「ヴァルディア」
「何だ」
「クロウィルを休ませた。報せた」
 扉を叩く音も無くのそれに、ペンを止めて眼を上げる。金の視線と相対する紫紺は揺れもせず、ヴァルディアは特に不思議に思う様な様子も見せず、だが僅かに疑念を浮かべた。
「珍しいな……何かあったのか」
「セオラスが何かをしただけだ。長く尾を引く事も無い。今は寝んでいるだろうが」
「わかった。では片割れには単独でも渡しておこう」
 言えば、扉を少しだけ押した間に半身だけを滑り込ませるようにしていたオーレンはそのまま身を引き、音も立てずに閉じた扉の向こう側へと消えてしまう。それは見送らないで、街の方々から上がって来て役所を通して協会へと集められた書類の山へと眼を戻した。
 協会がこの街の行政を任されているのは確かに事実だが、任されるその数は生半可な都市よりもずっと多い筈だ。協会の指示を仰ぎ許可を求める書状は、なにもこの街からだけではない。蒼樹が総括を任された国土の西側、そこに位置する町や村、それらを領地とする貴族の領主達からも事ある毎に様々な形で書状が送りつけられて来る。あるいは白黒の動員を求めるものとして、あるいは法制の改訂か免除を求めるものとして。あるいは、中枢に人の根を持つ協会長官と親しくなりたいが為の、見え透いた献金すら紛れている。
 今度は扉を叩く音が転がるのが耳に入る。入れと声だけを向ければ、扉が開いた途端に明るい空気が入って来た。次いで二人分の声。
「お呼ばれましてー」
「一度くらい真面目に入れ、お前は」
「良い、気にしない」
 エレッセアとゼルフィアの声には、机の端に積まれた山の中から封筒を引っ張り出す。手紙のそれの何倍かある大きさの、腕に抱えて丁度というそれを手に二人を手招いた。
「二人組に、だ。毎回言っているが」
「だってどんどん二人組の適正から上の方に外れてる気がするんですもん」
「適正は私が判断する。動けなくなる程の負傷はしていないだろう、今までの任務で」
「え、そこ基準?」
「死ぬ寸前までは使う。勿体ないからな」
 ゼルフィアが苦笑しながら手を伸ばして来るのには、ヴァルディアはすぐにその手に封筒を渡してしまう。エレッセアは唇を尖らせていた。
「むう……出来れば少しずつ慣らしたい……」
「だそうだが、長官?」
「そうか、では今回は多少難度が低いものをと思って渡したが、別の」
 言い終える前にエレッセアがゼルフィアの手の中のそれをひったくって紐を外して中の書類を取り出した。この時点で成立だ、伸ばしかけた手を止めて引き戻す。引っかかり易い所属は面白いと思いながら、手元には任務に関わる資料を広げた。
「通常の討伐任務だ。『大渦』と『騙鳥』、二種が隣接地区でそれぞれ家畜に手を出している」
「なんで家畜に? 『異種』は動物は喰わないのに」
「家畜に手を出せば人間が出て来るからな」
 エレッセアの問いには先にゼルフィアが答える。その通りだと頷いて、地図に眼を落とした。重ねられた一枚を捲れば、同じ場所を示した別の地図。
「被害は地下だが、生息は地上だと先遣隊が調べてくれている。一応両方と思って準備してくれ、状況が変わっているかも判らない」
「了解」
「……『大渦』、って、確か夜行性? ですよね。ゼルフィア夜大丈夫? 近くに川無いよ?」
「あっても凍ってるだろこの季節じゃ。あー……まぁ一日二日開けたところで支障はないんだが。出来る限り対処しておきたいのはそうだな、出発前に少し時間が欲しい、といったところか」
 魔導師は騎士の問いにはそう答えて、だが言葉と共に自身の髪を押さえる。ルクィアは水が無ければ生きられない種族だ、それも口から飲めば良いという話ですらない。ヴァルディアは地図の一点を指先で示しながら口を開いた。
「転移陣に近い地区だ、移動にはさほどの時間もかからない。出発時間は任せる、長引くようなら数回にわけて出向いても良い」
「有り難い」
「黒服が死ぬと後が面倒だからな。ルクィアの自滅を見たいとも思わない」
「あー……エグいしな……」
 全く自分勝手な風に言った長官に、ゼルフィアはそれには何も言わないでただ同意だけを向ける。ルクィアの自滅は、言葉のそのままだ。髪に現れる花は幻でも、同じ幻と出自を同じくするルクィアに取っては現実と変わらない。水を与えて養わなければ、いずれ花の根が水を求めて身体を侵し、やがて死ぬ。横のエレッセアもそれを知っているからだろう、やはり長官の物言いには何も言わなかった。
「では、気になる点は?」
「無いな。レッセは?」
「……『騙鳥』は初めてだから、ちょっと何が分からないのかも分からないんですけども」
「飛翼のあるものだ。ゼルフィアは、何度か任務もあったかと思うが」
「さほど面倒な相手でもない、個人の感触では。場所が良ければすぐ終わる」
「空中戦にはなるが」
「あーしたらちょっと苦手かも……だけど、まあ、頑張るです」
「そうしてくれな、今更一人は面倒だ。では、長官」
「ああ。頼んだ」
 言えば、二人は書類を手にしたままいつものように部屋の外へと向かい。送り出しはしないままで、そのまま再び書類の山へと向き直った。ひとつ溜め息を吐き出してから、要請書を手に取った。署名だけが必要だというものばかりだが、それだけで何事もが起こってしまうから内容の確認と把握は欠かせず、それが一番面倒な作業でもある。報告書には、今日は手が届きそうには無い。
 無視していいものはそのまま別の山に積んでおく。そうして別のひとつには署名をして処理済みの山に積む。左右に動かしているだけに見えてしまうのが不毛だ、思っても手を止める方が不毛だからと止める気にもならない。
 暫くの間は一人で作業を続ける音だけを聴きながら、ひたすら眼と手だけを動かしていく。疲れて来た、と、口には出さずに思考だけが言葉にした頃合いで再び扉を叩く音が聞こえて、今度は返答を待たずに開いた。眼を上げれば青。
「今度は何をしたんだ?」
「俺だって若いのの連中は多少は心配なんだって」
 セオラスは言いながら後ろ手に扉を閉め、執務机のすぐ近くまで距離を積める。軽く息を吐きながら、任務の山の中から特別に分厚い封筒を抜いた。差し出せば、彼は嫌な顔もせずに受け取る。
「高位?」
「ああ。『銀狐』の目撃情報が相次いで三件、場所も近い、近村に被害が及ぶ前に安全を確保したい。誰に任せるかは悩んでいたが」
「俺、ね」
「少しは頭を冷やして来い」
「それクロウィルに言わねぇ?」
「お前が若い連中を苛立たせる事は日常茶飯事でも、オーレンが出て来る程度になったのならお前が悪い。これからの先の方が長い輩を虐めるな」
「虐めてるわけじゃないんだけどなあ……」
 言いながら、セオラスは受け取った封筒から書類を取り出し、検分を始める。報告書もそのまま入っているからかなりの量で、それに眼を通すうちに僅かに眉根が寄せられていった。
「……かなり近いな。最初の発見は?」
「一昨日。昨日の時点で二件増えた、先遣隊は既に向かったが、中に藍が居る、調査よりは囮に近く動いてくれている。よって急務だ、手の早いものに任せたい」
「それなら本当は二人で行きたいんだけど、も、……わーってるよ」
 見上げた意味はすぐに伝わったらしい。まったく、と溜め息を吐いた。
「何故私が白黒の喧嘩の仲裁をしなければならない」
「悪かったっての。……終わったらちゃんとすっから」
「今度はしくじるなよ、あれが動けないと達成率に直結する」
「了解。……そうだな、一時間で出る。着いたら先遣隊先に探して帰すから、それが帰って来てから一日音沙汰なかったら応援くれ。『銀狐』がもう群れ作ってたんなら流石に一人じゃ処理できない、ってか、できたらマズいだろ」
「……お前なら不思議でもない気もするが?」
「冗談。俺も一応人間のカテゴリだしな」
 また解らない言葉を遣う。セオラスは通じる通じないを全く気にかけずに喋るから面倒だ。意味を聴くのも面倒な場面が多いから、ほとんど聞き流してしまうのだが。いちいち真面目に意味を訪ねるのは、エレッセアか、フェルくらいなものだろう。
「じゃあまあ、一日くらい目安にして行ってくるわ。死にはしないと思うけど」
「頼んだ」
 片手をひらと泳がせて、そのまま背を向けて歩き出す。扉から廊下へと出るのは見送らないで、また元通りに書類に向き直った。閉まる音を聴きながら、万年筆を拾い上げる。入れ替わりに入って来た一人には眼を上げないまま声を向けた。
「新しいものは?」
「方々の領主樣方から色々なものが届いておりましたが、これ以外は情報室に置いて参りました」
 クラリスは言いながら、三つの手紙を差し出してくれる。受け取ってみれば宛名の無いものばかり。想像はつくと思いながら最初のひとつを裏返せば、赤いインクの記号。迷い無く描かれたのだろう、菱形に葉が乗ったそれは、リアファイドの印章を略した署名代わりのものだ。すぐに机の中から細身のナイフを取り出した。実際には刃のついていないそれを封の隙間に滑り込ませて、糊付された封筒の頭を破いてしまう。
 封蝋を使わないのはいつもの事だ。アイラーンの印が付いた手紙はそれだけでも大仰だからと、リアファイドは気の知れた相手への私信にはいつも印章を略したそれで済ませてしまう。中に入っていた便箋を取り出して広げれば、やはり見慣れた文字の顔が並んでいた。
「リアファイド様には珍しいですね、行商を通してというのは」
「クィツが長距離を飛べなくなって来たからな……イレの訓練が終わるまでは、暫くは郵便所の世話になる」
「あら、それは……クィツは、大丈夫ですか?」
「翼の衰え以外はまだ大丈夫だろう、獲物が狩れなくなっているわけでもない。だがじきに寿命だろうな……」
 大型の猛禽であろうと、人と同程度に生きる主は限られる。鷹の中でも、大鷹はあまり長くは生きないらしいとは聞いていた。驚くような事ではない。思いながらも、眼は文面を辿っていた。
 要旨は簡単だった。王都で次に催される舞踏会にアイラーンの当主夫妻が出席する事、その二人が時間があればと言っている事が一番に書いてあるのを見、少し考える。
「……クラリス、六日後の公爵主催の舞踏会だが」
「六日後……招待状が届いておりましたが。出席なさいますか?」
「アイラーンの当主が見えるらしい、行く。ついでにその後二日を開けておいてくれ、急ぎのものがあれば帰って来るが」
「了解致しました。情報室にもそのように伝えます。……北のエフェシェイル公爵ですね、協会の運営にも協力的な方です。寄付額は三位ですが」
「では顔くらいは見て来るか」
 どんな思惑があろうが、使えるものは使っておきたい。人脈は最たるものだ、好きも嫌いも関係ない。続けて手紙の中を追いかければ、そう考えるのも解っていたのか、繋ぎを取るつもりで出て来いともあった。
 下の弟達もという文面には、ほんの少し気が和らぐ。リアファイドの弟達には概ね好意を向けられているらしい、嫌な気はしないし、久しく会ってもいないから会えるのは良い。――妹の方については、何故か初めて顔を合わせた時から今の今までかなりの程度で警戒されている様子なのだが。理由が思い当たらない。リアファイドも把握はしていないらしい、尚更謎だ。
 やはり手紙の最後には自分にも時間を寄越せと整った字で乱雑に掛かれ、それで二枚分が締められている。読落しが無いかを最後にざっと眼を通して確認して、それでその便箋は元のように畳んで封筒の中へと戻し、机の中から箱を取り出してその中へと収める。そのまま二通目を拾い上げて、ひとつ目と同じように宛名の無いその裏を見る。今度は薄茶のインクで、描かれているのは柊の葉。それを描いて送って来るのも一人しか居ないと思って、真円ひとつだけの封蝋を割って中の便箋を取り出した。
 脇に紅茶のカップが置かれたのを横目にして、すぐに文面に視線を戻す。便箋は一枚だけで、その中の文字も少ない。ほとんど箇条書きにも近いそれを手早く確認し内容は頭に入れてしまって、すぐに畳んでしまう。封筒の柊の葉をもう一度確認してから便箋と重ねて、指先に力を込めて破いてしまった。
 秘書官の眼が向くのには何の反応も返さず、半分になったそれをもう一度重ね合わせて更に引き裂く。四分の一の大きさにまでしてから軽く掲げるようにすれば、すぐに新しい気配が現れてそれを攫って行った。熱の舞い上がる気配、使い魔のひとつが笑う声。
『普段は呼びもしないくせに、こうとなると我らの使い方が荒い主殿でいらっしゃる』
「使い走りにしないだけ良いだろう」
 手紙を焼き尽し終えた男の声のそれは、苦笑するような息を残してまたすぐに姿を隠す。劫火の使い魔が文句のように言ってすぐに己の中へと戻った感覚には何も言わず、目元に手を当てて息をついた。別の何事かにか気をそらせていたい気分が強い。クラリスがもう一度こちらを見るのが解った。すぐにその視線を追いかけて声が耳に入る。
「もう夕方にもなりますから、休憩になさっては?」
「……残りのものはどの程度ある?」
「直近のものは終えられております。本日は急ぎのものも、もう届いておりません。ですから明日の荒れ次第ですね」
「そろそろ落ち着いて来る時期か……」
「かと思われます。例年の推移であれば、ではありますが、年明けから何かと例外ばかりですから油断大敵ではありますね。ですから余裕のある内が宜しいかと。何かされますか?」
「……階級査定の準備をしてしまいたい。構築精度審査がある、査定自体は来年の春だから一年はあるが、余裕がどれほどあるかも判らないからな……」
「でしたら、情報室で処理できる範囲を広げておきましょう。文官は人員にも手が足りて参りましたから……そうですね、街の整備関連は部門の書記官を主軸に置き換えましょう、先年の事で経験者が出来ましたから」
「分かった、詳細は任せる、動き易いように。……それと、書記官の中に、魔法に詳しい者は?」
「何人か居ります。一番は、商管理部だったかと……」
「一人に技師との調整を任せたい」
 言えば、蒼が驚愕を浮かべるのが眼を向けずとも分かった。細く息を吐き出す。
「あちらの技師と『彼女』の了承は取ってある。あとは人が居るかどうかだ」
「……限られた範囲の窓口とはいえ、たった一人に一任なさるおつもりですか?」
「信用できない人物か?」
 言えばクラリスは、それは、と口ごもった。協会の情報処理室は機密に触れる事も多い場所だ、そこに務める人物の如何を問うたところで否は出ないだろう。三つ目の手紙を持ち上げながら、声と眼は第一書記官へと向けた。
「『彼女』の事も、いつまでも私だけがやっているわけにもいかないだろう。結界については私が見て技師とやりあうしかないが、何かと町の様子を訊きに行くのに長官がでは、技師が気の毒だ」
「……それは、確かに……」
 技師は何かと町の運営に関わって行動する事が多い割に、この街の技師の家系はどことなく浮世離れしているというか、世間に疎いところがある。それで「世間」の頂点であり、且つ構築魔法という都市そのものの機密の管理や審査、あるいは監査監督を担当する協会の長官が何度も足を運ぶというのは、相手にしてみればある種の威圧とも取れるだろう。今でこそは和らいできたが、最初などは警戒され過ぎて満足に話も出来ないくらいだった。
「候補を挙げてくれ。構成とやり合うのであればある程度は魔法使いらしい方が苦労しない、あとは見て決める」
「……了解致しました。では何人か、私の方で調べて参ります。……食事はどうされますか?」
「……持って来てくれるだろう。暇があっても、行ったところで遊ばれるのは眼に見えているからな」
「わかりました、ではそのように、一応伝えておきます」
「ああ」
 と言っても、何もなくとも朝と夜の二回の食事に関しては、その調理を主導する何人かが気を遣って毎回この部屋まで運んでくれるのだが。いつからそうなったのか、長官になる前には同じように厨房に行っていたのだが。クラリスが処理済みの書類の山を抱えて扉へと向かい、廊下へと消えるのを何となく見送って、それでようやく三つ目の手紙の裏側、差出人の署名のあるだろうそこを見る。
 見えた瞬間に眼を見開いた。先に一通目の封を開いたナイフだけを机の抽斗にしまっておいて、羊皮紙に細い紐のぐるりと一周渡されて封蝋で封じられたそれを掴んで立ち上がった。背後、壁際にかけられていた外套を腕に抱える。
 どちらにするかという逡巡は一瞬で、すぐにそのまま机の背後、大窓の把手に手を掛け開け放った。
 風が吹き込む。一度だけ振り返り書類が舞い上がる事無くそのままなのを確認して、そうしてから開いた窓の桟に足を掛けた。風を喚び、乗り越え身を躍らせると同時に舞い上がった。
 地上との距離は縮まる事無く広がり、そのまま主棟の屋根へと昇る。青瓦を踏むと同時に風は全身から剥がれ落ちていった。小さな精霊達が渦巻く風の中にいるのが見えてそこに手を伸ばし、魔力を差し出せば、受け取った精霊達が笑いながら去って行く。それを見送り、そして居住棟の方向へと足を向けた。
 手紙を上衣の中へと入れてしまってから外套を羽織る。雪は止んでいる、精霊の入れ替わりが近い、もう雨の季節になるだろう。主棟の端、建物の高さが一階分違う居住棟の屋根が下に見えて、迷い無く飛び降りた。
 軽い音を立てて着地する。この屋根は少し行った先で折れ曲がって、居住棟の建物そのものに繋がる渡り廊下のそれだが、まあ良いかと思って主棟の白い壁を背にして腰を下ろした。居住棟の窓はここから遠い、それにいちいち屋根の上に誰か居ないかと見る輩も居ないだろう。暫くは隠れていられるはずだ。
 上衣の中から手紙を取り出す。表書きの無い中に、黄と紫の麻の紐は署名代わりのもの。裏を見れば、封蝋に押された印章は樹を模したものだった。その封蝋を丁寧に割って、封筒の中の便箋を取り出す。僅かな香りは、この差出人が好んで使い、自分にも分けてくれている白檀の。
 文面の文字列は、やはり見慣れたものだった。もう一度麻の二色を見て、そうして文面へと眼を落とした。
『病も無く暮らしていると思います。仕事が忙しい所為ではあるでしょうが、先の会議以来、中央での噂も少なく、多少は心配に思っています。貴方の筆無精はもう重々承知していますが、時々には報せも届けさせなさい。』
 思わず目許が和むのが自分でも分かった。眼が合う事も、顔を合わせる機会ももう年に一度も無い相手、樹の印章のこの形を使うのは、レスティエルだけだ。紫樹の長官であるフィエリアルの双子の弟、――今の己の義父に当たる人物。
『今年は何かと異例が多い状態が続いていますから、協会の方も中々に難しい事と思いますが、中央が五月蝿い事は少しは耐えて、近くに用がある事があれば研究所に顔を見せに来なさい。職員達も貴方の事は知っていますから、私の所まで通してくれるでしょう。
 貴方が学院の頃に研究所の近くで拾って事務室が引き取った犬も、そろそろ眼が弱って来ていると聞きましたから、一応伝えておきます。あれから至る所で犬猫やら鳥やらを拾って来る者も増えていますから、何かとあちこちに何かしらが居ます。中々に沢山ですから、貴方にも良いでしょう。手伝えとは言いませんから、貴方が興味を持ちそうな資料も見せるわけにも行きませんが。
 リアファイド卿から、今度の公爵主催の会には貴方を誘うと聞かされました。私も会場には行きますが、遭遇できるかは分かりませんし、アイラーンの皆様の所にもと思うでしょうから、暇があれば会いましょう。
 もうひとつ。大きな荷物になりますから、協会にではなく貴方の家に宛ててひとつ届けさせました。きっと家の方には気を遣っていないでしょうから、改めて伝えておきます。
 春の終わり頃になるまでは、研究所の方に居る事が長いようになりますから、何かありましたらそちらの方に。来るにも前言は必要ありません。構える事があるから重ねて言いますが、息子に礼儀は求めません。
 くれぐれも身体を壊す事の無いように。雨の季節は咳が戻って来るでしょうから、フィエルに薬を送らせます。忙しさにかまけて、欠かさないようになさい。

 最後に、思い出したので書き加えます。
 シェリンの様子は如何ですか。あの子も何かと遊ぶ癖がありますから、貴方も苦労するでしょう。何かあれば、報せて下さい。』
 返信をすれば逆に怒られそうだと、最初にそう思った。思いながらほんの僅かに笑みが浮かぶのは、抑える事はしなかった。
「……来いと一言で言えば楽なのに」
 彼に言われれば否とも嫌とも答えるつもりは無い。義父がこう言う理由はわかる、もう丸々一年以上、ゆっくり話す事も無かった。元々が心配性な人だからわざわざこうして手を送り届けてくれたのだろう。あまり本人がそうしたところを見せる事は無いが、こうして手紙だと顕著に見える。
 しかし研究所に、犬猫に鳥とはどういう事なのか。大昔には魔法使いが使い魔にするのは動物、特に黒猫やら烏だったという伝承もあるにはあるが、今はもう烏は絶滅してしまっているし、黒猫は発見例の極端に少ない希少なものだ。いくら魔法院直下の研究所とはいえ、そこに居るなんてこともないだろう。何故そこで動物が養われているのか。確かにそれらの類いは、寒い中でも温いから好きではあるのだが、あまり、人に知られたとは思いたくない。義父にはとっくに知られているから、彼の屋敷はもう既に猫屋敷になってしまっているのだが。
 なんとなく気恥ずかしい。中々行く事も難しいのに、彼は部屋まで用意してくれているから。
「……忙しくなるな、今度行く時には」
 一人呟く。社交界というものには欠片も興味は無いし、新しい人脈を得る為だけに一日拘束される意味を見出すのも無価値に思えるのだが、こうも多方面から呼ばれた上にこう書かれては無視する方が難しいだろう。
 便箋を見返す。二枚分の、飾り気の無い書き口はいつもの同じ。ただひとつ、いつもと違うもの。
「……荷物……?」
 彼から手紙以外のものが、というのはあまりない。時々、発表した論文や魔法に対する反論の載った本を届けてくれる程度だ。多少は他人の言っている事も気にしろという意図だとはすぐに分かったから、嫌味には思わなかったのだが、だがその時もいつも前触れも無くだった。
 だから、こうして手紙の中でまでそれを知らされるというのは今までに無かった事だ。大きな、というのも気にかかる。一度眼を上げて、協会の中の空気がまだいつもと変わりないのを確認してから、手紙を元のように直して上衣の中に仕舞ってから立ち上がった。
 家に行くのは、恐らく数ヶ月ぶりのように思う。屋根の硬い瓦を踏みながら歩き始める。下を歩けば誰かしらに遭遇するし、すれば連れ戻されかねない。それを避ける為にもと、万が一にも所属者の居るはずが無いそこを歩いて、地下へと入る入り口を目指した。



 家は、街の外周近くにある。外側には珍しい大きな邸宅で、地上からはもう扉は開かないようにしているから、用がある時には地下から入る。大きさで言えば屋敷とも言えるそれは、前代の長官から維持が面倒だからと押し付けられたものだ。どうやら家を持たない長官達が入れ替わりに使っていたようで、例に漏れず自身で使う事もほとんど無いそれは、もう半ば書庫と同義ではあるのだが。
「ヴァルディア様、お帰りなさいませ」
「ああ」
 使っていないとは言っても、放置しているわけでもない。この家に常に留まり管理を任せているのは男女一人ずつの二人。使用人のようなものだが、それだけでも無い。
「レスティエル様からのお届け物がございましたので、お部屋の方に運んでございます。すぐに戻られますか?」
「少し居る。……荷物を確認する、寝む前に湯殿を準備してくれるか」
「畏まりました。報告書も纏めてございます分をすぐにお届け致します」
「任せた」
 中に一歩踏み込んでから、外套を脱ぎ預ける間に、灰色の髪を編みきっちりと纏めた彼女とそれだけ言い交わしてしまう。外套を受け取ったその人は上品に一礼を残してすぐに準備に向かい、その横で階段に足を向け上へと登って行く。
 二人が住み込みで管理し、使ってくれているおかげで、あまり家主が立ち寄らないでも建物自体が酷く痛むという事も無い。自室のある三階まで足早に向かえば、段を上がり切ったそこで軽い足音が耳に入った。そちらへと眼を向ければ、地上の一階、外へと張り出した出窓の植木のすぐ傍に、肢を折り畳んで尾をゆらゆらと揺らす生き物。黒い毛皮の。
「カイ」
 呼びかければ短く鳴く。蒼い眼の黒猫がそのまま尾を揺らしたままで居るのを見て、一度軽く息をついてそちらへと歩み寄る。手を伸ばして、その頭を撫でた。
「ちゃんと居たな」
 眼を細めた黒猫が嬉しそうに鳴く。それが聞こえたのには僅かに息を漏らした。
 ――黒猫は、中々居ない。本当に存在しているのかと、疑念すら抱く人も居る。見つかれば高値がつくだろうが。
「外には出るなよ、二人が見ていてくれるとは思うが」
 黒猫が高く取引されるのは、身体の色に黒が現れるからだ。だがその黒は、人々が期待する様な『黒』ではない。それに、見つけたそれに値をつけてしまうのは趣味ではなかったから、そのまま自分で飼う事を決めたのだが。
 誰も訪う事の無い、来たとしても限られた数人だけのここなら、取引の為にあちこちに連れ歩かれて憔悴する事も、殺されて毛皮を奪われる事も無いだろう。その分不便はさせてしまうがと思いながら、撫でる手を離す。そうすればすぐに黒猫は立ち上がって、その丸い体躯を腕に抱えて歩き始めた。廊下を部屋へと目指す間に、使い魔の声。
『主殿』
「何だ?」
『クラリス殿にはお伝えした方が良いのではないでしょうか。寝まれるのであれば、時間もかかりましょう』
「……夕食前には戻る。それまでは捜すな、と」
『了解致しました。そろそろ協会の方にも、人が戻って来ている様子ですから』
 言った風は、そのまま姿も気配も空気に溶かして消える。黒猫が長い一声を上げるのにはその首元を指先で撫で、そうしながら自室の扉を押し開いた。
 中は程よく空気が暖められている。暖炉の火はついていないが、暖められた空気が送り込まれているのだろう。すぐの場所にあるソファの柔らかい座面に黒い身体を降ろせば、カイも分かっているのか大人しくそこで前肢を折り畳んで背を丸める。その頭を一度軽く撫でておいてから、居室の更に置く、寝室の扉を開いて潜った。
 薄い紗幕が垂らされた天蓋は、単に猫が寝具の上に登ったりしないようにする為だ。拾ったばかりの頃はこの薄い垂れ幕にもじゃれついて散々に破いたりもしていたが、最近はそういった事も無い。流石に学習したという事なのか、それとも飽きただけなのか、いずれにせよ被害が無いのは良い事だ。
 紗の中に包みがあるのを見つけて、手繰ったその中、寝台の端に腰掛ける。いつも長椅子に毛布やらで済ませているからその柔らかさには軽く感嘆しながら、水気に負けてしまわないようにだろう、油脂に包まれたそれに手を伸ばした。こうして寝台の上に荷物を置くようになったのもカイの悪戯防止の為だが、そろそろ別の方法を考えてもいいかもしれない。
 手紙にあった通り、荷はかなりの大きさがあった。宛名や受け渡しの判が無い所を見ると、行商ではなくレスティエルの家の人間が運んでくれたのだろうが、苦労しただろう。一抱え以上ある。だが厚みはそれほどでもないそれを括っていた麻紐を解き、油脂の包装を取り払えば、出て来たのは白い箱。
「……?」
 疑念が浮かぶ。硬い感触ではあるが、木ではなく厚く作られた紙だ。あまり無いようなと思いながら蓋を持ち上げて、見えた中身に面食らった。薄紙に包まれた布地、覆いを除ければ尚更確かに見える。深い紺、光に当たると青くも映る様なそれは、正装用のひとそろいだった。上下に一式に外套、男物の簡素な髪紐までが入っている。
 左手を口元へと持ち上げる。掌で軽く擦るようにする。そうしてから上衣を箱から出して、寝台、掛布の上に広げた。正装と言ってもあまりきっちりとしすぎていないように見える、そのように仕立てられているのは、彼が自分の好みのようにしてくれたからだろう。左手の袖口、目立たない場所には、金糸で自分の印章が細かく縫い取られている。
 箱の中に手紙や一筆は入っていなかった。息をつく。好きにしろという声と、着て見せに来いと言う無言の圧との、その両方に思えるが、恐らくは後者の方が強いだろう。レスティエルは、自分が自身の服装にさして興味を向けていない事も知っているだろう。彼自身も洒落に力を入れている様子は無いが、整わない事は嫌う。
 軽く扉を叩く音。入れと応えれば、屋敷に入ってすぐ出迎えた彼女が腕に盆を抱えて入って来る。紅茶と書類の束の載ったそれを寝台の脇のテーブルに据えて、一歩下がってから口を開いた。
「三ヶ月分の報告書になります。タイラスは先月から調査に向かっております。戻るのは三月頃か、長引けば五月になるとの事です」
「解った。通常通り何か問題があればすぐに、それ以外は纏めて確認する」
「畏まりました。そちらは如何致しましょう」
「……後で持って行く。纏めておいてくれ、後はお前は普段のように」
「はい」
 短く答えて、彼女はそのまま音も無く霊だけの越して扉の向こうへと去る。入れ替わるように黒いしなやかな影が入って来たのが見えて、取り出した上衣をもとの通りに畳んで箱の中に戻した。足下まで来たカイが甘えて鳴くのには苦笑しながら蓋を戻し、油脂をその上にかぶせておいてから、あからさまに喉を開いて催促する黒猫を足下から腕に抱え上げた。
「まだ寝ない、少し待て」
 喉をくすぐるようにしながら言ってやれば、蒼い瞳を閉じてごろごろと鳴る音。家主が眠る間だけは彼女もこの寝台に潜り込めるから、それを狙っているのだろうが。
 膝の上にそれを抱えたままテーブルに手を伸ばし、奇麗に纏められた書類を拾い上げる。爪を立てられる前に眼を通してしまって、問題が無い事と気にかかる点が無い事を確認してしまってからすぐに戻す。既に寝の体制に入っている黒猫を腕に抱え直してから、本を片手に居室に戻る。こうなっては別の暖かい場所に降ろしても機嫌を損ねるだけだろう、そうなると絨毯やらクッションやらが被害を被るから面倒だ。
 ソファに戻って来て、テーブルに盆を据えてカップを持ち上げる。腰を落ち着けて、味よりも香りの強い紅茶をゆっくりと口に含んで飲み下す。ゆっくりと息をついて、それでカップを戻して背凭れに身体を預けた。
 協会の中では、中々こうしてゆっくりできる事も無い。ありとあらゆる案件が間を空けずに舞い込むから、無視する余裕が無いのが常だ。どんな時でも多重の情報に触れ続ける文官、書記官や、戦闘で心身ともに疲労と積み重ね続ける騎士や魔導師には、代わる代わるに休暇を取らせているが、長官ともなるとそんな事も言っていられなくなる。代役も居ないのだから仕方の無い事ではあるのだが。
 膝の上が次第に暖かくなって来る。眠っているのだろうとはすぐに分かった。湯殿の準備ができるまでは動けなくなったと思いながら、重さを全てソファの柔らかさに任せて眼を閉じる。眠るわけにはいかないが、何もする事が無いのだから、ぼうっとするくらいは良いだろう。
 ――レスティエルに会った時に何を言うかも、今のうちから考えておかなくてはならないだろうが。
 どうするかと考えるうちにその思考も動きが無くなって行く。その最後に、溜め息とともに疲れたと、一言小さく呟いた。




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