指定の携行品は多くない、だから忘れ物はするなよ、という先人達の助言には素直に従って頷いた。それから手早く朝食を終えた後に連れ立って談話室に向かえば、櫛箱を優雅に抱えたベルエンディがソファに寝そべり、扉の開く音には気付いて指輪で飾られた手がゆるりとひらめく。
「おー。おはよ」
「ベラさん。おはようございます、もうご飯できそうですよ?」
「すぐ行く。それより先にな、フェルこっち来い」
 のそりと起き上がった彼女に手招かれるのは疑問符が浮かぶ。後ろが詰まってしまわないようにすぐにそちらに向かえば、彼女は箱の中から何本も束ねられた髪結い紐を取り出していた。
「フィレンスに頼まれてたんだよ。お前も習ってるみたいだけど時間かかりそうだからって」
「本当に不思議。どうしてそれで刺繍はできるのか、って」
 後ろから教えるクウェリスの声。なんとなく肩を寄せて小さくなって目を泳がせているうちに、手が伸びてきて袖が引っ張られて、それで降参した。おとなしくベラの横に腰掛けて背を向ければ、軽く結んでいるだけだった組紐を解いて、櫛が通される感触。
「あー、そういやだけど、任務の携行品は転移陣のところに用意しておいたから、いくときは忘れずに持ってってくれ」
「了解。内容は?」
「医療品が主。クウェリスいんのに要るんかね?」
「あら、私は重傷者しか相手しないわよ。その上学生優先だから、黒服が来ても投げ返すつもり」
「白は?」
「恩を売るにはちょうどだと思うわ?」
 どうあがいてもエルシャリスか、とエクサが零す。ベラはフェルの髪に触れ、手早く幾つかの束に分けながら青の紐を持ち上げた。巻き込むように編み込む。
「あと、フェルには別で届け物して欲しいんだけど」
「構いませんよ。誰に何渡せばいいです?」
「フィレンスにこれ」
 方から前に出てきた手が何かを持っているのを見て、フェルは両手で受け取った。なんだろうと、頭を動かさないように目線の高さに持ち上げれば黒い布に水晶が縫い付けられた髪飾りのようだった。水晶に触れれば微細な魔法の気配。アミュレットかと気付いて眉根を寄せればすぐに後ろから声が追いかけてきた。
「構わないんだよな?」
「……構いませんけど」
「魔力の精度維持のアミュレットだよ。増強は本人が気にし始めてからな」
「……問題ないですよあの人は……」
「あるだろ。この前長官の魔力持ってたぞあいつ」
「あーなんか杖教えてもらったって言ってましたね……長官が手落ちするなんて珍しいなと思って、ほっといたんですけど」
 髪が言われていく感触に気持ちいいと思いながら言う。髪に触れられるのはあまり好きではないのだが、髪結いは何故か別だ。自分で出来ない分誰かにやってもらえるのはありがたいし、梳る感触は純粋に好きだった。ベラはその頭を軽く小突く。
「放っとくなって。久々にディナが怖かったんだから」
「ディナさんが?」
「そ。あいつ怒ると怖いんだよ、魔導師に増して理路整然と怒るから感情論とか根性論とか通用しないし」
「……フィレンスに怒ってくれませんかねディナさん……」
「だからどうしてあいつにそんなに辛く当たるんだって」
「辛く当たってないですー。むしろあの人のが私に辛く当たってます」
「いやまぁ分かるけど……ってかお前案外それ言うよな。意外に」
「言わないと黙認って受け取るんですもんあの人。そろそろ強硬手段に出ようかと……次の夏で二十なんですよあの人」
 え、と呟く声と同時に後ろの手が止まるのが分かった。何だろうと思って少し頭を動かして振り返ろうとすれば、それで我に返ったらしいベラの手が再び動き始める。頭の向きを直されて、そうしながらの声。
「……フィレンス今十九?」
「ですよ。私の三つ上ですもん」
 唸るような声が後ろから聞こえてくる。そういえばと思ったことは、だが口にする前に封じ込めた。何となく蒼樹の時白黒の女性たちに年齢は訊いてはいけない気がする。
「……うん、やっぱ怒って良いぞフェル」
「何がです?」
「フィレンスのこと。ってか、今十九ってことは禁忌破った時って幾つだ?」
「三年前なので、十六……十五のとき、ですかね。馬鹿でしょう?」
「若気の至り……」
「それで残り十年ですからね。だからって叩いたり殴ったり燃やしたりするつもりは毛頭ありませんけど」
 ベラはそうだなぁ、と呟く。元々あまり興味のある手合いではなかったのだが、二年ほど前には、当時には珍しく多少の関係を持った事もあった。だから思う所が無いと言えば嘘になるが、かと言って進んで何かを言う気にもなれないのが実際の心中だ。だから憚らずに言うこの子供の言葉に重さも覚えるのだが、それを言う代わりに編み込んだ髪を組紐と髪留めで崩れないように押さえて、余らせておいた紐の先は耳元に流れるように肩に流してやって、それから両手を軽く肩に乗せた。
「はい終わり。極力崩れないようにはしてるけど、何かあったらフィレンスとかクウェリスにやり直してもらえな」
「はい、ありがとうございますベラさん」
 ベルエンディの髪結いは凝っているから見るのも好きだが、それなのにさほど時間がかからないのもすごいと思う、と、組紐が銀の中に垂れて色を添えているのを見つけて何となく嬉しくなる。紫銀にではなく、紅銀に合わせた色遣いにしてもらえている。青を基調に翠が添えられ、渡された鏡で見てみれば髪留めは金に雲母。貴色に合わせるには色の力が強い方が良い。もう一度礼と共に鏡を返したフェルに、エクサが声を向けた。
「一応頭隠しといた方が良いぞ」
「え?」
「見た目は紅銀だとしても、魔力読める奴がいると逆に気付かれやすいかもしれない。蒼樹の学院には勘が強いのが多い、前は色使ってなかったみたいだからまだ大丈夫だったろうけど」
「あー、かもな。紫隠すのって難しいんだ。っていうか何で銀隠す方向にしなかったのお前」
「表面積が多すぎて髪色変える魔法の気配が強すぎちゃって。いっそ染めても良いかとは思うんですけど」
「馬鹿止めろ髪染めなんて冗談でも言うなよお前!?」
 脇で寛いでいたエクサが思わず上げた大声にフェルがわずかに肩を跳ね上げた。それから、あ、と呟いて慌てて言い直す。
「あ、いや、ちがくて、えっと一時染めです、呪法の方じゃなくて!」
「お、おう、……いやそれでも髪は染めるな、やめとけ」
「その方が楽なんですけど……」
「まあ染めても命色は変わらないし魔力の質が変わるわけでもねえけども。紫銀が言うかそれ、って感じはあるぞ?」
 ベルエンディに言われたそれには、両手の指を絡めて、うう、と唸る。神殿での仕事がある以上実際には染めなんてできないのだが、それでもその方が良いと思うのは事実だ。一時染めなら薬液で落としてしまえるし、と頭の中で色々と理由を並べている間に、立ち上がったベルエンディが頭を抱えたエクサを見遣った。
「エクサ、任した。腹減ったからあたしは厨房行ってくる」
「……ああ……なんか異様に色々を任されるな、今日は……」
「そうなんか? このメンツだと安心できるのお前だってのはあるかもな」
「ゼルフィアとか」
「あいつ常識人過ぎて駄目。あとあれ、あいつ今水風呂中だろ」
「……」
 あの魔導師はどうして風邪の一つもひかないのか。真冬に全身を水に浸ける必要がと聞けばこの国の大概の人間が悲鳴をあげるだろうに。朝食の途中から姿が見えないと思えば幻花に水を遣っているらしい。幻で作られている花なのに水が必要とは、ルクィアは分からない。
 思う間にベルエンディは後ろ手に手を振りながら扉を抜けていく。朝食の時間は、本来はこれからだ。そう思えば協会全体に及んで、どことなく空気が違うのはあるのかもしれない。首振りの柱時計を時計を見やる。
「……まだ七時にもなってないのか。フェル、眠ければ寝ていても良いぞ」
「ん、大丈夫です。行動開始まで一夜ありますし、その間に何とかなりますから」
「……野宿だぞ?」
「慣れてますから」
 どこで慣れたのだろう、もしかして紫旗か。思っても何となく訊くことが出来なくて、そのまま曖昧に、そうか、とだけ声にした。



「……お前はどうしてこう……」
「一日一善って言うじゃん?」
 縄で縛り上げられて転がされた何人かが荷車に積み上げられて運ばれていくのを眺めながら言えば、言った相手はからからと笑いながら言ってのける。横目を向ければ、蒼青の表情は笑っていた。
「今日ばかりは嬉しくとも何ともねえなそれ。総長の姪御が標的になってるらしいとは聞いてたから、こっちで手ェ打つつもりだったのに」
「遅いんだよ。俺一人が動いた方が早いって冗談で済まねえぞ『グラヴィエント』の次期総長」
「言われてもなあ……」
 腕組みして唸る。言われたそれはその通りなのだが、いつになく言葉の選択が乱雑だ。思いながら目を落とせば、藍色の制服を着たままだという事に今更に気がついた。まあ団長もそのつもりなんだし別に良いか、と思い直す。
「とにかく、姪御の為だって粋がってた舎弟達が軒並み消沈してんだよお前のお蔭で。どーしてくれる」
「お前の舎弟だろ、お前が何とかしろよ。っつか俺が何かしたらしたでなんか言うだろ」
「ぜってー言う」
「スフェお前本当に不良だよ……」
「お前に言われんの嫌だな……」
 セオラスが言い、聞いたスフェリウスは大きく溜息を吐き出した。朝の冷たい空気に白い息が溶けていく。
 グラヴィエント、と呼ばれる組織があり、それを名乗る集団がある。彼らの主な仕事は盗み殺しと人身売買で、組織に属さない無法者達に制裁を加えるのが、水面下の悪行を協会や国家に黙認されるための交換条件だ。その総長の一人息子である男、今となっては各都市での『儲け』を管理する立場にあるスフェリウスは、未だに楽しげに笑みを浮かべたままのセオラスを睨みつけた。
「ほんっとにお前のやる事なす事俺らの邪魔なのに利しかないの腹立つ」
「俺も色々考えてんのよ。ってか、フェル、総長の姪御って事になってんの?」
「今んとこな。『蒼樹に今年入った紅銀は総長の姪だから絶対に手出すな、出したらすり潰す』って通達しといた。総長と叔父さん縁切ってるから、叔父さんとこで育てられて魔法使いになって、エジャルエーレの後援付き、と」
「すげえ盛ってる……ように聞こえるけど紫銀に比べればまだ薄いんだよな。……グラヴィエントの『すり潰す』ってマジの方のすり潰すだから怖いわあ。人間用の臼あるんだって?」
「まぁな。潰した後は肥料な」
「ひでえ。うーん、だとしたらまぁ多少は申し訳ねぇな、総長に謝っといてくれ」
「おうよ。あ、そう、フェルと総長、面識あるからそっちからでも直に行けっぞ? いちいち俺通すの面倒だろ、普段隠形してるから探すのも面倒だろうし」
「だな。でも俺がグラヴィエントと繋がってんのバレると面倒なんだよなあそれも」
「平気平気。陛下も総長と顔見知りだしお茶友達だから」
 僅かな沈黙の間があった。どうなってんだこの国、とセオラスがつぶやくのには何を今更とスフェリウスが返す。荷車が動き出し、曲がり角を左に折れたのを見送ってから、さて、と声をあげたのは蒼青だった。
「これで解決か?」
「残党は狩っとく。死体はグラヴィエントの印入れておくから警備隊にも伝わるだろ。俺らのシマで好き勝手やられんのは問題だし、女犯して殺して回ってるのも俺らの流儀に反するからな。誤解されたくねえし」
「おう、じゃあ任した。俺そろそろ戻んねえと黒に怒られるし」
「……紫旗は隊長と副隊長が現場にはいるけど」
 人気のない、地下街の路地を見つめていた目が動く。黒服らしい服装を、それでも乱雑に着崩した風体を見やる。眼は合わないままでもスフェリウスは言った。
「頼むぞ?」
「頼まれなくとも。総長の大事な姪で、お前の『大事ないとこ』だろ?」
 そう言ったこの黒服にとってはどうなのかと、視線を外しながら思う。ただの同僚としてだけではない、そんな風に見える。だが踏み込まないのが流儀であって礼儀であって自衛であるこの間柄で、これ以上は野暮では済まないだろう。
「……あー、そっか。いとこになんのか」
 だから今更言われて気付いた、という体を取る。セオラスはようやくそれに眼を向けて、何も言わずに肩をすくめて歩き出す。朝の市場は地上の方が活気がある。地下の市場を苦もなく抜けて、協会の南棟に直接繋がる螺旋階段が隠された扉に向かえば、そこに見慣れた一人。わざとらしく声をあげて、機会を作る。
「お」
「……準備もせずに何をしてるんだ」
「準備は終わってるから遊んでた。そっちこそどうしたよ、学院の方はどうしたよ?」
「教授達が見てる。私がいくと威圧にしかならないからな。何をしてたんだ?」
「善行」
 重ねられた詰問に端的に返せば、扉に背を当てて寄り掛かった体勢のまま黄金は息を吐く。白く染まったそれが消えないうちに姿勢を立てて口を開く。
「黒服が人間相手の問題に手を出すな、出すならせめて一般人として振舞ってくれ。お前が黒剥奪となったら面倒すぎる」
「大丈夫だろ、グラヴィエントはそんな馬鹿じゃねえよ、俺はただ伝達役できるんじゃねって気付いてそういえば偶然知り合いのグラヴィエントがいるから最近不穏だなって話をしに言っただけだし」
「警備隊に根回しするこちらの気にもなってくれと言ってるんだ。……戻るぞ」
 言って扉を開く長官の背には素直に従う。そのまま階段に向かう間に、今度はこちらが息を吐き出した。
「色々勝手やって勝手に決めてるお前には言われたくねえんだけどなぁ、それ」
「何がだ」
「わかんだろ」
「さてな。……白達があちらを確保出来次第、学院から陣を繋ぐ。あちらの方が許容値が多い。作っておいてくれ」
「お前は?」
「黒の様子を見ておく。……ああ、そうだ、使い魔もそうだが、魔法も通れるようにしておいてくれ」
「もしかして戦力として見てる?」
「でなければフェルを参加させない」
「ですよねー……」
 あの竜が通れる程の陣となれば相当だ。常の任務の時でさえ、竜が無事に通れるかどうかがわからず密かに陣を拡張したりもしていたのだが。その上に完全装備の魔法使いに多少の学生もおまけにつくとなれば、一朝一夕に完成するものでもないのにというのは、この長官も理解はしているだろうに。
「……無理だったら?」
「……飛んでもらうか」
 その方が確実だろうな。思いながら、さて陣を作り直すのに何が必要でどれだけかかるかを計算する。そちらに思考を割きながら、こちらを一度も振り返ろうとしない金の背にはもう一度息を吐き出した。




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