さすがに増えて来たね、と、拠点の中に駆け込んでくる同じ臙脂たちを見てサシェルが呟いた。
「そろそろ、五時間? くらいだし、一層の班も、そこそこ疲れが出てるみたい」
「四時間四十七分経過、ね。……こう、行ったり来たりが思ってたよりきついわね、真北担当って」
「この疲労の三分の一くらいは移動の時に体力削れてんのと周辺警戒だよな……」
 拠点の雪の上には、どこから持って来たのか、相当広い範囲に絨毯が敷かれている。負傷の治療、あるいは疲労回復のため。治療班の方を見れば、何人もの魔導師が臙脂に滲んだ赤に手をかざしていた。光が絶えることはない、脱落者はここまでで三人だと聞いている。班員の編成が変わった組が二つ。自分たちは、なんとか今までの五人でやっていけている。
「……タヴィア、平気? さっき、医術師の人に……」
「なんとか。魔石も貰えたから抑えられてるし、あと十時間くらいなら魔石の効果もあるから」
 サシェルに応えて、ローブに吊り下げられた黒曜石、そのように見えるひとつを持ち上げる。黒服の一人、前から学院にも教えに来ていてくれた人、エクサ、だったろうか。一度休憩にと戻って来ていたらしい彼が黒魔石を割って分けてくれた。医術師が気付いてくれた、あの怪我の影響らしい、魔力の漏出が起こっていると。
「ただまあ、十時間しか保たないから、そうしたら編成変更あったり、四人で行ってもらうことになるかもしれん」
「うん、……一応、そういう想定だし、なんとかなるとは思うけど……」
「三人になったら他の班から誰かしら入れて、無理すんなよ」
「わかってる、大丈夫。訓練に参加してる全員分の動きとか癖とかは把握してるから」
「……シェラエそういうのすごいよな……記憶力っていうか」
「命かかってるからねぇ……」
 手を抜くなんてできない、と、膝を抱えた魔法使いは森を見やる。同じ二層に配置された他の班の話を聞くに、最高で出てくるのは『結花』の進化種らしい。積極的な攻勢を示し、出会して即座に異変に気付いて撤退して、それでも剣士の一人が深手を負った。
「……ついさっき五班戻って来てるよな、ちょっと話聞いてくる」
「あ、なら私も」
「シェラエは寝てろ。サシェルもタヴィアも。ヤール、ちょっと見ててくれ」
「了解。そっちも頼んだ」
「ああ」
 立ち上がって、濃緑の髪をまとめたのが乱れていることにようやく気付いた。髪紐を解きながら、絨毯の上に転がり込んだ四人の方に大股で距離を詰める。
「生きてっかー?」
「……あー……おつかれクライア……つーか二層なんだよあれ……」
 声をあげれば、乱れた息を押さえつけながら絨毯の上に転がった紅が言いながらこちらを見上げて来る。横に腰を下ろした。
「数多すぎるよな……原種がほとんどなのが救いだけど」
「それ言えんの九と十だけだから。俺らなんてこれでやっと実戦二回目だぞふざけんな……」
「ラディアの話は聞いたよ、何時間か掛かるって。何に遭った?」
「遭ったってか、囲まれた。結界を背にした方がいい、一層の結界。三層の方にまで行くとやべえわ、たぶん、協会の白黒に寄せられて群れてる」
「なら三層の人たちが仕事終わったらそっち寄せられてくか」
「たぶんな。……『結花』は見たろ、他には?」
「色々見た、下位は『蘭紗』、『観雷』、『塔滅』、そのあたり」
「こっちもそんなだ、たぶん情報はこれ以上は増えないな……学長が一時間ごとに広域殲滅術式で密度自体は減らしてくれてるらしい、それ合図にして戻った方がいいぞ、聞いた話、北方が密度そのものは高いらしいし」
「お、新情報。ありがとな、そうしとく」
 他の三人は既に横になって目を閉じているか、喋る気力すらない様子らしい。その様子には、そろそろ戻らないと他の班に負担が行きそうだと思えば下で手が揺らめいた。
「がんばれ」
「そっちもちゃんと休んどけよ」
「休んでねえとこの先動けねえしな、あんがと」



「フェルー?」
「はーい! なんかすごいですよ!」
「何が?」
「こっちこっち」
 開けた視界で手招くのが見える。結局、枝がめんどくさいという騎士のぼやきに応えて、樹冠の上に昇ってそこを歩いていた。雪に沈まないアミュレットの効果は、木の上に積もった雪のそれでも通用するらしい。
 思いながらフィレンスが手招かれた方に駆け寄って、それで示された方向を見れば、結界の薄い膜を隔てた向こう側で紅桃が見えた。その周囲、暗い空中に何かが浮かんで光を放つと同時に、曲線を描いて数十の光の矢が地面に向かって突き立っていく。雪煙、遅れて轟音。
「……やっぱそうなるよね」
「ですよね。下だと見にくいですし、……エーフェさーん!!」
 口の両脇に手を当ててフェルが声を上げる。気付いたらしい工学師の背が揺れて、振り返る。すぐにこちらへと樹冠の上の雪を踏んで近付いてくる。互いに結界のすぐ近くにまで寄っていく。
「どーしたのフェル。なんかあったか?」
「特に何も。そっちどうです?」
「たまーにヴァルディアの魔法が飛んでくるからやり返すか、ってクラリスと話してるとこ」
「やりかえせるんです?」
「クウェリスの結界通してってのが難関でな、ちょっと考えてるところだ。そっちどうだ? 進化種多そうだけど」
「高位をいくつか見た、ってくらいです。薬草探す暇があるくらいには安定してますよ。そちらはどうです?」
「超高位と二回出会した、けど攻撃されなかったからテティとグレイに任せて安全なところに誘導してもらってる。『宴転化』と『感霊智』だ、会話が可能だったから避難してもらってるところだな」
「……できるんだ、そんなこと」
「『宴転化』と『感霊智』は討伐対象外ですし、問題はないかと思いますよ」
「ああ、いや、そうなんだけど。あの二種って山の方じゃなかったっけ?」
「だな。最初の囲い込み作戦の時に巻き込まれちまったらしい」
「珍しく人間に敵意を持たない種ですしね。エレッセアさんとゼルフィアさんは?」
 問いかければ、エーフェは肩越しに背の方向を指し示す。表情には笑い。
「あっちはあっちで楽しそうだぞー。レッセが疲れてそうだからそろそろ一回休ませるけどな」
「クラリスさんは?」
「すっげえ元気。『書記官も体力必要なのは変わらないから』だってよ」
 あの忙殺加減では確かに、とは思う。体力が落ちていたのなら、あの逃亡癖のある長官を実力行使で捕まえるなんて芸当は到底無理だろう。そこで察するべきだった。フィレンスが眼を向けた先では、どうやら大規模な落雪があったらしい、白が一度葉の合間に浮かび上がって、そしてもう一度飛び上がって白の上に着地する。あら、という呟きが聞こえた。
「フィレンス、フェルも。どうかした?」
「特に何も問題無し。それが逆に気抜けるんだけどね」
「あら。入れ替える?」
「それは勘弁願いたいなぁ。エクサとディエリスとさっき会った、ここ一時間くらいから遭遇が減ってる。こっちはそろそろ殲滅状態にまで落とせそう」
「良かった。結界は自動解除だから、そうなったら三層に向かって頂戴な」
「そう? そっちは平気?」
「長官がちょっかい出してくるから、そんなに苦労はしてないわ。それより三層は範囲も広いし、二人しかいないから、警戒の目が必要だと思って」
 警戒、と眼を瞬いたフェルが背後を振り向く。重なる結界。『異種』が溢れないように設計されたそれは、人間は容易く通してしまう。
 眼を伏せる。考え込んだのは数秒で、それからすぐにエーフェに眼を戻した。
「禁忌指定二等級触媒は?」
「用意あるけど対価は?」
「今頃銀行すごいことになってるはずなので言い値で良いです。クラリスさん、この結界って魔法は通るようになってますよね?」
「え、ええ。そのはずよ」
「フィレンス、先に位置を保持しておいてください、真南外側の結界ぎりぎりに」
「了解。コウ、運んでもらって良い?」
『任せろ。フェル、位置は教える』
「お願いします」
 クラリスだけが疑問符を浮かべている間に青火が立ち上り、鋼が白を背に乗せて高く跳躍していた。エーフェが腰袋から丸い、紋章の走る球を取り出す。
「『フェルグス』」
 途端に風が巻いた。現れた翠、翼を持つ小さな姿が浮かび上がるそれに紅桃が眼を向けていた。
「エレッセアとゼルフィア、エクサとディエリスの四人に伝えてくれ。『数分後に大規模殲滅魔法を行使する、人間に対して攻撃性は無いが気構えしとけ』ってな」
『解った』
 言った『妖精』がふわりと浮かび上がり四羽の鳥に姿を変えて飛んでいく。時計を取り出したクラリスは首を傾げた。
「一時間ごと……だから、長官の魔法が来るまであと三分くらいだけれど」
「ちょっと面白いことやろうって企みな。フェル、この任務終わったら付き合え。お前の魔石作るぞ、最低二十個はな」
「う……わ、わかりました」
「よし。なら一等級触媒やるよ。失敗させんな、するとは思ってねえけど」
 ほら、と手が結界を突き通って差し出される。差し出した掌に落とされたのは、星の意匠をした金銀紫藍の掌大のアミュレット、その端々に吊り下げられた紗と魔石たち。
「……ありがとうございます」
「任せた、正直紫銀がそれ使ってくれんなら有難いもんだ。クラリス、戻るぞ」
「……? ええ」
 クラリスは最後までわかっていないようで、その点フィレンスは本当に魔法のことをよく知っている。思って、すぐに踵を返した。腕に巻いた帯を解く、最後の一つの魔石の割れる音。
「『Rytaac!』」
 風を呼ぶ。何処と脳裏に問い掛ければ遠くに青火が燃え上がった。そこへ、と風に呼びかければ目に見えない流れが全身をそこへと押し出してくれる。既に氷の場が広がっているのが見えて、精霊たちに魔力の欠片を渡してそこに降り立った。
「蹴散らしてはおいた」
「有難うございます。一分ほどかかります、無防備になるので周囲の抑えてください。コウも、お願いします」
「了解」
『任された。集中して、確実に、な』
「ええ」
 白と鋼が踵を返すのと同時に、フィレンスが作ってくれたのだろう、氷の足場に膝を突く。受け取った触媒を足場の中央に置いて丁寧に広げる。雪模様は蜘蛛の巣にも似ている。思いながら立ち上がって、まっすぐに左手を伸ばす。触媒の真上に掌をかざして、その手に意識を向ける。
「『――我は闇に抗う者』」
 指先に痛みが走る。自分の持つ氣は闇と氷、それに対抗するこの魔法は、あまり使いたいものではないのだが。
「『我は陽の許に抱かれし者。根源たる紫を抱く者。故に我が手に在るは土照らす光、葉潤す水、さやぐ風』」
 雪の上の触媒、金で繋がれた紗がふわりと揺れたのを見て右手を左手の上に重ねた。視界の端に青火、やはり察知して来たかとは思いながら、フェルはそのまま眼を伏せた。完全な暗闇。星も月も、今夜はその輝きも万全ではない。息を吸う。言葉とともに吐き出されるそれが白くなるのも既に見えてはいない。
「『我は黒に準ずる者、故に我は命ずる。陽の許に在るは総て集え』」
 かちり、と音が鳴った。手首に現れた金の透し彫りで飾られた腕輪が揺れる。垂れ落ちた細い鎖は足元をぐるりと這うようにして輪を描いて繋がっていた。ふわりと浮かび上がった触媒の中央に据えられた紫水晶が小さな音を立てて外れ、空気に溶けるに従って陣が広がっていく。術者を包み込むように、帯となって文字列が三重に展開される。息を、吸い込む。
「『汝に我は紫に宿る力を与う』」
 瞳を空気に晒す。それでも視界は黒く塗りつぶされたままだった。足元にゆったりと、円陣が浮かび上がり形を変えながら広がっていく感覚。冬に咲く花は少ない。象るのは聖の麾下、光の象徴である太陽を模して広がる樹海。描き、流れる風を枝葉の中に緻密に描き込んでいく。重ねた掌を上向け、掲げるようにした時には、眼には見えなくとも触媒が姿を変えた『杖』が浮かんでいるのが判った。
「『汝に我は歌声を授ける』」
 輪に連ねた鈴の鳴る音が幾重にも重なって聞こえる。幾つもの存在がゆっくりと姿を現していく。
「『汝に我は姿を与う。汝に我は春風に似る自由を、瀑布に依る剛力を、光に在る者の賛辞を贈る。故に、我は簒奪する』」
 見えない視界の中でも迷わず握れば固い感触。視界に刹那白が駆け抜けて、戻ってきた景色の中央には、自身の両手に握られた杖。細長い柄の先には金の花束、飾り立てるように絡みついた紗と宝石の帯。なのに重さは感じない。瞬いて精霊眼を開けば――周囲には既に、種々の精霊たちが片膝を突き待っているのが見えた。光、水、風、そして時。
「『いっとき私は王に成ろう。我が名と号に従え。花園を成す汝に”ラフェレア”が命ず』」
 首を垂れた彼らが一斉に立ち上がって宙を滑り何処へかと向かう。数は三十、全てが高位の精霊。高位精霊の多重召喚、そして神名の簒奪。禁忌二等級に分類される魔法。あと二十秒、と脳裏にコウの声。北を向いて杖を抱いた。一度瞑目する。
「『人の身に在り尚私は願う。故に糸を絡げ贖罪すら許されざろうとも王の麾下たる総てに命ずる』」
 まだ陣は広がり続けている。両手に杖を握って、その陣の中心、自身の足元を見据えた。降りかかる感覚、頭上のはるか高くに陣の広かる感覚。五秒、それを聞いて息を吸い込んだ。
「『残滓たりとて許さぬ、殲滅せよ”Gyutts dhy PhgRillCe”!!』」
 肺の中を全て使って叫ぶ、陣の中心に全体重を使って杖を突き立てる、同時に空が輝いた。雪の白が目に痛いほどに輝く、そうとまで見えるほどに強い光が頭上から、そして同時に結界の中にぼんやりと光を放つ花弁が舞い上がって満ちる。それを杖を支えに見上げて息をついて、そして自然と俯いて咳きこんだ。一度意識して唇を引き結ぶ。
「フェル!」
「っ、待って、フィレンス、それ、触ると危ないです」
 駆け寄ろうとする白が見えて即座に声を上げた。どこからともなく降る多量の花弁の中、足元だけでなく空中にまで広がる構築陣に触れる寸前で立ち止まったその姿にほっとする。コウがそのすぐ横に跳んで着地するのが見えて、それで息をついて陣に突き刺した杖には触れたまま、突いた膝を押して立ち上がる。
「ちょっと今、レギュレ様の名前、お借りしてるので。あなたが触ると強制的に魂抜け起こします、コウも、危ないと思うので、そのまま」
「えっ、ちょっ、何してんの!?」
「神名簒奪、って呼ばれてる魔法です、龍神の名前を借りて、高位精霊の多重召喚する魔法ですね。エーフェさんに触媒もらえてたので、そんなに負担にはなってないです」
「その割に気は息切れしてない……!?」
「一応禁忌魔法の一つなので、詠唱構築展開云々より代償がです、ね、いくつか魔石割っても足りないので、片目の魔力を。……コウ、辛いのなら、私の影に」
 花弁のひとひらが触れるたびに身を振るい避けようとする鋼に言えば、でも、と言いたげに迷う仕草。苦笑して見せれば渋々といった様子で青火を残して姿が消える。
 ――眠っておく。余裕が戻って来たらまた起こしてくれ。
「わかりました」
 脳裏の声には声に出して応えた。そうでもしないと応えられているかどうかもわからない。見れば両方の手首に揺れてふわふわと浮いているように見える腕輪は、そこから幾筋もの細い鎖を陣のあちこちに張っている。この数だけ、呼び起こした精霊がいる。命じた通りに『花園』を作ってくれていると、空に浮いたままの別人の構築陣を見上げて思う。
 聖の魔法は総じて強い、結界越しでもあの魔導師ともなれば判るだろう、そう思って先んじて準備して詠唱を始めていた。頭上に浮いているのは同じ聖の攻性魔法、陣が『異種』を発見し次第自動で攻撃をする設置型。
 長官も、時間をかけたくないのだろう。思っているうちに寄って来た異形を切り伏せる後ろ姿。その奥に、花弁に触れて上記のような白い煙を吹き出して悶える別の『異種』。
「どういう魔法?」
「今、精霊たちが総出で『花の賛歌』を歌ってくれてます。人間には聞こえないんですけど、その声が『異種』には毒で人間には薬、このひらひらしてる花びらは賛歌の付属効果です。これも人間には癒しを、『異種』には傷を、っていう」
「で、範囲どこまでにしたの」
「四と五層内だけです、五層の好意的な『異種』にはエーフェさんの『妖精』がついてるから大丈夫だと思いますし、三層までってなると殲滅できちゃった場合の学生の行動が怖すぎます」
 それでも相当な範囲だ。相当な範囲だからこそ効果も高いと踏んだ。頭上から降る真っ白な槍とそれを生み出す陣が照ってこの森だけは昼間か朝のように明るい。足元に眼を向けて、杖がしっかりと突き立っているのを確認してから、金の花束を飾る紗飾りの端を持ち上げて名目して口付けた。
「『以後は王の名と共に。”ラフェレア”は王の名を畏敬と共に返上し申し上げる』」
 瞬間、宙に浮遊しゆったりと円を描きながら光を放っていた陣が杖に吸い込まれていく。そのあとに続いて足元の陣が吸い込まれて姿を消し、それでも手首の腕輪は消えないのを見て苦笑した。杖を雪から引き抜いて、袖で丁寧に雪を拭う。様子を伺っていたままの相方にはそれで苦笑を向けた。
「もう大丈夫です」
「……本当?」
「はい。魔法としては終了したんですけど、レギュレ様が引き継いでくださってるみたいで」
 言いながら手首の腕輪と杖を見せる。周囲で『異種』たちが溶けていくのには一度眼を向けて、大丈夫そうかと色違いを見上げた。当然わかるわけないじゃないかという目に出迎えられて小さく笑う。
「だから禁忌指定なんですよ。人間が神になるのは誓約に触れませんけど、人間が神に成ったあと、その名前を元の神様に返した時、神様側で魔法としての効果を引き継いでくださる場合があって、そうなると「人と神とは触れ合うことができない」に抵触するんです」
「……するの?」
「するんですよ、魔法的には。人間が作った魔法を、神様が神の魔法として効力を維持する、っていう一種の取引になるので。もちろん神様の方が継いでくれない場合の方が多いんですけど」
「……あーもしかしてこの魔法選んだのって」
「ですです。レギュレ様の名前を一時的に借り受けました。私が紫銀なのとあなたが禁忌破りなのとで色々加算されてるんですよね、すっごい垣根低いんですよ? 私たちって」
「いや、それは知ってるけどさ」
「そのおかげで、本当は太陽神の名前を借りなきゃいけないのが光王の名前で済んでますし」
 手に握った杖の先を見上げる。金でかたどられた花は百合やネシメア、木蓮のような、全てが上向いて花を広げるもの。これらは陽の下で育つものだ。陽は太陽、太陽には紫の神があるが、未だに紫銀であっても紫神に出会ったこともその存在について耳にしたこともない。
 太陽神と月神、この二柱の神が『存在している』ことは、魔法学の常識だ。だがそれ以上のものはない。情報の欠片も存在しない。だから、聖邪の神名簒奪魔法は、その直下の光王か闇王のそれになる。今回はちょっとした画策もあったのだ、光王が下界に出ていると聞いたから、その名を預かっているのは水麗神クィオラであるだろうと。そしてレギュレとクィオラの仲が非常に良好であることと、この二柱が特別に人間に対して好意的であること。そして禁忌破りが光の王の子と呼ばれる光王の守護を受ける騎士であること、自分が紫銀であること。
 何より知らない名を借り受けることはできない。思いながら不意に異変を覚えて空を仰ぐ、薄くなってと光の膜を見て南に体を反転させれば、力を失った結界が静かに音を立てて崩れていく様が見えた。途端に風が巻いて花弁が広がっていく。ほぼ同時に遠くから声。
「フェルお前何してんだ!!」
 エクサの声と思って振り返ったフェルは、あ、と小さく声を落とした。フィレンスはわざと振り返らないという選択肢を採った。使い魔だろう、巨大な鳥の背から滑り降りて来た鳶色は、完全にわかりやすく、驚愕と同時に怒りに近いものを浮かべていた。フェルが杖を胸に抱きしめてええととどもる。
「ええっと、その、エーフェさんに触媒たかって禁忌……」
「んなの見りゃわかる!! 温存しろって言ったよな!? 右目どうした!!」
「え、あ、いや、ほとんどは魔石で――」
 ざくさくと雪を踏みしめる音を立てて大股に近付いて来た黒服の腕が霞む。素早く動いた、という理解と同時にフードの下に隠れた額を的確に叩かれる感触、そして激痛。
 ぱあん、と響いた音に少し遅れて銀が動く。声もなく背中に落ちたフードを戻す余裕もなく額を両手で押さえて蹲ったフェルを見て、そこでようやくフィレンスもちらと黒服を見やった。途端に睨め付ける視線と鉢合わせて、逃げるようにフェルの横にしゃがんで膝を抱える。逃げ道を探して横の小さい方の魔導師に訊いてみる。
「何割くらい削れるの、片目の魔力って」
「――――いちわり、くらい……っ!!」
「あ、そんな削れるんだ、やっぱり」
「やっぱりじゃねえよお前も止めろよ!?」
「いやだって魔法使いのことは魔法使いに……」
「禁忌破り」
「基は騎士……」
「いい加減諦めろその言い訳、禁忌破りっつったら魔法の基礎でも詰め込んでるかと思えばこれかてめえは」
「いっ、ちょっ、待っ」
 降りて来た手に片耳を掴まれてそのまま引っ張られる。溜息ひとつ分そうされて、それでしゃがんだまま両手を左耳に当てて押さえた。手が冷えていて冷たくて気持ちいい。痛い。
 もう一度上から溜息が降って来て、それで立ち上がる。エクサの視線は上空を見上げていた。薄い膜の一枚はすでに完全に剥がれ落ちている。三層の二人も気付いただろうと、左手で左耳を揉みながら思ううちにがさがさと音が聞こえて、それで視線を向ければ赤い狼の耳。同じ色の前髪の間から濃緑の瞳が怪訝な色を示していた。
「……なにしてんだ?」
「説教」
「いや、わからん。つーか置いてくなよエクサ、こっち移動方法徒歩しかないんだぞ徒歩」
「……悪かった。あっちの最年少が馬鹿をしていたんでな」
「……長官だって遊んで……」
 雪に膝をついたエクサが両手を拳に変えて銀を両側から挟み込む。悲鳴が聞こえるのにはそっと眼を逸らしたフィレンスと、うわあ、と呟いたディエリスに、エクサはまったく、と小さく呟いて開放してやる。
「査定は? 響かないだろうな」
「……任務達成に貢献したことになりませんか……」
 蹲ったままの銀の声は弱々しい。対して立ち上がった彼のほうが眉根を寄せていた。
「魔力減少値の事を言ってるんだが?」
「……保有度は元々高いんで大丈夫です……」
「その高い保有度の一割削った馬鹿はどいつだろうな」
 言い返せずに呻く声が聞こえる。横のフィレンスがなんとなくほの温かい感覚に陥りながらその銀を撫でてやっているうちに、雪面から樹上へと登って来たディエリスがフィレンスの反対側、フェルの横に片膝をついて姿勢を低くする。口元に手を当てて囁いた。
「こいつ無理と無茶には相当厳しいから、そういうのはこいつがいるところではやんないのが暗黙の了解だぞ」
「……先に言ってくださいよぉ……」
 小声のやりとり、応える方は涙声になっていた。聞こえているエクサは、今は何も言わないでただ息を吐き出すだけ。そうしている間に別の方向からも音が近づいてくるのが聞こえて、眼をやった先に白黒が見えて、今度こそ彼は安堵の息を吐き出した。




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