投げた彼はそのまま左手でその右の首元を乱雑に摩り、そして摩った掌を見て僅かに眼を細めた。すぐに苦笑を浮かべる。
「怪我ってか、ちょっとな」
「……え、と……大丈夫、です?」
「へーき。痛いとかも無いしな、血も止まって、」
「――セオラス」
 前触れも無くもう一人の声が響いて思わず肩が飛び上がる。慌てて振り返れば、セオラスとは違った青と、細められた翠。すぐにこちらを向いたその様子に思わず身構えた。
「あ、と、」
「解いたのか」
「俺が頼んだ、フェルの所為じゃ無い」
 セオラスが言ったそれにクロウィルはすぐにそちらに眼を戻す。扉を潜ってすぐの場所からそのまま彼は大きく歩を進めてセオラスに詰め寄り、見たセオラスは両手を小さく上げてみせた。
「ちょ、お、待った待った待った」
 後退るセオラスを追ってクロウィルはフェルの横をすぐにすり抜けてそこに詰め寄る。何かを言う声、だが言葉が違う。共通語でも古代語でもないそれに眼を瞬いている間に二人の間に何度も応酬がやり取りされて、その最中に怒鳴るような、その寸前まで迫ったような声とともに白い左手が黒い襟元を掴むのが見えてフェルは眼を見開いた。思わず手を伸ばす。
「あ、あの、クロ、」
 白いクロークに触れると思った、その寸前に、肩越しに振り返った翠が貫くような冴え冴えとしたものに変わっているのを見てしまって伸ばしかけた手を引いて握り締めた。すぐにセオラスの声、何かを言うそれに翠はそちらを向いて更に何かを言う。言い合いがいくらもしない間に、黒を突き放すように手放した白はそのまま、止める間もなく背を向けて扉の外に消えてしまう。
 見送るままのフェルはただ困惑を浮かべるばかりで、それを見たセオラスも白の消えた扉を見やり、息を吐く。
「……悪ぃな、視野狭まってっからあいつ」
「え、……あの、どう……」
「細かい事はちょっとな。あいつの事になるから、俺が言って良いのかが分からない。……夜には機嫌直ってるだろうから、な」
 手が伸びて来て、フェルは頭を撫でられる間に眼を下へと落とした。ほんの少しだけ、力が抜けるのが分かる。緊張していたのではない、強張っていたのだろう。
 ――あんなところを見るのは、初めてだ。声を荒げる事も珍しいのに手が出るのは珍しいの域ですら無い。セオラスはそのまま黙り込んだままのフェルの様子に疑問符を浮かべて、僅かにかがむようにして顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
「……私は、大丈夫です、けど……」
「ちゃんと説明はしといたから、誤解は無いと思うけど」
 首を振る。気になるのはそこではない。少し考えてから、顔を上げた。
「怪我、ほんとに大丈夫です?」
「え、俺? は、平気だけど」
 不思議そうな顔をしながら答える彼には頷き返して、そしてフェルはすぐにテーブルの上に置いたままだった箱を持ち上げて扉を潜って廊下に出る。辺りを見渡して、そして見つけたものに向かってすぐに口を開いた。
「水と風の土の人です、見ませんでしたか?」
 視線の先で中空に浮かんでいた白い靄が小さな人の姿を作り出す。フィオーネと同じような精霊の一つ、光のそれは問いかけには一度大きく首を傾げてから、廊下の右手側へと腕を向け、指し示してくれる。南棟から見れば主棟へと向かう方向だ、そう見てもう一度そのその精霊を見上げた。
「有り難うございます、ティオ」
 光の精霊の総称でそれを呼べば、嬉しそうに笑みを浮かべてくるりと身体を回転させたそれは、すぐに靄の形に戻ってどこかへと消えていく。フェルはそれを見届けてから、すぐに指し示された通りの方向へと歩を進めた。心持ち、足早に。



「……確かに、無神経だとは思うが」
 言う彼をちらと見やって、クロウィルは頬杖のまま視線を横へと滑らせた。向き合って腰を下ろしたもう一人、オーレンは深く溜め息を吐き出す。
「……お前もお前で、それなりにはやっているだろう」
「確かにそうだけど。……無理矢理やられた方の気も考えてねえんだってあいつ」
「セオラスに関しては手遅れだ。諦めろ」
「つってもさあ」
「お前にまでああなられては手に負えない」
「断じてならない」
「なら安心した」
 言い合って、ほぼ同時に両方が息を吐き出す。そうしてからやおらオーレンは眼を上げて、何故か項垂れているクロウィルを見やった。
「……と、言うよりも」
「……」
「何故お前もフィレンスも、事あるごとに私のところに来る」
「ここ他人居ねえんだもん」
「……私はどうなる」
「…………なんか居ても気にならないっていうか」
 黒い腕が閃いて広い空間に打音が響く。灯りが、二人のすぐ脇に一つ灯されているだけの場所。旧調練場の殆ど中心、分厚く布が敷き詰められてそれだけでも暖かい、オーレンの部屋。
 クロウィルの頭を強かに叩いたオーレンは、もう一度溜め息を吐き出してからまったく、と呟いた。
「……好い加減に、お前達はその仲の悪い演技を止めろ」
「演技じゃない」
「演技だ、どう見ても。何事も無い間のお前達を見ていれば分かる」
「俺がセオラスといる時に笑ってるところとか見たことあんのお前」
「笑いあうだけが友でもあるまい」
 舌打ち、そして翠は脇へと逸らされる。オーレンは何度目か溜め息のように肺から呼気を吐き出して、そして不意に顔を上げて視線をどこかにか向ける。気付いて眼を向けて来たクロウィルには、どこかわざとらしく息を吐いてみせて、そうしてからやおら彼は立ち上がった。
「呼ばれた、行く。……気が収まらないのであれば寝ていろ」
「……毎度毎度、言う事っていえば「寝ていればそのうち忘れる」だよな、オーレン」
「だから来てるんだろう、お前もフィレンスも」
「…………」
 沈黙したクロウィルをその場に置いて、オーレンはすぐに踵を返す。布の海の中で足を取られる事も無くそうして、林立する背の高い何か、布の掛けられたまま触れられもしていないその隙間を縫って調練場の外へと向かう。心持ちゆっくりとそうして、重い扉を押し開いて生まれた隙間から外廊下へと出る。この辺りはもう窓の硝子も全て割れ落ち壁も怪しくなっているから、外廊下となんら変わりはなかった。
 使い魔が呼ぶ儘に、そろそろ日も暮れ始める中を主棟へと向かって歩き始める。北棟の中でも古い西側から東側へと向かっていけば次第に荒廃具合も落ち着いてくる。更に渡り廊下を越えれば、その先は綺麗なものだった。階段から二階に上り、連絡通路を渡って主棟に足を踏み入れる。
 そのまま暫く真っ直ぐ伸びる廊下をそのまま歩いていれば、その向こう側に見慣れた色が見えた。相手も辺りを見渡していたのをこちらに気付いて、何かを抱えながら小走りに駆け寄ってくる。
「オーレンさん」
「探し物か、紫銀殿」
「人探しなんです」
 軽い音を立てながらすぐ近くまで来た彼女は、そのまま足を止めてオーレンを見上げる。使い魔達が言っていた通りだと思いながら、そのフェルに向かって、オーレンは今まで自分が歩いて来た道を示した。
「精霊の落ち着きが無いな。……あちらだ」
「あ、え?」
「クロウィルだろう。私のところに来た」
 オーレンが言った途端に、フェルは彼を見上げたままに眼を瞬いた。首を傾けたオーレンに、フェルは何度か眼を瞬いてみせる。
「……なんで、クロウィル探してるって……?」
「精霊達に訊いて回っていただろう。使い魔が伝え聞いたと言っている」
 言ったオーレンが中空に手を伸ばす。瞬間にそこに浮かんだ光が凝って、手袋に覆われたその手に絡み付くようにして表れたのは四枚の翅を持つ、四つ足を伸ばして指や手首に絡む蛇のような蜥蜴のような精霊。わ、と声を漏らしたフェルに、オーレンはそれを差し出してみせる。
「風だ。良く聴く」
「風……」
 フェルは言われたその精霊を見やって、恐る恐る手を伸ばした。逃げられる事も威嚇される事も無く指先が触れた事にほっと息をついて、控えめにその頭を撫でる。大きく顎を開く仕草に手を離せば、小指の先をそのまま甘噛みされた。フェルはそれにくすぐったそうに笑って、そうしてから改めてオーレンを見上げた。
「何処に居ます?」
「私の場所に。勝手に入って構わない」
 場所は知っているだろうと、そう言った手が伸ばされて軽く頭を撫でられる。腕の箱を抱え直した。
「私は少し出るが」
「わかりました。……有り難うございます」
「気にするな。気をつけろ」
「はい」
 機嫌が悪いだろうから、というそれには苦笑で応える。宥められる気はしないが、それでもだからといって後回しにするのは何となく違う気がしたから、何処に居るのかを教えてもらえただけでもどことなく安心出来るような気もする。手を離したオーレンがそのまま主棟の中央へと向かって歩いていくのは少しの間だけ見送って、そうしてから道の先に眼を向け直して足を踏み出した。
「旧調練場……第三、ですよね」
 確認する声は自分自身に対してだ。最悪見れば思い出すだろうとは思いながら、やはり足早にそこへと向かう。主棟から北棟には連絡通路が延びているからそこを渡って、階段を降りて一階を更に奥へと進んでいく。次第に寒さが増して来て、渡り廊下を渡った先は単に天井が柱で支えられただけの屋外と変わらない。その中に並んだ扉は一つ一つが大きく、フェルはその一つの異変に気付いて首を傾げた。ほんの少しだけ口を開いた扉が一つ。
 魔法の効果が途切れて久しいのだろうここは、扉の開閉一つをとっても大変らしいとは聞いた話だ。それでも見かけるたびにぴったりと閉じられているのは、単に無人だからなのだろうか。思いながらその隙間に身体を滑り込ませて、そして見やった中はやはり様々なものが積み重なったような、布の掛けられた何かが林立する空間。
 迷路のようになっているそこは、だがあまり迷うような事は無い。方向は判らなくなっても、正解の道は足元の布が平らになっているから、それに気付けさえすればそれを辿って中央に向かうのは楽な方なのだとは、前にここに来た時にわかった事だ。だからその通りにして、曲がりくねる小道を進む。
 そうした後に見えたのはやはり分厚く布の折り重なった風景だった。ただ、今はその中央辺りに灯りが灯されている。少し意外に思いながらも、もしかしたらと思って足を取られないようにしながらその中をゆっくり進む。灯りが近付いて来た中で、それに照らされた白いうねりの中に青が見えてやはりと思った。どうやらあちこちの布を掻き集めて横になっているらしいとわかって、踏んでしまわないように大きく迂回して、そのすぐ近くに近付いて膝をついた。
 布は一枚一枚が重い、身体に掛ければ、暖められた空気の送り込まれていないここでも十分だろう。両腕で抱えていた箱を灯りのすぐ近くに据えておいてそうしてから更に距離を詰める。空になった手を伸ばして、そうして布に覆い隠されていない青い髪をほんの少し梳った。完全に眠ってしまっているらしい、軽い眠りならいつもはこうして触れればすぐに目を覚ましてしまうのに、それも無い。どうしてここでこうして眠っているのかも不思議ではあるけれど。
 起きないのがわかって、ある程度までは整えられているそのばらばらな長さの青い髪に撫でるように指を通す。騎士にしても短い髪だ、すぐにざらざらと指から落ちてしまう。フィレンスの髪はまだ少しは長い方で、後頭部で括ってしまえる程度はあるから、それともまた違う感触だ。何度となくそうやってから、やはり何の反応もなく静かに呼吸を繰り返すそれを改めて見やって、少し考える。
 横たわったその横の辺りの、蟠った布の辺りを軽く叩くようにしてならす。周囲から一枚を引っ張って来て肩から被さって、横に並んで横になった。いつも見上げている側だから、見下ろしているとなんだか落ち着かない。相手がずっと動かないのも慣れないからと、目線を合わせて横になって、布を身体に巻き付けた。
 渡したいものがあるのだけれどと思いながら、だが少し時間を置いた方が良いのだろうかと、ぼんやり思う。



 ここで一度眠ると、何故か妙に落ち着く、というのは経験則だ。
 だからどうしてもどうにもならない事が起こった時にはここを頼る。どうしてそうなるのかの理由はわからなかったが、恐らくは巣のような空気の所為だろう。真冬でも寒い事は無いし、余計な明かりが入ってきて邪魔されることも皆無に等しい。
 恐らくは目を閉じるまでの間にここの主がどんな話にでも付き合ってくれるからだろう、だから転換に良いのだと、ぼんやり開いた視界で思う。寝起きはいつもこの布の中が暖かくて出る気になれない。まだ時間は大丈夫だろうか、ならまだ寝ていようかと、腕の中の暖かいものを抱き寄せて眼を閉じようとして。
 寸前に、疑念が浮いて、止まった。閉じかけた瞼を押し上げる。腕の中に布とは違うもの。大きくはあるが自分と比べれば小さすぎるほどのものがある。ぼんやりとした思考のままで視線を下へと向ける。腕に抱えたそこに、周りの白とは明らかに違う、この暗闇の中で僅かに煌めくような、強く柔らかい色。
「――な、ッ、!!?」
 思わず飛び起きようとしてそれも寸前で踏みとどまる。銀の頭が乗った下に自分の右の腕がある。一度大きく揺らしてしまった所為なのか、小さく声を漏らして唸った黒服がもぞもぞと布の下で動いて、そして開いた僅かばかりの距離が埋まる。
 それを見たまま、クロウィルは目を見開いたままで、硬直した。
 ここに横になった時には居なかったはずだ。部屋では見掛けたがそのまま出てきてしまった。探しに来たのか、しかしどうしてここだと分かった。旧調練場にはもう人も寄り付かないから、ここに来ている事なんて誰も知らない筈なのに。
 意識して一度眼を閉じる。ゆっくりと深呼吸する。眼を開いてから、慎重に身体を起こした。被さっていた布を剥いでしまわないように黒の上に掛け直して、起こしてしまわないように銀の髪をある程度整えて、頭を支えて腕を引き抜く。そうしてから一歩分程の距離を開けて座り直して、そしてそのままクロウィルは背を丸めて顔を覆った。
「……あー……っ!!」
 呻く。心臓に悪い。急に目の前にあれが見えて平静を装うだけでも装い切った事は褒められても良いはずだ。ちらと眼を上げれば、当の本人はどうやら布を握って小さく丸まろうとしているようだった。息をついて、手を伸ばした。
「フェル」
 呼び掛けて、肩を揺する。ほんの少し力を入れただけでも大きく揺れるそこから小さく声を漏らして、そして紫はすんなり眼を開いた。ぼんやりとした紫は周りを見渡すように少しの間揺らいで泳ぎ、そしてこちらを見上げて眼が合ったそのまま止まる。
 次の瞬間にはふにゃりと歪むように力が抜けて、幼い顔が崩れて笑顔が見えた。
「クロ」
 思わず言葉に詰まった。寝起きでぼやけた声と呼び掛けられた愛称には上手く反応出来ないまま、白い布地の合間から腕が伸びて来て、溜め息を吐き出した。
「……そんなに疲れてたのか?」
 伸ばされた手に手を伸ばして握ってやる。冷たい空気の中でも暖かい。一度眼を伏せて小さく呻いたフェルは、そのまま身体を転がすようにして俯せて、そうしてのそりと起き上がる。手はしっかりと握られたまま、それで起き上がったフェルは開いていた距離を詰めるように布の上に座り込む。目元を擦る仕草を見て、それで苦笑が漏れてしまった。
「油断してんなあ……」
「んー……?」
「髪ぼさぼさだぞ」
 開いた右手を伸ばす。寝癖のついてしまっている前髪を梳いて整えて、少し絡んでしまっているように見える後ろ髪も撫で付けてやる。頭を撫でられているように思えたのだろう、眠そうな顔のまま力の抜けたように笑う。声の無いそれに頬を突いた。
「ちゃんと起きろって。……セオラスに聞いたのか?」
「んー、ん。オーレンさんが、ここだ、って」
 問いかければ、思ったよりもしっかりとした返答が返ってくる。何度か瞬いた眼は次第にしっかりとして来ていて、握り合わされていた手は自然と解かれていた。オーレンがここに人を案内するような事を言うのは珍しいと思いながら、クロウィルは暗い中でも分かりやすく首を傾げてみせる。
「探しに来たのか」
「ん、……です、けど」
 続きかけた言葉はそこで止まる。簡単に想像がついて、今度はそうしようと思って銀の頭を撫でた。
「気にしない。お前の所為じゃ無いしな、……悪かった」
「……大丈夫、です?」
「大丈夫」
 クロウィルが言い切れば、フェルは視線を僅かに落としながらも頷いて返す。気になっても穿鑿しないという事を、この小さい黒は協会に来て少しの間に身に付けたようだった。まだ気になるという、その事自体を隠す事が出来ているわけではないが。
「……で、どうしたんだ、わざわざ」
「あ、と。えっと、渡したいのがあって」
 クロウィルが疑問符を浮かべる間に、フェルは白い布の海の中で左右のあちこちにばたばたと眼を向ける。そういえば灯りは消えてしまったのかとなんとなく思っている間に、消えたカンテラのすぐ脇に置かれていた何かをフェルは両手で膝の上に拾い上げた。落ち着いた、濃い茶色なのだろうリボンのかけられ、派手にでなく飾られた箱。
「今日帰ってくる前に、街に寄って色々してきたんですけど、その時に貰ったんです。でも私はこういうの苦手ですし、だからって」
「……何?」
「その、……たべもの、なんですけど」
 白い両手が持ち上げるようにして示したそれには更に疑問符を幾つか浮かべて、受け取ってみれば見た目に反して重い。開けても良いかと眼を向ければ頷きで返って来て、それでリボンの端を引っ張った。埋もれて見失ってしまわないように解いたそれを手に絡めて、厚めの紙か布かで装丁されたようなその箱の蓋を持ち上げる。それでその中に見えたものに思わず眼を瞬かせた。口の大きな硝子瓶が三つ、その中に、どうやら果物が沈んだ透き通った色の液体。
「……酒?」
「です。……貰った、っていうか、押し付けられたっていうか……」
 調合の為の触媒を例の店に見に行って、そうしたら貰い物を押し付けられたのだ。あの店主は、自分は酒は飲めないからヴァルディアにでも押し付けろと言っていたのだが。
「ヴァルディア様お酒苦手って聞いた事ありますし、私もフィレンスも弱いですし……」
 それでかと、クロウィルはもう一度それを見下ろす。確かに二人は酒類は得意ではないし、それに較べて自分は得意な方だ。いくら飲んでも酔わない、という意味では。
「部屋に置いとくだけは、ちょっとって思って、それで探してたらオーレンさんが入って良いって……」
「あー……悪い、なんか」
 言えばフェルはすぐさま首を振った。ただほんの僅かな間をおいて、紫が上向いてこちらを見る。
「……ここ、オーレンさんの、ですよね……?」
「に、なってるけど。……ああ、うん、たまに来るな、俺は」
「……仲良い……?」
 クロウィルはそれに苦笑する。布の被せられた綿の合間に埋まった三つのうち、一つを持ち上げながら口を開く。
「面倒見良いから、あいつ」
「オーレンさん?」
「そう。それで、避難場所っていうか。静かだし、落ち着くし」
 瓶を片手にしてそれを眺めながらのそれに、フェルはほんの少し視線を落とす。思い返せば、確かになんとなく所在無い時には、彼がその場にいる時には必ずと言っていいほど声を掛けられている。放っておけないたちなのだろうかと、思っている間にクロウィルが小さく声を上げて、それで目を向ければ別の一つを持ち上げていた。ぎっしりと、なにかの果肉が詰まった瓶。
「……林檎?」
「冬林檎漬けたやつかな」
 言いながら箱は一旦横に置いて、丸い瓶の蓋を押さえている紐を解く。しっかりと閉められ留められていた同じ硝子の蓋を取ればすぐにふわりと甘い香りが立ち上った。
「……おいしそう」
 言うフェルの視線には小さく笑って、クロウィルが左手の手袋を外して果肉の一つをつまむ。小さなそれをまず自分の口に放り込んで噛み締めた瞬間に目を瞬いた。
「……ど、です?」
「甘いは甘いけど」
 想像していた蜂蜜のような甘さとは全く違う。林檎の食感も完全に消えはせずに残って、香りも相まってか空気に抜けるような甘さ。もう一つを摘んで汁気が垂れないように注意しながらフェルの方へと差し出してやれば、銀は躊躇いもなく前のめりに動いてそれに食いついた。
 差し出したうちの半分くらいをその一口で攫っていった、その紫が途端に見張られる。お、と、クロウィルが声に出さずに呟く間に、それは力の抜けた満面の笑みへと変わった。
「おいしい……!」
「な。あんまりないようなやつだな」
 残りの半分を示せばすぐにまた口が来た。いつもこうだ、何かしらの食べ物を差し出すと手で受け取る前に口が迎えに来てそのまま噛み付く。品の無いようなそれでも相手は選んでいるらしいからと今のうちは何も言わないままでと、そう思いながら右手に持った瓶を持ち上げてそれをしげしげと眺めている間に。
 不意に指先にぬるいものが触れて、思わず肩を跳ねさせ眼を向けて、そして硬直した。
 果肉の全てを攫っていった舌が指先から垂れる甘い酒精を掬い舐め取っていく。濡れた指の腹に唇が吸い付いて音を立てて離れる。
 右手に持っていたその瓶をちゃんと布の床に倒れないように安置してから空になった片手で顔を覆った。左半身は痺れたように固まっていて動かなかった。フェルが疑念を浮かべる仕草が気配で伝わってくる。
「クロ?」
「……そうだな、おかしいとは思ったんだよ、寝覚め良すぎたもんなさっきな」
 寝起きの色々な箍が機能していないこの時に手から何かを食べさせるのは駄目だった完璧に駄目だった何が駄目かってこちらの自制が利いていたとしても相手が警戒も自衛もしてくれないのが一番駄目だった揺れるに決まってるしなにより不意打ちすぎて反応すらままならない。
「……怖い……寝起き怖い……」
 たぶんきっとおそらく本人は自分が制止の効かない状態だとは自覚していないだろうこの調子では。というかフィレンス相手にやってるところは何度か見てたが自分がやられると破壊力が。破壊力。
「……クロウィル? どうしました?」
「……ちょっと思い出し落ち込み……」
「……?」
「……フェル、まだ眠いか?」
「ん、と……横になったら、とは……?」
 その答えには相当だと思いながら、ぎくしゃくと動くようになった左手も駆使して瓶の蓋を閉じる。窪みが付いていて螺子蓋のようにきちんと締めれば逆さにしても溢れないように作られたそれに感心することで意識を逸らせて、箱に仕舞ってから、やおら腕を伸ばして眼の前の身体を膝の上に抱きかかえた。
「あ、れ?」
「寝てろ、今日はもう仕事無いんだろ」
 抵抗なく収まったのもやはりいつもと様子が違うと思いながら、周りの布を集めて黒い姿を覆ってしまう。そのままクロウィル自身も一枚を肩から被さって、そうしてから彼は細い身体を抱えたまま横に転がった。
「ん、でも、クロウィルは?」
「俺も平気。夕食の前には起こしてやるから」
 だからと念押すようにクロウィルが言ったそれに、フェルは素直に頷いて白い布に首元を埋める。その頭を撫でてやるうちに、少しもしないうちに紫が見えなくなったのを見やり、そして彼は嘆息した。
「……これどうやって運ぶよ……」
 早々に部屋主が戻って来た時の眼が怖い。非常識的に見せているあの紫紺が、この蒼樹の中では珍しいくらいに常識的な観念で動いていると知っている人物が一体何人居るのだろうか。境界を越えた行いに対して非常識的な方法で意図を伝えようとする行動はまさしく非常識なのだが。ともかく。
 今寝入ったばかりのこの紫は、恐らく少し揺らしただけでもすぐに目を覚ましてしまうだろう。かといってここにこのままで居るのも中々に恐ろしい。オーレンがこの紫銀に気を向けている理由は、単に年齢の為なのだろうが、だからこそ払拭され得ない。だからこそ、この状態で彼に遭遇したくはないのだが。フィレンスならまだ寝かしつけたと言い張れば何とかなる。オーレンの場合はなんともならないと断言できる。巻き添えにはしないだろうが、つまりは狙いが研ぎ澄まされるだけだ。魔導師はそういうところまで徹底しているから困る。
 息をつく。――たぶんどうにもならないだろうから、疲れているという事で納得してもらう事にした。
 銀を撫でる手は止めないままで目を瞑る。眠気が残っているのは自分もそうなのだ、あと数時間は現実逃避をしていたい。そういえば部下が一人も居ないが、また本部から招集されて散っているのだろうか。何人かが神殿の方で詰めているのはいつもの事で、それは仕方の無い事なのだが。二人か三人か、新しく他の隊からの異動があるとかも聞いているが、まだ書類が回ってこない。やはり揉めているのだろうか、第一への配属はまだ名誉で済んでも、第二への配属は様々に根回しが出来てしまうから、紫旗の適正があるとして入団できた人間でも、選ばなければ難しい。名誉以上に利己に出来てしまうから。
 どうなるのだろうと意味も無く考えているうちに、緩やかに睡魔が戻って来る。殆ど音もないのも、変に眠れてしまう理由だろう。近付く人も居ないから人の気配も無い。あったとしても部屋主のそれで、彼の気配は静かなもので揺り起こされる事も無い。だから戻って来たとしても、目を覚ます事が出来ないのだがと、そう溜め息をついたのが最後だった。




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