雪を踏むにしては重い音が重なって響いている。
「久々だと辛いねえ、流石に」
「だよねぇ」
 くぐもった声になってしまう中で、今は地面となる雪の上で轟く音も付いているとなれば声も貼らなければ聞こえない。先頭を行くのは先導役を買って出た赤狼、そのすぐ後ろとも脇ともいえる位置には長い縹色の三つ編みが舞っていて、雪原の中では視認もほぼ不可能なほど細く鋭い糸がその手元に巻き戻されていくところだった。
「……私すっごい不思議なんだけど」
「ああ、たぶん同意できるところだと思う」
「普段見てても何作ってるのかわからないような仕掛け作ってたりするしなあの人」
 フィレンスの声にシェリンが返し、クロウィルが横から入る。切り刻まれた『異種』の欠片は瞬く間に視界の端から背後へと消えていき、離れた場所で砕ける音。
 騎士ばかりだからといって、全く人気のない、遮蔽も皆無な雪原となれば、動く動かないに限らず人が居れば襲われる。ほぼ騎士だけでもこれかと、雪の中から次々と顔を出してくる影を横目にしながら、ただ信仰に邪魔なものをフィオナが手早く裂き駆け抜け、追いかけてくるものは殿のクラリスが対応する。いちいち全てを相手になどしていられない。目的地に到着したとして、そこに結界を作り上げるまでの守備が第一の関門だ、体力を浪費などしていられない。そう思ってちらと見た先には、学院で一度見た顔。この編成の中では唯一の魔法使い。同じように厚着に加えて口と耳を覆う分厚い布と留め具、深く被った帽子の中で、わずかに隙間を開けた中から横目を向けたオルエは、騎士に劣らずに騎馬を操りながら目線で先を示してみせる。明るさも増して太陽は地平線から離れ始めている。行く先に、その薄明るい雪原の中に唐突にそびえる塔が見えて、先頭の赤狼が駆ける速度を緩めて、そしてフィオナがて綱を引くのが見えた。横に並ぶ。
「一旦休憩。補給を行って馬を休めたら、昼を目標に向かう予定です。中々に良い配分ですね」
「了解。ありがとう」
 クロウィルが返せば、彼女はさらに後列に同じ内容を伝えている様子で、馬の脚をゆっくりと緩めているうちに薄い膜を突き抜けるような感覚。監視哨の範囲内に入ったかと見て、さらにゆっくりと速度を落として並み足に揃えて向かう。殿のクラリスがフィオナと轡を並べて先に監視哨に向かってくれるのを見送って、風が凪いだと息をついて口元を覆う布を革手袋で緩める。もう呼吸の息だけで外側は凍りつきそうになっていると見て取り払ううちに、左隣には副学長が馬を寄せていた。
「さすがに、私よりは馬のほうが辛そうだ」
「……副学長、本当に魔導師?」
「元々は、私も白にと思っていたのだがな」
 ふう、と息を吐きながらのそれには素直に疑念を浮かべる。その緑紅に彼は苦笑を見せた。
「訓練中に足と、右腕を悪くしてな。幸い精霊眼があったからと魔導師課程に移ってな。なんとか食い繋いでいる」
「逆にそれでそれだけ馬乗れるのすごいよ……」
「いやいや。自分で動かないで良いのは楽だ。相方は不満だろうが」
 言いながら騎馬の首を叩いてやるのには、手綱で繋がれた彼からは嘶きで返される。先に大扉を開いたフィオナとクロウィルが声を向けてくれるのには、揃って騎上から雪の上に降りて手綱は首の下に返して引く。何もなければ甘えがすぐに見えるいつもの愛馬も、今は嘶きだけだ。労うように首をなでて叩いてやりながら監視哨に足を踏み入れた。
 都市と都市とを繋ぐ街道には、一定間隔ごとにこうして塔が建てられる。そのうちの多くは簡素な無人宿の機能を持ち、時には行商人が季節を問わずにできる限り安全に各地を回ることができるようにと整備されたものだ。当然こうした冬の季節は、行商人達はこうした場所に集まるが、だが扉を開いたその中に人気はなかった。
「……全員避難してくれている、で良いのかな?」
「ええ、そのようね」
 入ってすぐの階は、冬の間の一階だろう、馬の為の藁が敷き詰められている。最後尾のシェリンがすぐに外の大扉を閉じ中扉の閂を落として雪が舞い込むのを防いで、その最中の問いには階段の上からの返答。すぐに数段駆け降りてきたクラリスは、手にどうやら書付を持っているらしかった。
「通達は無事に届いて、行商人達はきっちり対応してくれたみたい。休ませたら上にいらっしゃいな、火を起こしてしまうから」
「君は大丈夫かな」
「気にしないで」
 言うそこに、手早く馬具を解いて手綱を柵に繋いだフィオナが駆け上がっていく。早いなぁとそれには思いながら足武器をやめない愛馬の首を叩いてやる。久々の出番だから、興奮しているのだろう。疲れているだろうにと思いながら階段の上を見上げて見送ったクロウィルが、しみじみと呟く。
「……クラリス一体いつ訓練してたんだろうな……」
「ね……私達も昨日ようやく知ったのに……」
 復帰する為の訓練が必要無いくらいだったと、名指しで呼び出された二人は見上げたそのままで言い合う。白服姿は初めて見るのに、違和感に類するものは感じない。先陣を切り開いていたのはフィオナだが、殿を守っていた彼女は左手の後方に位置していた。視線の先に湧くものはあっても、追い付いてくる『異種』が皆無だったのが不思議に思う。一人でできるものでは無いのだが。
 なまじ背後を確認するようなこともなかったから何が起こっていたのかわからないのが空恐ろしいと思っている間に目線の下からの声。
「ほれ早く馬休めて上行け」
「あ、うん。ディエリスは?」
「このまんま上行くのもな。雪だらけだし後々使う連中に迷惑だろ。だから上行け、特にフィレンス」
「はい」
 察した。言われた通りに馬具を下ろして手綱をつないで、飼い藁と水樽を寄せてやってからすぐに階段を駆け上がる。急な段を上がりきった先には二階の床と三階の吹き抜けが見えて、暖炉には火が入っていた。そこに集まって絨毯に腰を下ろしている面々の中に、一人だけ、クラリスが大きなテーブルに向かっているのを見て、フィレンスはそちらに足を向ける。
「どうかした?」
「書き置きがね。この監視哨の管理人が避難の時に、色々置いていってくれたみたいで」
 言いながら、手にした書付を差し出してくれる。そこに『多めに残しておいたから悪くなる前に使ってくれれば嬉しい』という一文と、テーブルの上に木箱と食料。目に見えるのは包みの開かれたパンと干し肉、木箱の蓋を外してみれば使い込まれた薬缶と茶器。茶葉もあると見て、フィレンスは苦笑した。
「面倒かけてるのはこっちなのに……」
「本当、ね。頂きましょうか、一応少しは持ってきてはいるけど、悪くするのは心苦しいし」
「だね。お湯沸かそうか、休憩一時間?」
「ええ。フィオナが見ていてくれるわ、あとはシェリンも。だから気抜いて大丈夫だからね」
「はーい」
 苦笑しながらに返す。こういうところは書記官のそのままだ。きっと騎士の頃からのものなのだろうなとは思いながら、水瓶の中から冷たい水を薬缶に注いだ。



 耳元がくすぐったくて肩を寄せた。声が漏れたのは自分でもわかって、それで身体を縮めて眉根を寄せる。耳元の柔らかいものがキュルと泣くのが聞こえて、それで薄く眼を開けば横倒しだった。
「……あら、起きたかしら」
 声が聞こえて顔を上向ける。途端に視界のほとんどが白く塗り潰されたのにきつく眼を眇めれば、声の主の手が動いて目元に影を作ってくれた。
「おはよう、フェル。そろそろみんな起きてくる時間だから、貴女も起きて頂戴な」
「……ん、……ディナ、さん……?」
「ええ。こんなところで寝てたら身体中痛くなるわ、ほら」
 とんとん、と二度、軽く額を叩くように撫でられる。言われてみれば美味しそうな匂いがする、と思って、それで一度眼を閉じた。頬を突く少し湿った感触にはすぐに手を伸ばして腕の中に収めて、両手でわしゃわしゃと毛並みを堪能していると、小声。
『……フェル、東の人、が、来る』
「……んー……」
 声を漏らしてから一拍。それから目の開かないまま右腕を支えにして、軋む身体を起こす。左腕の中にコウを抱いたまま眼を擦り、周りを見渡せば居るのは黒ばかりで、白は竃の周りに何人かがいるだけ。
 別行動、と眠気を振り払いながら心中に言い聞かせれば、ほぼ同時に鋼が身体を伸ばして頬を軽く舐められる。その頭をゆっくり撫でているうちに後ろから手が回ってきて、肩にマフラーを掛け、髪を整えてくれる合間に右耳に今までなかった垂れる感触。わざとらしくなく揺らしてくれたそれに小さく声を漏らして振り返れば、軽いさりさりという音を立てながらリンゴの皮を剥き始めたディナが首を貸して見返してくれて、そして苦笑。
「大丈夫、よ。でも顔はちゃんと綺麗にして来なさいな」
 それに頷いて、フェルは立ち上がる。寄せてあった椅子の片方を元の位置に引きずって、コウが肩に乗ったのを見て厨房でも一番暑い竃の方へ行けば、気づいたアートゥスが声を上げた。
「……おはよう」
「おはようございます……お湯もらって良いです……?」
「こっちの方が良いだろ、ほら」
 聞こえていたのか、ロードがアートゥスの後ろから固く絞られたタオルを差し出してくれる。受け取ったフェルが、一瞬指先をすくめながらもあったかい、と長く息を吐き出すのには、蒸しタオルを中継したアートゥスがその頭を撫で、コウの頭を撫でながら口を開く。
「身体は、大丈夫か? ずっと寝ていたみたい、だが」
「ん、……ちょっと、背中が痛い……」
「顔を拭いたら、少し動かしてくると良い。そこに置いておいてくれれば、片付けておくから」
「ありがとうです……アートゥスさんは、どうして?」
「ん。……俺は、境界外任務の総括、なんだ。事務員、だな。長官の補佐、と思ってくれて良い、と思う」
「総括……」
「全員が無事、向こうに発つまでの責任者、だな。着いたら、あとは長官が。……準備してくると良い、まだ時間はあるから」
 色んな人がいろんなことをしている、と思いながら、最後の呼びかけには素直に頷いた。熱いタオルを広げて顔を拭う。冬の朝は大概がこうだ、朝食のために湯を沸かして、同じ火でタオルを蒸しておく。さすがに冬の冷水は凍えるどころでは無いから、火が使えるのであれば温水が主で、火があるのは大概が調理場だ。
 顔を上げて目元がすっとぬけるような感覚に息を吐き出す。多少は眼が醒めて来たような、とは思いながらきちんと畳んで置いておく。それからマフラーを軽く巻いて、コウもついでに巻き込んでから扉をくぐって廊下に出る。すぐに、脳裏に声。
 ――こちらに慣れないと、なのは、解ってる、んだが……。
 ――あんまり無理しなくても良いですよ。高位精霊なら言葉も使えるものですし。
 耳に聞くと遜色無い声音、言葉の意味。明確に無声で行うのは、使い魔との間でも、個体差があって問題なくできるまでは時間がかかる。仮にできたとしても、戦闘の最中ではそうしても、それ以外には声に出しての会話を好む魔法使いが圧倒的に多く、フェルもそれに違わない方ではあった。コウの場合はこの関係になる前の時間もあったから、なおさらその気が強い。
 階段を上った先は自分の部屋に足を向ける。構造自体は単純だが、永続魔法で改造を加えているから、この棟は外見よりも中身の方が大きい。長いその廊下の途中で見たことの無い顔を三つ見つけて思わず足が止まりかけたのも、すぐに声が後押ししてくれた。
 ――俺から見ても、見目は紅だ、気にしなくて良い。
 それに胸を押さえるような安堵は覚えながら、違和感の無いようにと距離を詰める。気付いた彼ら、白服の襟に緋色があるのを見つけてほっとした。さすがに双樹の白黒も全員は覚えられていない。思うそれは隠して口を開いた。
「おはようございます。早いですね」
「、ああ、おはよう。……そちらは、黒の?」
「はい、まだ新人ですが。サーザジェイル・ラクト=エジャルエーレです、よろしくお願いします」
 軽く頭をさげるそれには、意外、というよりは驚いた、という表情で緋色達も会釈を返してくれる。それにはひとまず安心して、それから首を傾けた。
「厨房、です?」
「ああ。話には聞いて、行った方が良いかと」
「今行くと準備班かもです。階段降りて左手側の両開きの扉です、もう何人もいますから、気にせずどうぞ」
「わかった、有難うな」
 その声を境にしてすれ違う。そのまま自分の部屋の鍵を取り出して開けて、灯りの無い部屋に滑り込む。それでようやく、はあ、と大きく息が漏れた。
「……緊張する……」
『見つからないように、だな。俺も、気が付いたら、言うようにする』
「有難うございます。私も自力でなんとかできるようにならないとですね……」
『無理せず、だな。フェルあ、無理をする、から』
「……気をつけます」
 こうに言われてしまえば言い返せない。あれは本当に無茶をしたから、コウはどうやらそれを前提に思考しているらしい。白服達が保護者、と言っていたのだが、8割以上はその言葉の通りだろう。
『……何を取りに来たんだ?』
「ん、上着です。朝はとにかくあったかい格好をと思っていたので」
 黒服すら来ていなかったのだ。周りが白黒ばかりだから大丈夫だろうが。中二階に向かう階段に足をかけて登りながらマフラーを解いてコートから袖を抜く。その間にコウが手すりに飛び乗って腰を下ろしていた。フェルはそのまま本棚の陰に遮られた衣装だなを開いて、そこから黒い長いローブを取り出す。暇を見つけて様々な仕込みをしていたローブ、昨日にようやく完成させたそれを腕に抱えて、一度寝台にコートとそのローブを置いて上着を脱いでから新しい一式を身につける。
 服を仕立てるほどの針の腕は持ち合わせがない。ひとまずは協会に入る以前から身につけていたものと同じ型のものを衣装部が用意してくれていたからよかったのだが、問題は『魔導師としての活動』にはそれでは足りないということを考えきれていなかった事だ。布地が黒になる以前は白か青が主だったのもあって、全体的に見直しが必要だった。つまりは衣装部に仕立てを依頼してから様々な仕込み、特に陣の刺繍に昨日までかかったという事なのだが。
『フェルは、あまり色を使わないな』
「です、ね……ベルエンディさんなんかは、すごくたくさん使ってて壊れてないですし、すごいなぁとは思うんですけど」
『布地よりは宝石の方が強い、な。……藍が、合うと思う』
「……です?」
『うん。藍方石、だと思う、けど。……稀少だし、高価だな』
「ですねぇ……」
 宝石としてはあるかもしれないが、魔法使いが求めるものが手に入るかとなると話は別だ。自然界の宝石や功績はそのまま色の力を有するが、一般に流通する装飾品のほとんどはその色の力をそぎ落とす処理が必ず施されているものだ。でなければ一般人には影響が強すぎる。
 どうしたものかと思いながら潮位の留め金を掛けてローブを羽織り、飾り帯を整える。最後にいつも通り砂色のコートを肩に掛けて、それから机に向き直る。用意しておいた腰袋を提げて探検をいつもの位置に据えて、それで鋼を見やる。すぐに手摺から飛び降りて肩に飛び乗ってくるのを待つ時間もわずかで、すぐに階段へと足を向け、駆け抜ける。
『重装備、だな』
「さすがに任務の時間も長いですからね、いろいろ、用意があるに越した事はないですし」
『ん。……魔導師がそこまで魔導師をするのは、見るのは初めてだな』
「そうです?」
『いつも杖だけだったから、不思議に思っていた。街の魔導師は触媒ありきの方が、多いらしい、な』
 言いながら蒼い瞳は上の方を見上げる。見ているのは構成の陣だろうか。思って苦笑した。
「今度また会いに行きましょうか?」
『……いや、負けた気がするからやめておく……』
 言うそれには素直に首を傾けた。全身を振るったコウが、早く行こう、と促すのには頷いて、階段を降りて厨房へと順路を来た逆に辿っていった。




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