そろそろ陽が傾いでいる。その頃にお召替えを、と耳打ちされて、フェルは疑念を浮かべた。すぐに大公のお召しです、と大きめの小声のそれには頷いて返し、腕に抱えていた花束をそっと従者の腕に渡して、神官の白い衣装を翻して侍従の一人の背を追う。神殿の出口で侍従がクロークで覆った片手を差し伸べてくれるのにはそっと左手を乗せ、先導してくれるに任せてゆっくりと橋、僅かに曲線を描く廊下を瞼を下ろしたまま渡る。渡り切ったところで一度立ち止まるのを合図にして目を開けば、外はもう夕暮れの紅に染まろうとしていた。
「御客人です、クロウィル様がご本人にと」
頷くだけで分かったと応えて、それから踵を返す。夕食や寝所の用意だろう、あちこちで忙しなく動き回っている侍女や従僕たちの眼から逃れられるようにフードを深く被り直す。濃い紗が目元まで掛かって覆い隠しているから、瞳の色は変えていない。
神官の中でも、『祭祀』は特徴的だ。その最高位が紫銀であることから祭祀位を持つ神官は側近とも揶揄される。紫銀の印章である『雪割雪華』から雪を借り受けて、白い装束に白い刺繍で雪を縫い取る神官は雪の神官とも呼び名される。ようは紫銀に近い人間だからと装束がそれであるだけでも目を集めるのに、背丈がこうだから輪をかけて眼を集めてしまうのだろう。神官になるには幼い頃から神殿に身を寄せての修行が課されるが、決まった年数は無い。それでも、若年の神官、しかも祭祀となると数は自分を入れて三人しかいなかった。
同じ雪を背負う神殿騎士も別名は雪華騎士、同じく紫銀の為だけに結成された、これも側近にあたる。神殿騎士の中には渡司の神官位を兼ねる者もいる、先ほどの彼もそのようなうちの一人で、紫銀と影の事を知る侍従副長だ。神殿と『紫銀』の離宮の橋渡し役の副長ならともかく、侍従長が来たのではやはり眼を引きすぎる。
思いながら廊を心持ち早足に進んでいく。神殿から紫銀の邸宅である離宮までは遠い。素直な性格なのだろう、侍女や従僕の中には丁寧に礼を向けてくれる人もある。それには黙礼だけ仕草で返して、それを繰り返しながら距離を縮めていく。その合間に、追い縋るような声。
「祭祀様!!」
後ろから聞こえて来たそれに思わずたたらを踏んで振り返る。駆け寄ってくるのは、どうやら貴族の夫婦らしかった。見た覚えのない顔、服装と勲章からして子爵だろうかと思っている間に伸びて来た手に片手を握り締められて眼を見開いた。掴んだのは女性、初老の皺の手。
「祭祀様、どうか大公閣下に御目通りを、何卒閣下にお引き合わせください!」
「わたくしどもは東の子爵、ライエヴァンでございます。先の『異種』の波で子を失いました、どうか大公閣下に喪の一針でも頂きたいのです!!」
――神殿大公が隣国に使節を送り、国内にあっては臣民を慰撫するようにと全ての神官に命じてから、神官たちが王宮のあちこちで貴族たちに捕まっては大公へ取り次ぎをと、そう願う声が膨れ上がっているとは、祭祀長から聞いている。頭を抱えた、そう来たか、と、思ったのは事実だ。
国民、特に何の力も持たず、それでも国家の軸となる平民たちに支援をと願い出る者は極少数だ。多くは自分たちにも何か特別に気を向けてくれるのではないか、というもの。次に多いのは、これだ。喪に際して作る帯の刺繍に大公の針を望む声。
断るよう、そう神官たちには通達した。大公がそれまでに関わりのなかった者の帯に針を入れたとして、それが喪に服す事にはならないからと。帯はかの人に繋がりがあった人間たちが作るからこそ帯足り得るのであって、神官や大公がそれを作ったところで意味はないのだと、さんざん貴族たちには釘を刺して来たのに。
断ろうとしても、『渡って』きたこちら側では祭祀位は言葉を発せない。そうと知って狙って祭祀の装束を狙う者もいるらしい。とにかく握られた手を解いてくれという意図で夫人の手に重ねた手が、逆に握り込まれて引っ張られて身体が傾ぐ。夫人は縋り付くようにして膝を突き、両手を胸元まで抱き込んでしまっている。
子爵は尚も同じ事を繰り返し訴えていて、夫人は泣き始めていた。どうするべきかと思考が動いても最適解が見つからない。振り解く行為は神官の旨である慈しむ事に反する、かといって頷くことも出来ない。ここで足止めを食っているわけにはいかないのだがと周囲の様子を伺えば、通りすがりのだろう、従僕や侍女たちは無視することも出来ない、という風に立ち尽くしていた。仮にも子爵、彼らでは提言も諫言も出来ないだろうと思っている間に、不意に後ろに足音が聞こえて、振り返るより早くに、何かが空気を切る音が聞こえた。
響いたのは扇が夫人の腕を強かに叩く乾いた音で、瞠目して思わず足を引いた。夫人は驚いてかこちらの手を放して、そして足を引いたその間に割り込むように誰かの背が見えて、声が聞こえた。
「大公閣下におかれては特にの針は持たれぬこと、既に再三も通達のあったこと。尚も神官に、とにわけ声の利けぬ祭祀の役の者を引き留めかの役を害するなどいくら爵位を以ってしても不敬と心得られませ、ライエヴァン卿」
女性の声だった。思わず見上げれば、長い滑らかな銀の髪に、それを飾るように青と赤の組紐と銀細工。叩かれた腕を押さえて立ち上がった夫人は呆然とそれを見返し、子爵は、憤懣としていた。
「妻に何をする、何者か!」
「『民に施すこと』、その子爵の位にある者の第一を忘れるような輩に名乗る名の持ち合わせなど作らぬ主義です故、名乗りません。ですがわたくしの不興を買うたこと、ゆめ忘れなさらぬよう。『コウハの銀細工』の意味はようよう心に刻まれませ」
流れるように言い切って、投げつけて叩いたのだろう、床に落ちた扇を拾い上げたその人が振り返る。すぐに手が伸びてきて思わず身構えるのに構わず、その人は皺の刻まれてしまった袖に触れて、どうやら眉根を寄せたようだった。
「わたくしどもの抱える職人には、より精密に、より強くの物をと伝え置きましょう。祭祀の装束にほつれを生むなど無粋なこと」
輝くような紅の瞳だった。それを見詰めて動けないうちに、白い刺繍がほつれてしまっているのを丁寧に撫で付け、皺を伸ばすように丁寧に形を直してくれたその人と眼が合う。
途端に、総毛立った。恐ろしい訳ではない、ただひたすらに強い覇気に似たもの。存在感という言葉が近いだろうにそれだけでは力不足ななにか。思っているうちにその紅が柔んで、それで力が抜けて数歩後退りしてしまった。慌てて胸に両手を当てて身体を沈める礼を向ければ、ふ、と笑う声がした。
「民として大公閣下の意に沿う事をしたまで、礼など要りませぬ。それよりも祭祀殿が外廊になどとは珍しい、もしや閣下の離宮へ向かわれるのであらせれば、ついでにとわたくしに道を示してくださいませ。閣下に拝謁なるをお許し頂いたものの、王宮の迷路にはほとほと呆れてしまいました故」
その言葉には更に瞠目した。眼を上げれば紅銀、纏う服は右上腕の腕輪に紗飾りを押さえて、腰の短帯に絡げて長く垂れ落したもの。高襟に長衣と上衣を重ねた下は、どうやら切り込みの入った見事な絹のスカートの中に踝で絞ったズボンと爪先の尖った革の靴、そのどれもにも銀細工の装飾が施されて。
紅は、更に笑む。
「折角の葡萄が腐れてしまう前にと思ってのこと。宜しくとお願い申し上げます、『祭祀殿』」
その人を伴って邸の中に入り、私室の扉を潜った瞬間、振り返ったクロウィルが眼を見開くのが分かった。
「母さ、時間になったら外門にって……!」
「この王宮の迷路には度々挑んでいるのですが、勝てた試しがありませんでしたから。時間に外門に戻れば良しと散策していたものを、無粋にもこれな御方を足止めする輩を見て、つい扇を投げてしまっただけのこと」
「だけ、って……」
クロウィルは絶句しているようだった。控えていたレゼリスも、軽く瞠目している様子で言葉が無い。ええと、と小さく声を落として数歩中に入って、後ろに扉の閉じられる音を聞いてからその人を振り仰ごうとして、その途中に既に両手を向けられていた。
紗で顔を隠すフードが丁寧に剥ぎ取られて背に落ちる。境界の無くなった視線が真っ直ぐこちらを射抜いていると感じてフェルが身体を硬直させれば、ふ、と、やわく笑みの表情に変わった。
「やはり、思った通り。お久しゅう申し上げます、フェルリナード様」
「え……」
「昔に何度かお目に掛けました。ですがフェルリナード様の稚き頃のこと、見覚えなきことも不思議でありましょうか」
「え、と、……『グランツァ・フィメル』、様……?」
「そのように名乗っております」
見上げる頬に手が当てられる。優しく笑んでいる、それにやっと気付けて力が抜けて、ゆっくり持ち上げられた手の薬指が額に真横に線を描く感触。
不意に、脳裏に何かが浮かんだ。浮かんだそれがなんなのかわからないうちに、怜悧に戻った紅の視線が侍従長に向く。
「もう少しでも神殿騎士が祭祀の周囲に居れば足留めなど出来ますまいに、何故それをなさらぬのか、不思議でなりませぬ」
「……その、申し訳ありません。再三通達はしたのですが……」
「せめて祭祀の渡りにあっては護衛の一つもなくば貴族からの格好の的になりましょう。此度もわたくしが割入らなければこの方も子爵に連れ去られましょうに、雪華の騎士も目配りの足りないこと」
つらつらと並べ立てるそれに、軽く頭を下げたレゼリスも硬直している。クロウィルは、ソファに座ったまま頭を抱えているようだった。それらを一切意に介さず、彼女の手が動いて背を軽く押される。
「さあ、召替えて楽になされませ。語らうにはその後に」
「は、はい」
「クロウィル、荷は任せましょう。そろそろ時間です」
「母さん絶対自分で運ばせるの面倒だったからだろそれ……」
「この迷宮に挑もうという好奇心が勝ってのこと」
「迷子癖……」
「何か」
「なんでもないです」
慌ててレゼリスに目配せして早足に寝室に向かう間に二人の会話が聞こえてしまっていた。寝室の扉を潜って一息つく。閉じたレゼリスが、その扉を見やりながら呟いた。
「……物凄いお方ですね……」
「……レゼリスも会ったこと無い方です……?」
「お話ばかりは聞いておりました。お気の強い方と。ですがあそこまでとは……」
揃って扉を、その向こう側を見遣る。数秒そうして、侍従長が向くのには紫は素直に見返した。
「お召替えを。……急いだ方が良さそうです」
「はい」
時間をかけたら、その分、たぶん絶対に、この侍従長が小言を食らう。予測出来た。――そしてその通りだった。
器に盛られた葡萄を前に、二人揃って目を輝かせている様子に、フィメルは扇を広げて口元を覆った。
「……珍しいこと。このように似た他人が他に在るとは」
「影ですから。同じにならなければいけません」
「だから明かせる方には二人揃って、経験を共有するようにしています」
言葉の最後には鏡合わせの同じ動きで顔を見合わせ、そして同時に葡萄に向き直る。フィメルの視線には、クロウィルは肩をすくめてみせた。
「少し観察してればわかるようになります」
「具体的には」
「右手が早いのがフェル、全体が整いすぎてるのがレナです」
言うそれを聞いて、向き合った二人が同時に右手同士をくっ付ける。そのままの姿勢でクロウィルを見やった二人に、視線の先の彼は笑って、扇の下の表情も笑みに変わった。
「なるほど。左がフェルですね」
「……なんでわかるんです?」
「ほんと。不思議、クロウィルとレゼリスしかあたしたちの見分けつかなったのに」
水を向けられたクロウィルはまあ見慣れてるしな、と答え、レゼリスはただ苦笑した。後者、レゼリスはなんとなくテーブルとソファから距離を置いているように見える。やっぱり苦手なんだなこういう人、とクロウィルが僅かな憐憫を向けている間に当のフィメルの声がしていた。
「着眼点が違うのでしょうね。わたくしども商人は、他者の所作には聡いもの。交渉ごとには不可欠です、……賭けにも応用できましょうね」
「母さんそういうのはいいから」
「何故です?」
「賭けは素でもう強いからフェルもレナも。これ以上強くなられたらなんか、違うだろ?」
「左様ですか。では此度の賭けも、わたくしも乗らせて頂きたく思いますね」
言った途端、『紫銀』の姿勢が同時に常のそれに戻る。『グランツァ・フィメル』は扇をぱちりと音を立てて閉じ、左手を添えるようにして膝に据える。
「ディアネル商会は既に準備は終えております。エラドヴァイエンは想定通りキレナシシャスからの支援の申し入れを固辞しております。こちらは如何に」
「使節と共に多数の神官を向かわせました、彼らがこちらへ発ったという報せはありません」
「おそらく神官たちの法力には頼っている、がこちらの見解です。法力は魔法ではない、との認識でしょう」
「神官にはそのまま現場指揮を任せます。故にディアネル商会には近々多量のお願い事をしなければなりません」
「当然大公の名は出しません。グラヴィエントがエラドヴァイエンの難民群に紛れて神官に対しての申し入れを扇動する手筈になっていますが、それは商会でも把握されているかと認識しています」
「……なるほど。采配は全て商会に移譲なさると?」
「いいえ。エラドヴァイエンの国民に、です」
言い切ったのはフェルだった。継いでレナが口を開く。
「それでこそディアネル商会の勢力も伸ばせましょう。エルドグランドが支援団を編成しているとの情報もあります」
「期日は」
「十日以内は確実。早ければ三日後。ですが三日前にグラヴィエントからは『想定通り』の報告を受けています。ディアネル商会は一時的に損失を抱えたとして、エラドヴァイエンは今後十年は国土の復興に注力するか、キレナシシャスに攻め込むしか選択肢はありません。霧の国に攻め込むには汚染地帯を渡らなければなりませんから。いずれにせよディアネル商会の損失は補われ、必ず利になるとの判断です」
「賭けであることには変わりありません。ですが勝機があってこその賭けです。無謀でないことはご理解頂きたく思います」
「……なるほど理には適ったこと。ではわたくし『たち』の『独断』に神殿大公もキレナシシャス王家も、当然貴族も、何も口出しはされませんね」
「はい。根回しは終えています、陛下におかれましても今は国内で手一杯、左右の隣国を気にかける仕事は神殿大公に一任されていますから、神殿も今はそれで手一杯です。弱冠十六の大公がディアネル商会を動かした、などという噂も荒唐無稽でしょう」
「それでは、神殿はわたくしどもに何をくださる」
「誠心誠意の感謝を」
『グランツァ・フィメル』は、それにやっとにやりと笑ってみせた。ディアネルが欲しいものはただ一つ、――紫銀の後ろ盾。紫銀が抱えきれなかった範囲をディアネル商会が支えて立て直す。その筋書き通りの事実が欲しいだけ。その為にも。
「……小さな毒を持ってきております。お渡しした方が宜しいでしょうか」
「それについては手配済みですから、ご厚意だけお受けします。明日の昼頃には紫銀が倒れた、という報せが城下に流れましょう、その扇動もグラヴィエントが買ってくれました」
「なるほど。……ついでにお教えいただけるのであれば、グラヴィエントには何を差し出されましたか」
「それについては陛下直々に沙汰が下るとのことです。西は荒れます。乗じて彼らはより高い爵位を得ます、あくまでグラヴィエントは歴史の深い名家です。暗さの深く大きな、とはつきますが」
「少なくともグラヴィエントの総帥家である『オルディナ』は王に恭順を捧げた暗部の家。妥当でしょうね。……では、お約束の品としてお二人にはこれを差し上げましょう」
テーブルの上、葡萄の盛られた器が二人の前に押しやられる。差し出したそれにまた二人の目が輝くのには笑みながら、『グランツァ・フィメル』は再び口元を扇で隠しながら笑みを浮かべた。
「フィオルティアの葡萄は透き通るかのような香りと甘味で有名な果物に恵まれた国、通常この国に流通するものとは違う最高級の品です。……大公の作られ提示なされた札は満点ではありませんが、及第点です。残りの点数はわたくしが持ちましょう」
「……残りの点は、何になりますか……?」
扇が閉じられる。今度の笑みは、女性らしい穏やかで華やかなものだった。
「可愛げのないところです」
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