お薬ですよ、とテーブルの上に置かれたのは見るからにそれっぽい青磁の器だった。ローテーブルを挟んだ対岸、フェルとレナが顔を見合わせて、同時に顔を、今日二人目の客であるフィエルに向けて問いを発した。
「どういう薬です?」
「流石の双子っぷりですねぇ。遅効性の毒薬です。同時に超遅効性の治療薬も兼ねています。今夜飲んでいただければ、明日の朝議の終盤ほどからまず気分が悪くなり、血圧の低下による貧血、四肢の麻痺から昏睡に陥ります。当然毒殺未遂説も出ましょうが、陛下がこの毒殺説に各貴族たちと他国がどういった反応を返すのかを見たいと仰るので、素直に飲んでいただければと」
「回復にはどれほどかかりますか」
「麻痺は痺れる程度ですぐに抜け、一時的に回復したあと数分後に昏睡に陥ります。想定では神殿へお戻りになる最中に。昏睡は四十八時間程度持続します。主な効用は意識の低下。心労疲弊による失神を演出する為の薬ですから殺傷性はありません。ただし昏睡がそのまま死に至る危険性も完全にゼロとは言い切れませんね。閣下は様々な薬に耐性を持っておいでですから、不安はありませんが。死ぬ薬ではありませんが、死ねる薬でもあります。……して、今はどちらがどちらでしょうか」
 神官服とドレス姿の二人が並んで座っているそこにフィエルが問いかければ、神官服は隣を指し示し、ドレス姿は自分を指差した。なるほど、と笑みで頷いたフィエルが、その次にはその笑みも消し去っていた。
「クロウィルから事情は伺っています。お二人の中で共有されておりますか」
「え?」
「……いいえ」
 神官服、向かって右が左を見れば、紗も無く丁寧に編み込まれ垂らされた銀の髪を晒した彼女が静かに言う。彼女は答えた後にすぐに横を向いて、その片手を握る。
「ごめんなさい、……言えなくて」
「ではレナ殿には私からお伝え致しましょう。閣下、よろしいですか?」
 フードの下の不安そうな顔には、フェルは苦笑を見せる。フィエルに向き直って言い切った。
「お願いします。私からは、話題にしたくなくて」
「……心中お察し致します。その関係で、今回の毒は大公ご本人に飲んでいただきます」
「っ、駄目よ、死ぬ可能性だってあるんでしょう!?」
「レナ、」
 半身を浮かせてテーブルに手を突いた神官の彼女が言う。止めようとした大公を一瞥しながらも、影が療師に声を荒げた。
「何のための影よ! それに疲れがあるのだって事実だわ、どんな風に効くかわからない、フェル自身はあたしほど毒に耐性ないのよ!?」
「それも踏まえて調剤してまいりましたから、逆に影には、特にレナ殿には効かない場合もあります」
 黄紫の魔導師は淡々と言う。レナはフードの下で歯噛みしたようだった、事実だ、毒とわかっていてもいなくても、それを被ってきたのは圧倒的に影の方が多いから。
「、――なら、先に事情を聞かせて」
「レナ」
「それが『フェル』を守るためなら、口出ししないわ。でも『大公』を守るためなら今ここで『私』が飲む。それが影であるあたしの役目だから」
「レナ、私がお願いしたんです」
 袖を引いてフェルが言う。それにようやく振り返ったレナが、納得していない様子ながらもソファに腰を下ろす。それを見てから、フェルは傍に置いた本を持ち上げた。毒薬の陶器に並ぶように、それを療師に差し出す。
「……クロウィルの話は、これを見ていただければと思います。クウェリスさん……エルシャリスの力を借りたものです」
「拝見します」
 まだ見慣れない表紙の本。金の箔押し、この装丁もクウェリスが手がけたものではない。『本』の形にこの記憶を留めた時に、そのひとそれぞれに装丁が変わるのだと聞いている。持ち上げたフィエルが開いた見開きに眉根を寄せるのが見える。手早く捲っていくその最中に片手を握られて、見れば黄色の眼には不安が浮かんでいた。フェルは苦笑する。
「ごめんなさい、隠すつもりじゃ、なくて」
「やっぱり何かあったの? レスティエル様は、って言ってたけど」
「おや……弟とお会いに?」
 聞こえていたのだろう、顔を上げた療師には頷き返す。そのまま口を開いた。
「紫旗の、……私の護衛だった魔導師が作り、遺したものを見せて頂きました。エィフィエさんの姉弟子の、レティシャの」
「……弟だけでなくクウェリスとエィフィエに揃ってお会いになったとは。ご苦労なされたでしょう」
「それほどでも。……ね、コウ」
 足元の影に向かって呼びかければ、途端にそこから青い炎が立ち上って膝の上に駆け上がって来る。肩よりも膝の上に落ち着く大きさの鋼は、フィエルを見、フェルを見上げた。フェルが笑んで頭を撫でれば、蒼は療師に向き直って、驚いたようなそこに口を開いた。
『図書館の方で開発中らしい。館長とやらに聞けば、おそらく、わかる、と、思う』
「……使い魔、ではありませんね。エーフェは以前何か別なものを連れていましたが……」
「その方法を、実験を兼ねて教えていただきました。使い魔ではありません、『友達』です」
 言えば、察したのだろう、なるほどと言って彼は見開きに視線を戻す。レナの手が伸びてコウを動物にするように持ち上げて、目線の高さを合わせる。
「……使い魔じゃないし『異種』でもないし、普通の魔法生物でもないし。なのに喋れるって反則じゃない?」
『全くの別人なのに双子に見えるレナのが反則、だと、思うが』
「あ、やっぱり見える? ふふふ、そうでしょー」
『氣が似ている、から、かな。雰囲気も、仕草も似ている。見事だと思う、精霊は騙せない、が』
「それがねえ、厄介なのよね。精霊眼持ってる人に不審がられるの。フェルがあらかじめ私にくっついておいてってお願いしてくれるんだけど、それでもねぇ」
『精霊は気まぐれだから、な』
 言う間に後肢をゆらゆらと揺らす仕草に気付いて、レナがフェルの膝に鋼を下ろしてくれる、乱れた羽毛を全身を一度振るって整えて、コウはそのままドレスの膝に丸くなった。眼も閉じているのは、おそらくは自分のことは気にするな、という意思表示だろう。その頭をゆっくりと撫でているうちに、なるほど、と呟いたフィエルが本を見開きのまま、毒の陶器は横に除けてレナの目の前に差し出した。
「エルシャリスという種族のことはご存知ですか」
「……知っているのは、時の種族のエイレス、それも千年生きる場合もある種族で偏屈揃い、くらいだわ」
「概ね正解です。ですがあまり知られていない種族特性を持ちます、他人の記憶を己の記憶として取り込み、あるいはこうした本や宝珠の形で具現化する魔法を種族特性として有するのです」
 示されたのは、かすれた文字で日付の書き記された部分。レナが目を向けてくるのにはフェルは無言のまま頷いた。
「……でも、これ、時間も飛び飛びだし……」
「ええ、不審です。エルシャリスのこの能力は、他者の記憶に関してのみ「忘れてしまっていることを忘れている場合」であっても意識の根底からすくい上げ、書き記すことが可能なはず。閣下は紫旗に保護される以前の記憶をお持ちでない。それは存じ上げておりました。ですがこの部分は保護された以後の部分です。六二七三年三月、まだレナ殿はフェル様とはお会いにはなっていないはずの頃ですが、当時大きな事件があったのは覚えていらっしゃるでしょう」
 鋼を撫でる手が強張る。気敏くそれを察したレナが振り返るのには、フェルは今度は何も返さなかった。レナは不思議そうにしながら、フィエルの声には記憶を遡る。大公の影に任じられる以前の日付、七年前の三月。
「……王立研究所の消失事件? でもあれって、結局襲撃者不明のままで……」
「ええ、犯人は依然逃亡中、まだ発見されていません。ですが同時に紫旗にも多大な犠牲があった。紫銀の拉致事件が同時に発生、その奪還任務に際して当時の紫旗団長までも殉職している」
「え、」
「なのにこれにはそれに関連することの一つも書いていない」
 示された見開きの右。日付は六二七三年三月二十七日。その下にはインクが掠れて読み取れない、おそらく名前が延々と羅列されているだけ。
「異様です、魔導師が記憶を意図的に封じるか消し去るか、どちらかを施さない限りこうはなり得ません」
「……フェル、思い出せないって、そういうことだったの?」
 右手を握るレナの手に、フェルは頷いた。頷いてから、少し考えて口を開く。
「思い出せないって、言って、それでおかしいって思って。……前にもおかしいって思ってたのも忘れてた、だからクロウィルに頼んで持ってきてもらったんです。全部書いてあるはずだからって」
 声が震えないように、力を極力入れないようにして喉を使う。見やった先、白い面積の方が多い見開き。
「でも書いてなかった。思い出そうとしても思い出せなかった。レナが持ってきてくれた箱も、あれがなんなのかもわからないんです」
「そんな、……だってあの時、大事なものって、言ってたわよ? 宝物だって、宝物だから誰にもわからないところに隠しておこうって、それで、」
「レナ殿」
 割って入った声にレナが息を飲む。フィエルは開いていた本を閉じ、自分の手元に引き戻した。
「この本を作ったエルシャリス……クウェリス・カルツ=エルシャリスは、私の教え子です。紫樹の学院で世話を見ました、彼女はエルシャリスの一族からは追放されていますが、一族の誇りを捨てたわけではない。意図して記述を落とした、という可能性は低いでしょう。念の為にクロウィルが向かって事情を聞いてくれていますが……エルシャリスの能力でも手の届かない場所がある。それを探るには本人の意識が最低限のみ保たれている状態、つまり限りなく仮死に近い状態でなければなりません。ですから、この毒はご本人に飲んで頂きたい、そういうことになります」
 そんな、と声が落ちる。フィエルは本の表紙に眼を落として、それからそれをフェルの前へと差し出した。
 『アクアシェ・クロニク』。そう、本の題名は読める。だがそれが何を意味しているのかは判じ難かった。書き記されているような言葉は共通語にはない。故国の森にもこのような言葉はない、今まで見知った中で一番近い響きを持つのは古代語か、イグリスか。思いながら声は説明を続けていた。
「魂の階層、というものがあります。第一には意識。第二には無意識。第三に原風景、その人の最も安らげる場所となるもの。第四に人格の核、第五に夢の守。第六には、夢の守が封じた記憶や能力。エルシャリスは第五以降の階層には手を出せません。多重人格、というものがありますね。あれは夢の守が現実の意識や人格を守る為に表出した例が多い、その人格の統合の為に夢と意識を探る魔法があります。これは当人が昏睡下になければ無用な傷を負うことになる。安全を期したいのです、……それに、レナ殿はご存知でしょう。六二七七年九月、レナ殿も『あれ』によって深手を負っているはずです。治療したのは私です、覚えていますね」
 疑念を浮かべたのは今度はフェルの方だった。レナが肩を寄せて俯いてしまうのを見てフィエルを見れば、彼は首を振った。
「貴女にはまだ知らされるべきではない」
「……何が、あったんですか」
「相応しい時が来れば、フェル、貴女にも教えます。ですが私たちも、私もレスティエルもユゼもスィナル陛下も、未だに『あれ』がなんなのかわかりません。貴女のすぐ近くに居るということしかわからない。貴女が魔力の剥奪などの致命的な危機に陥らない限り『あれ』は現れないとしかわからないのです、だから教えないのではなく、教えられない、としか言えません。するしない以前にできません」
「……誰かが傷を負うようなことなんですね」
「それも否定できない、肯定もできません。例が数えるほどしかないからです。……とかく、まずはこの本のこと、調べられるのであれば『あれ』のこと。そのためにもとこの毒を調合しました。『あれ』を見、知っていて、魂の階層を遡る術が扱えるのは私かキレークト老師とユゼ、その三者だけです。キレークト老師は今回は不適格です、あの方はこの本を知らない。ユゼはクロウィル伝いに知っているだけ、今は隣国との兼ね合いで陛下の護衛を離れられません。故に私が行います。レナ殿、宜しいですね」
 声は落ちない。ただ秒針がいくつか進んだ時に小さく頷きがなされて、それにフィエルも頷いた。テーブルの端からガラスのグラスと水差しが療師の手によって引き寄せられて、水がグラスを満たしていく。八割まで覆ったそこに陶器の蓋を開いて、ゆっくりと五滴、灰色の滴が澱となって溶けていく。
「あまり苦痛はない薬です、ですがまず五感が鈍り、先ほどお伝えした通りの順に効果が現れます。神殿騎士と紫旗には既に効果は告げてあります。ですが陛下と宰相殿にはあえて効果は告げておりません。あのお二人には演技でなく本心からの反応を頂きたいですからね。私は今夜から図書館に寄っていますから、不審に思われない程度に迅速にお声がけください」
 言いながら目の前にグラスが差し出される。フェルは躊躇わずにそれを手にとって、ゆっくりと杯を干した。
 味はしなかった。ただ本当に水の味と匂いだけしかしなくて、やはり冷たい水は嫌いだと、そう思う。




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