絶句している色違いに青年はにこにこと笑っていて、長官は額を押さえて深く深く息を吐き出していた。
「……せめて先触を……」
「封書を届けたから、それで良いかなって。まさか君自身が迎えに来てくれるとは思わなかったけれどね」
「……神々は誓約を破るのが趣味のようであらせられる。ヒセルス様といい貴方といい……」
「ちょっとは破天荒したいでしょ?」
にこにこと笑いながら言ってのけるそれに、ヴァルディアは頭が痛いとばかりに俯いて沈黙してしまう。色違いは、硬直していた。そちらに視線を向けた青年――自身を光の王と名乗った彼は、今度は苦笑を見せた。
「流石に子供の姿では不審を買ってしまうし、今の僕は人と変わらないどころか魔法も使えないから、実のところ今の僕には誓約は課されていないんだよ。これは僕の修行で、そのついでに様子を見に来ただけだし。魔法を使えないと言っても人間のそれができないってだけだから、自衛とかそういうのに不便は無いんだけどね」
「……え、と、ちょっと、待ってください、理解が」
「僕は龍として若いから、たまにこうして地上の荒波に揉まれるのも仕事、って事だよ。こちらにおいで、君とも久しぶりだから、話したいと思っていたんだよ。おいで」
言いながらソファに座りなおした青年が、招く声と同時に自分の横の座面をぽんぽんと叩く仕草。それでも硬直しているのが解けないでいれば、視界の中の金色が動くのがなんとなく見えた。
「……とりあえず座れ。私で相手しきれない」
「僕は君とでも楽しいけれどなぁ」
「遊ばれる身にも……何故剣のある場所に特別の警戒もなく近付けるのか理解しかねる」
「協会なら大丈夫かなって。それにほら、僕みたいな龍神を殺しかねない子ももうこの状態だし、クシェスでもなければ剣を恐れる理由も無いよ」
子、のところで指差されるのが見えて、それで我に返った。飾り袖が引かれる感触に眼を向ければ白い狼が軽く咥えて促すように引っ張っているのが見えて、それで戸惑いながらも示された通りにソファの座面、彼の横の少し離れた場所に浅く腰掛ける。長官を見やれば、俯いて額に手を当てた、その頭上には花冠があって、肩には白い栗鼠、腕には水のように透き通った蛇が絡み付いていて、どうやら足元には猫やら花やらで埋め尽くされているようだった。宙を舞っている蝶がその彼の手に止まって、それを一瞥した長官が顔を上げれば、また飛び立っていく。何となく、見慣れていない事もあってか見上げて見送っているうちに、その彼の眼がこちらを向いていた。
「……見えるのか?」
「え?」
思わず聞き返してしまう。意外に思っているようなそんな声音を聞くのが初めてだったからなのか、それとも非常識が立て続けに起こっている所為なのか上手く反応出来なかったのがそのまま出てしまったそのすぐ後に、苦笑した青年――光王、レギュレが言う。
「水晶の塗り薬だよ。たぶん、もう一時間もしたら消えてしまうかもしれないけれどね、ラシエナは魔法薬は効きにくくなってしまっているから」
「ああ……そうだ、それについては伺わなければと、常々」
「んー。どうだろうね、僕は知っているから言えるけれど、ラシエナの事だから、僕から言うのは憚れるかな。ラシエナが良いのなら、僕も良いけれど」
答える声の最後でその視線が向けられて、それには眼を瞬いた。少し考えて、分からないと思考が吐くのと同時にその金色が和らいで、片手が頭に乗る感触。
「ちゃんと勉強するんだよって、前にも言ったでしょう?」
「う……で、でも何がわからないのか分からない……から……」
「だったら全部やるんだよ。紫旗、だったっけ、あの団長とやらは詳しいから、彼に訊くでも、フェルを頼るでも、君の禁忌は明らかになるだろうに」
「最近はちょっと本は読まされて……」
「そう? ちゃんと続けるんだよ、君は吹っ切れるのも諦めるのも早いんだから、もうちょっと執着しないと」
「……はい……」
何も言い返せないでただ眼も顔も伏せてしまう色違いには、青年は柔らかく笑んでその頭を撫でていた。
「髪は、あれからまた切ったんだね、少しも伸びていない。ちゃんと長くするんだよ、その方が身体も楽なのだから。金は、人間は特に伸びにくいからね、ちゃんと気にするんだよ」
「……はい」
「うん。……そうそう、君も解っていないみたいだから、僕からになってしまうけれど。君の魔力経路は、大賢者様の創られた結界のようなもので、神や精霊以外の……つまりは、下界にある殆どの魔法のそれはほとんど受け付けないんだ。医術師の治癒魔法も、魔導師の攻撃魔法もね」
それには、え、と声が漏れた。青年は困ったように笑う。
「ただでさえ君が騎士だから、君の怪我を治す方は大変なのだけれど、君は下手をしないから、とんとん、かな」
「下手をしない、には同意しかねる……」
「表向きは、ね。内側の事は僕の事と同じだから、君が心配するではないよ、安心して欲しい」
長官の呟きにはすぐに金色が返す。この部屋金色ばっかりだな、と今更思った。ここまで金が揃う事はあんまり無いのではなかろうかと二人の会話の意味からはそっと眼を逸らしているうちに、その両方の視線がこちらに向いているのがわかって余計に戻せなくなる。片方、テーブルの向かいからの低い声。
「……逃げるな張本人」
「まさか龍神がホイホイ下界に出てきて歩いてるとか思わないじゃんしかも目的は私じゃないみたいだしだからこれは私の所為じゃないしほんに……本人に言ってほしい」
「ははは、染まってきてるねラシエナ。守護にそういう口きくのはどうなのかなー?」
手が伸びてきて片頬を摘まれる。う、と声を零してその手から小さく逃げて、手袋のままの片手でそこを押さえながらちらとその金を見上げた。
「いや、……というかなんで本当にここに居るの王……」
「だから、修行だよ、って言ったでしょ? 龍神なんて千年二千年で成れるものじゃないから、少しでも短くするにはちょっとした苦行も必要なんだよ」
「苦行」
「とりあえず、僕は下界に降りて二回目くらいには剣を扱えるようになろうと決心したくらいには」
自分の弱点に自分から手を出すってかなり相当な事だろうにと、その長い金の髮と濡れたような瞳を見て遠い眼をしながらに思う。隠すくらいできるだろうに、それもないのはやはり天と地の違いからなのだろうか。横から呆れたような声が向けられてきた。
「染め粉ならお渡しする」
「うーん、雪の季節じゃなかったらありがたいんだけど。ほら、濡れたら服汚れるでしょ? 塗料みたいになるから、布にくっつくと洗うの大変で」
「……工夫という言葉を……」
ヴァルディアが更に深く俯いて言うのにはどこかで同情が浮かんでいた。天の神というのは、どこか抜けている。地上に疎いとは彼らも口にして憚らないが、それにしたってと思わないでもないのはそうで、ラシエナがそう思いながらちらと見やった先では長官が完全に沈黙してしまっていた。なんとなく居た堪れなくなって身体の据わりを正す。横に腰掛けた彼がそれを不思議に思ってか首をかしげるのが見えて、それから間を置かずにそうだ、とその本人が声を上げた。
「ここに来る途中に聞いたのだけれどね。今日は鐘の日だって」
「え、あ、そう……あ、だからフェルは今神殿の方に」
「そうか……残念だな、流石に神殿に僕が行ったら、なんだか、だめな気がする」
「そう?」
「なんだかこう、くすぐったくないかな? 精霊達にも口止めはしてるから、魔導師達に感付かれる事はないとは思うけど、でもさっきからこの部屋の近くに使い魔がたくさん集まってるみたいだし」
「え」
声を零したラシエナが長官を向けば、彼は額を揉みながら左腕を示してくれる。袖の中に細い環がいくつも重なっているのが見えて、その中に一つ、幅広の赤銅色。埋め込まれた宝石が淡く光をまとっているのを見て、では結界かと理解して緩い安堵の息が漏れる。それからやっと顔を上げたヴァルディアは、それでも疲れた表情は隠さないまま。
「流石に何も無策ではな。……それで、王、観光をしているほど暇とは思いませんが」
「ふふふ、監視が無いっていいよね。期間内に規定をこなせばあとは自由だもん」
「王」
「ふふふふ。君って結構生真面目だよね?」
「…………」
無言のまま俯いた顔が両手の奥に隠されてしまうのを見て、流石にちょっと哀れに見えた。青年の方を見やれば、至極、心の底から楽しそうな顔。二人を交互に見やって、そうしながら不意に思い至って、ラシエナが眉根を寄せた。
「……ん……?」
「ん。どうかしたかな?」
「……長官って王と知り合い……?」
「魔導師が禁忌魔法に触れないで生きていられると思うな……」
「……あの、私一応紫旗なんだけど、大丈夫? ここで更迭とかしたくないよ? 口滑らせたりしないでね?」
「もう既に護衛ついてるのに言われる台詞じゃないだろそれは……紫旗になら十年前から眼をつけられてるから手遅れだ、隠す意味も無い……」
「いやそういう問題……ユールいないよね?」
「居ない。追い出した。居ても困る。余計に疲れる」
「居ても大丈夫だけどなあ。ほら、今は神格は置いてきちゃってるから。平気平気」
「王そろそろその自由人やめて」
「ふふふふ。久々に僕の子達に会えたから嬉しいんだよ、これでも。だから余計に元気になっちゃってるだけだし、これを外ではやらないから、安心して欲しいな?」
「いやあの、王が心配っていうか」
長官の心労が、と思って眼をやった先では完全に沈みきっているらしい様子が見て取れて思わず口を噤んでしまった。哀れな、と思うと同時に、何となく意外だとも思う。実はこの人かなり弱点多いんじゃなかろうか。思っているうちに大きな溜息が聞こえて、そして魔導師が立ち上がった。
「……フィレンス、捕まえておけ」
「え、何」
「保護者を連れてくる」
言うなり踵を返して呼び止めるより早く扉を潜って何処かへと去って行ってしまう。レギュレは、口元に片手を当てて眉根を寄せていた。
「……保護者……? 僕の保護者って賢者様くらいしか……」
「……いるんだ、保護者」
やっぱりずれている。思っても反応を返してしまうのはもう生来なのだろうか。思っているうちに青年が浮かべていた疑念が消え失せて、そうだ、という声とともにこちらに眼が向けられる。何かと見返すと同時に、青年は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「そう、鐘の日。僕がこういう状態だから、精霊達が騒いでいるのはわかっても、何があったかわからなくてね。だから、君も神殿に行ったろう? 声をかけてあげられなくてごめんね、祭祀がいれば、誰かが伝えてくれたかもしれないけど」
「……あ、いや、大丈夫、……たぶん」
――声が聞こえないのは、そうだとはわかっていた。禁忌を越えてから、その力を扱えるようになってから、神殿に近付けば面前に赴かずとも声を向け、受け取ることができるようになっていたから、それが無いのはすぐに判ったが。視線が落ちて、それでも知らずに安堵が落ちる。
「……ちょっとおかしくなったのかな、とは、思ったけど」
「ごめんね、要らない杞憂を負わせてしまったね。僕が居なくても、クィオラが応えてくれると思うから、何かあれば彼女に頼っておいで。なんなら天に来てしまっても構わないけれど」
どうする、と、まるで誘うかのように首を傾けてのそれには苦笑した。確かに、天には何度か、不可抗力も含め顔を出してはいるが。
「あれって、自発的に行けるの? なんか今までのって、儀式中に気を失ってとかばっかりな気がするんだけど」
「ちょっと大変だけどね、確かに。でも、来たい、って言われて、気を悪くするような同胞は居ないから、きっとウィナあたりが文句言いながら迎えに来てくれると思うなあ」
「……ウィナ様この前ちょっと怒らせちゃったんだけど……」
二ヶ月は過ぎただろうか。天の時の流れはこちらより緩やかっだから、もしかするとあちらではまだ尾を引いて深いのかもしれない。だから難しそうなと言えば、途端に金は困ったと言わんばかりの眉の下がった笑みを見せた。
「うーん……君も彼も強情だからなあ。でも君、実はウィナの事そんなに嫌ってはいないよね?」
「……んー、いや、それ言うのはなんかちょっと」
「ふふふ。それって白状してるのと同じだよ?」
「分かってて言う……でも龍神に嫌いな人いないのは前にも言ってるよ、私」
「おや? じゃあ、クシェスは?」
「……ちょっと斬りたくはあるけど」
「ふふふ。知ってるかな、だからクシェスは、君の前だと無口なんだよ、って」
「……王、属性光のくせに、あちこちつついて遊ぶの好きだよね」
「光は光ってだけだからね。『正義だ』なんて事も言われてるけど、堂々とやればやましいことなんて無いじゃない?」
「極論、……いや、暴論」
「王道なんて人それぞれ、だよ。だからこそ禁忌破りの守護を出来ているんだから」
ね、と念押しのように頭に手が載せられ、撫でられる。言い返す言葉が見つからなくて、結局はそのまま言いくるめられてしまう。龍神は皆こうだ、色が強すぎて、強すぎるくせに下界のことには疎い上、口が上手い。存在感が強いと言えばそれまでで、ある種の圧があるとも言えれば、単なる変人の部類にも見える。頭を撫でる手はそのまま頬に触れて、そのまま首筋を撫でた。
「……伸びてきているね」
襟の布地越しの手の感触。肌そのものには何の感触も残さない『黒』をなぞる指先には、眼を斜めに外して小さく漏らした。
「顔は最後にして欲しい……」
「人間の魔法の大元はここにあるからね」
持ち上げられた指先がこめかみを軽く叩く。左手が持ち上げられて、その手の甲を同じように軽く叩かれる。
「脳の門で作られて、左手で形になる。だから一番に伸びたのは左手で、その次が頭。これは避けられないから、覚悟しておいで。何も顔中にって事にはならないから」
「それでもなあ。……ああ、そう、この前、杖は左手、とは、教えてもらった」
「うん。……そうだね、君の時間も残り少ない。最大にはなれなくても最高は尽くしてごらん、僕らはそれを許しているのだから」
「……うん」
最後にとん、と左手をもう一度叩かれて、それで膝の上に丁寧に戻してくれる。少し持ち上げて見やれば、手袋と袖の隙間からは黒い線が垣間見える。袖の据わりを直して手袋を指先まで引き締めて、そうすれば見えなくなる。さて、と声が聞こえて見上げれば、青年は興味津々という眼を廊下につながる扉に向けていた。
「誰が来るんだろう。ヴァルディアが連れてくるってなると、予想が付かないのだよね」
「普通にフェルな気がする」
「そうかなあ? フェルが保護者、って、倒立している気もするけれど」
「いや、でもこれで賢者様とか出てきたら職務上無視できない事になって厄介」
「そっちの方がありそうだね」
「……賢者の召喚魔法とかって無いよね?」
「あるよ?」
「もうやだ魔法……」
ぼす、と音を立てて背凭れに顔を伏せた。そのまま何かを呻いているらしいラシエナを見やって、小さく笑った青年が小さい子供をあやすように肩を撫で、頭を撫でる。というかあの長官まさか賢者とも面識あるのか、禁忌破って何度か天界送りになった自分ですら二回しか会った事無いのに。思っているうちに扉が開く音がして、それで眼を上げた青年の手が止まり、振り返ったラシエナが、あれ、と、声を零した。
「……クウェリス?」
「ごめんなさいねフィレンス、ちょっとお邪魔するわね」
杖を手にした彼女がにこりと笑んで言って、そして一歩踏み出す。灰色の髪が大きく揺れて、杖を突く硬い音が一際高く鳴った。
「――若王?」
「…………や、やあ、クウェリス……」
え、と声を零したのはラシエナだけで、クウェリスの後ろで扉を閉めた長官はやっとと言わんばかりの表情を浮かべながら机の方に避難していく。ラシエナはソファに座って背凭れに寄りかかったまま、何故か顔色の悪くなっていく光王と灰色の魔導師とを見比べて、そうしてから唇を引き結んだ。
この二人の間に居たらいけない気がする。
ごくごく自然に、できる限り不自然にならないように立ち上がって長官の方へと逃げていくラシエナはそのまま逃がしてやって、それからクウェリスはもう一歩進み出た。表情は笑みのまま、その顔に浮かんだ薄い刻印が歪みもしないまま、もう一度それに向かって声を向けた。
「若王、何をしていらっしゃるのです?」
「……た、単に挨拶回り、というか、顔見知りに話をしに来ただけだよ?」
「あら、わたくしは素で無視されていたと」
「だって君もう一門じゃ」
「今更その言い訳は通用致しませんわ若王。その理由も明白です。その上でもう一度お伺いいたしますが、若王」
ゆったりと、笑みの形が変わる。刻印が歪んで、薄く、瞳が開かれて、その緑が金を真正面から捉えた。
「一体此処で、何をしていらっしゃるのです?」
金が沈黙した。一体何がと疑問符を浮かべながらも何も言えないまま、何となく安全地帯らしい長官の方に距離を詰めたラシエナの視線の先で、どこか恐る恐るというふうに立ち上がった光王が、どこか強張った笑みを浮かべながら軽く両手を挙げてみせる。
「特には、何も、だよ? ほらそれに、今は僕はただの無力な旅人で」
「ただの無力な旅人が協会長官にそう簡単に会える程この国は気安くはありませんわ、若王」
「いや、だから僕は顔見知りに――」
「若王」
クウェリスの笑みは崩れない。床に突いた杖に両手を置いた立ち姿には一切の揺れもなく、そして笑みの圧だけが増していた。
「ひとつお訊き致しますが、若王。貴方様はこの二百年で一体何を学ばれたのです?」
金色が静止した。した、と見えた次の瞬間には飛びつくようにもう一人の黄金に青年が迫っていて、思わず肩を跳ね上げて長官の陰に隠れるようにした一人には眼もくれずに王が長官に詰め寄る。
「エルシャリスは酷すぎるだろうエルシャリスは!? どこも保護者なんかじゃないじゃないか!」
「これほどまでに保護者らしい保護者も居ないと思いますが。年齢も加味すれば」
返す黄金の声は冷たく冷え切っていた。抑揚もない言葉にラシエナが眼を白黒させているのにも気付かないで、レギュレはそれに更に言い募る。
「僕は灰色とは相性が悪いんだって知ってるだろう君は! せめて同じ超長命族でも樹のコド族に――」
「若王、自分の選択の悔やむのであれば静かに悔やんでくださいませ。コドは龍神との関わりを持たない主義でしょう? それすらもお忘れですか?」
ぐ、と音を立てて声に詰まるのが見えて、ヴァルディアは眼を伏せて嘆息していた。クウェリスは、変わらずに笑みのまま、緑の視線を王に向けたまま。ヴァルディアのコートの襟を弱々しく掴んだ青年が小さく呻きながら俯いていく。
「ううう……自分より長生きの人間がいるこの身が恨めしいよ僕は……!!」
「諦めてくださいませ若王。全ては時の定めた事でございましょう」
「つくづく灰色とは相性が悪いんだよ僕は……!! しかもエルシャリスに言われるとなんか悔しい!!」
「え、えっと、」
「若王、王たる威厳もどこかに落としてきたのですか?」
口調が崩れてる、とラシエナが長官越しに小さく指摘する前にばっさりと切ってしてて見せたクウェリスに、さすがにうわあと騎士が零す。それを耳に捉えてか、不意にヴァルディアが振り返った。
「戻っていて良いぞ」
「え、……え、や、なんか、大丈夫……?」
「無事に終わらせる。任務の準備は?」
「できてる、けど……」
この状態で放置して良いものか、と、そう思って見やった光王と眼が合った。次の瞬間にはっとしたようなその表情に思わず肩に力が入って、そして手が伸びてくるより先に長官の手が光王の肩を押さえていた。即座に声。
「人間に縋らない」
「ううう……」
長官の冷たい声に、ラシエナに手を伸ばそうとしていた王が項垂れて呻いていた。クウェリスが呆れたように溜息を吐き出す。逃げたほうが良いような気がして、それでもこの場を先に離れてしまうのはという逡巡の中で長官の背に逃げ込んだラシエナが、何となく手持ち無沙汰に目の前の人の片腕の袖をちいさく握る。そうしながらそういえば光王は生まれてまだ二百年の若い神だと言っていたかと記憶を浚っているうちに、クウェリスがソファの上に置き去りにされていた彼の小さい荷物を持ち上げて、もう一度金色に眼を向けた。
「若王、案内は致しますわ。そのあとは規定を済ませてとっとと、……迅速に天にお戻りを」
「今ちょっと本音出ただろうクウェリス」
「本音しか申しておりませんわ。今のはちょっとした語彙選択の失敗です」
「……ううう、何で蒼樹にエルシャリスが居るんだ……盲点すぎる、予想なんかしてない……!!」
「精霊に問いなされば判った事です、エルシャリスを友人に持つ長官を恨んでくださいませ」
「こっちに転化するな。龍神を脅せるだけの素養を持っている当人の資質は評価するが」
「何とかしてくれヴァルディア……」
「人間に頼らない」
揺れた泣き声にも長官は眼もくれずに冷たく言い放って、それで光王は再び完全に俯いてしまう。無音に陥りかけた室内に不意に硬い音が何度か連続で響いて、は、と顔を向けたラシエナと、気付いて眼を向けたヴァルディアの視線の先で返事を待たずに扉が開いて、覗き込む顔。
「長官、学院からお知」
言葉が半ばで途切れた。半身で一歩踏み込むようにしたエレッセアが、一度完全に唇を結んで、そして気まずそうに顔を背けながらそっと扉を引いていく。
「お邪魔しました……」
言いながら、ちら、と向けられた視線と鉢合わせてラシエナが眼を瞬く。疑問符が浮かんだ。
「……え、は、えっ、ちょっ、待ったレッセ! レッセ!」
――声を上げたその次の瞬間に理解が及んで、慌てて軽く握りしめていた袖の端から手を離した。駆け寄って閉めようとする把手を反対側から抑える。小さく隙間だけ残して開いたまま拮抗する扉のあちらとこちらで把手を抑える両手。至近でエレッセアの申し訳なさそうな小声。
「いやごめんほんとごめん空気読めなくてごめん」
「ちょ、待って、違うから。多分だけど推測だけどレッセが思ってる事と違うから」
小声につられて小声で返す。目元が熱いのはきっと気の所為と自分に言い聞かせる。忘れかけていた、今自分の視界に映り込む自分の外見は、『女』のそれだ。しかもちょっと立ち位置が危なかった。さすがにこれがどういう反応なのかくらいはわかる。続けるレッセの声。
「多分でも推測でもそういう空気になってるときにごめんもっと空気読む技能磨いてくるね……」
「だから違ッ、レッセそれ絶対楽しんでるでしょ!?」
「いや、楽しむっていうか、だってほら、あの、前の時から」
「え、前って何」
「え」
「え?」
拮抗が止む。小さく音を立てて隙間が幅を大きくして、そこからエレッセアが顔を覗かせた。口元に片手が添えられているのを見て、素直に顔を寄せる。
「……覚えてないとか?」
「……え、何を?」
「え、だってこの前長官の……」
「エレッセア、学院がどうした」
長官の声が割って入って、それにはエレッセアがにやりと笑う。次の瞬間にはいつもの調子に戻って、開いた扉から長官の方に顔を見せた。
「準備ができたから学院は大丈夫って連絡です。長官、やるならやるとしても鍵の存在意義を思い出してあげると良いです」
「何の話だ」
「ほら、ディナじゃなくて私で良かったなあ、っていう」
に、と笑う白服に、ヴァルディアは深く溜息を吐き出してみせる。肩を押さえられたままの光王がその会話に白服と長官とを交互に見やって、そしてヴァルディアに首を傾げてみせた。
「騎士の制限があるから無意味――」
「殴りますよ」
「え、だってそういう話じゃないのかい? というか君が物理的手段に訴えるのはどうかと思うよ、魔法でっていうよりは僕には有効かもしれないけど、でもあの子もまだ一応称号が機能して」
「クウェリス、頼む」
「ええ、頼まれたわ。若様、貴方が興味を持つのは百年早いです。今はご案内しますから大人しくついてきてください」
「知識くらいはあるけどなあ。うーん、仕方ないかぁ……」
話題を逃した、という残念そうな顔で、青年はとぼとぼと灰色の方に近付いていく。入れ替わるようにエレッセアがラシエナの背を押しながら長官の方に移動して扉の前を空けるのを、クウェリスが小さく礼をエレッセアに向けて、青年はすれ違いざまに金色の頭をもう一度撫でた。
「じゃあ、気を付けるんだよ。無理はしないようにね」
「うん」
言って、第三者が来たからだろう、大人しく連れて行かれる彼を見送る。腕に抱きつくようにしながら同じようにそれを見送った白服が、扉を閉まるのを合図に色違いを見やった。疑念を浮かべたラシエナに問いかける。
「どんな人?」
「……知り合い、……え、んっ、あれ? なんか違くない?」
ち、と笑顔の底の舌打ちが聞こえた気がして声が詰まった。疑問符が立て続けに浮かぶ中に何故か動悸がするのを抑えているうちにエレッセアは手に持っていた書類を長官に向かって差し出していて、長官もそれを受け取りながらエレッセアを見やる。
「……お前な」
「ふふふ……女子の執念。疑ってないですけどね。副学長からです、訓練実行に際しては学長の許可をってことで、一応の確認書になります」
紐綴じの封を解いて中を取り出した長官が机に向かう。それを見やりながらエレッセアは背に腕を組んだ。
「今署名いただければとんぼ返りして届けてきます」
「頼む。学院の様子は?」
「流石に鐘の日なので、静かでしたけど、訓練はいつも通りです。たぶん大丈夫かと」
「一応様子を見ておいてくれ。自分の訓練も忘れるなよ」
「了解です」
万年筆を持ち上げた長官が手早く必要箇所に署名をして、余分なインクを雑紙で吸い取ってから封筒に入れ直して突き返す。受け取ったエレッセアが、では、と言ってラシエナの腕と自分の腕を組ませて扉に向かって、色違いはそのまま引きずられるように扉を潜った。扉が閉まって廊下を歩き始める最中に背後で何かが崩れた音がして、振り返れば空中に何かの膜のようなものが浮かび、消えていく様子。そういえばと足元を見やれば、白い狼は並ぶようにしてすぐ傍についてきていた。
「……フィレンスさん、どうかした?」
「ん、いや、ベラとディナに魔法薬もらったから、精霊が見えてて。見慣れないから色々驚いてる」
「あ、いいな。私も後でもらおう。……ドレス着てるのも珍しいけど」
「うーんこれはちょっと事情は別かな……」
「事情」
「……違うからね……?」
「ふふー。フィレンスさん制服じゃないと可愛いなあ」
「可愛いって……」
「ふふーぅ。年下って感じする」
ラシエナは、素直に目を瞬かせた。足が止まる。つられて足を止めたエレッセアが少し目線の高さが違うのを見上げてきて、その疑問符には疑念で返した。
「……年下……?」
「……フィレンスさんフィレンスさん、思い出して、あなた十九」
組まれていた腕が解かれて、両肩に手が置かれる。エレッセアは、満面の笑みを浮かべていた。
「もう一つ思い出して、学院の卒業時の平均年齢が、大体二十二」
二十二。頭の中で反芻したラシエナが、自分が知り得る彼女の経歴とそれを足し合わせて、そしてえ、と声を零した。
「……年上……二十四、とか……?」
「いぇあ!」
ぐっ、と握られたのは親指の立てられた拳。きっと正解、という意味のその言葉に、根拠もなく彼女を年下と思い込んでいたラシエナは、わかりやすく硬直した。
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