知っていた毒ですから助かりました、と、手についた血を小さな盥の水で洗い落とした療師が言う。侍女姿の二人がばたばたと血のついた布を片付け、水を換え、清潔な布を持って来てとしているのを横目にレナが顔を上げる。
「どんな……」
「接触するだけで効果のある毒です、水溶性ですが乾いても粒子が肌や布地に残って作用します。元は内臓に作用するのではなく魔力回路を封止する形の薬です、多量に摂取すれば体内の氣の巡りに障って魔力回路が堰き止められ、最初には喀血として、後遺症として霊失症の発症危険度の高いものです。喀血が最初であれば多少なりとも経口摂取の機会があったのでしょう、侍従長殿、閣下のお召しになった三日分の全てのものを。袖と手袋、食事中に使われたナプキンも残っている分全て出してください、洗われていたとしても記憶を探れます」
「畏まりました」
「お願いします。……レナ殿、大丈夫です、魔力回路に及ぶ毒ですから魔法で治療が可能です、毒抜き自体はもう終えましたから」
「でも、聞いてたのと全然……」
「確かに、毒殺説が本物になってしまいましたね」
 同じ白いドレス姿の彼女は、今は低い椅子に腰掛けて投げ出された白い手を握っている。簡素な術衣に替えられた紫銀は、意識を失ってからずっと微動だにしない。処置の最中に呼吸も薄い中で無理矢理増血剤を飲ませるのに口を開かせれば逆に血を吐き出すほどで、強引にレナの魔力を移植する形でなんとか保っている。
「……紫旗は……」
《護衛に第二が、外周に第十一を置いてる。この状態で突っ込んでくる輩は居ないだろう、医療部の出入りも結界で認証掛けてる。三重に張ってるから漏れはほぼほぼ有り得ない》
 聞こえる声は珍しいもの、男性、ラルヴァール。そうと聞き取ったレナが顔を上げた。
「クロウィルとラシエナは?」
《隊長は第十持って王宮内の洗い出しに行ってる、副隊長はディアネルを動かしに行った。『グランツァ・フィメル』も商会内で色々やってくれてるそうだが諜報部があるらしい、情報集めて来るってよ》
「この部屋の扉の前に弟とヴァルディアを置いておきましたから、余程の馬鹿でない限りここまで来れません。大丈夫でしょう。……いつまでも医療部に寝かせているのも無用心です、衣服を整えて離宮にお戻ししましょう。以降の処置と、調査はそちらで行えます。紫旗方、それでよろしいでしょうか」
《構わない、そちらに合わせてこちらも動かす》
「有難い。レナ殿、絶対に手は離さないようにしてください、今はあなたの回路を移植しているも同然ですから」
「うん、……手、握ってれば大丈夫ですか、血がまだ……綺麗にしてあげないと」
「貴女はそのままで、必ずどこかを直接触れていてください。侍女のお二人、閣下の姿勢はあまり変えないように夜着を。御髪も肌も汚れてしまわれていますから、お願いします」
 療師とはいえそこには触れられない、と言外に言えばお仕着せの二人がすぐに夜着を持って簡素な寝台に寄って来る。一度退出を、と言い置いて扉の先に療師が行ってしまったのを見て、お仕着せの一人がすぐに手拭いを真新しい水に浸して絞る、その間にもう一人がレナの肩に手を乗せた。
「レナ、大丈夫? 貴女まで毒を飲んだみたい」
「……ちょっと大丈夫じゃないかも、こんなになると思ってなかったから……」
「本当、フェル様も無茶をするし。でも、貴女だったらフィエリアル様の毒も増えていただろうし、二つも毒を合わせてじゃ貴女だって本当に死んでいたかもしれないわ。フィエリアル様が昨夜からいらしたから処置も早かったし、結果は悪いけれど、貴女にもしもがあればそのあとのフェル様の方が何かありそうだもの」
 言いながら顔を丁寧に拭い、首と肩、胸元も丁寧に拭いながら言う彼女が、神殿大公付きの侍女の中では最年長の二十四、ディエミア。レナの肩を抱き、背を撫でてから汚れた術衣の紐を解いて慎重に脱がしていくのが十八のエフェメアで、この二人もレナにも大公にも何事かがあった場合の影の代行だ。だからレナとフェルが特別に近しく生活する中にも、この二人は必ずすぐ近くに居る。
「……ひどい汚れよう。死ぬような毒を盛るなんて、一体誰が考えるのかしら、まだ成年もしていない子に……」
 手と腕を拭い、全身を丁寧に拭って、それから二人掛かりでゆっくり慎重に夜着を纏わせる。銀色の髪にこびりついて固まってしまった血も丁寧に拭って磨いて、それを終えてからディエミアが目を伏せたその頬にそっと手を延べた。撫でる、労うように言葉を落とす。
「苦しいでしょうけど、頑張るのよ……エフェメア、もう大丈夫だからフィエリアル様をお呼びしまして。レナ、ずっとついていて、離れてはだめよ」
「うん、わかった」
「無理しないで、貴女も」
「頑張る、任せて。無理しないのは慣れてるから」
 大公が無理をさせてくれないからと囃して言って、それで椅子から立ち上がる。入ってきた療師が頷いて、その傍らに紫旗が姿を見せた。
「隠形して運ぶ。フィエリアル様もご同行を」
「了解いたしました、ですが先に陛下に報告を。レスティ、有難うございました、ヴァルディアも」
「状態は?」
「ここからは小康です。ヴァルディア、時間があるようなら見ていてくれますか。霊失症罹患の可能性が高い」
「わかりました」
 すぐに返答して、ヴァルディアはレスティエルに目礼を向ける。受けたレスティエルは衛兵への指揮をと言い置いてすぐに廊下へと姿を消して、ヴァルディアは傍らに現れたユールに促されて差し出されたアミュレットを受け取って姿を消す。力無く横たえられた体を抱え上げたラルヴァールと、冷えた手を握り続けているレナの肩をラカナクが軽く叩いてほぼ同時に姿を消す。見送ってから白いローブ様の術衣を脱ぎ、助手に片付けを任せて医務室から出て廊下を進み、協会魔導師としての黒いローブを羽織りながら数人の医術師たちが待機して居るのを見やってすぐに口を開いた。
「サヴェニアの根から作る霊化症治療薬の過剰投与です、認可印章を持たなければ作れない、認可を持つ医術師全てを召集なさい。ディアネル商会の取引記録は『グランツァ・フィメル』がお持ちでいらっしゃる、国内のそれ以外の調合記録を全て調べなさい。医術部長」
「は、はい」
「報告は私が陛下にお伝えします。後遺症を防ぐ為の精密な毒抜きの為の準備を整えて揃えておいてください、あとは紫旗の指示に従うよう」
 はい、と答える声を後ろにしながら廊下を進む。医療部から外廊に出れば遠巻きに集まって居る紅の制服と貴族たちが目に入る、だが眼を向ければすぐに逃げて散って行った。
 野次馬の多いことだと嘆息したまま踵を返した。内門は近付けば、脇に控えた衛兵が鍵と閂を外してすぐに開けてくれる。槍を持つ衛士、おそらく紫旗の従騎士の四人のうち一人が口を開いた。
「陛下は外座に向かわれました。シュオリス隊長が数人を更迭致しました、そちらへ向かわれますよう」
「了解しました。念のためここは私が戻るまで封じたままに」
「はい」
 すれ違いながら言い交わし、足は言われた通りに外座、内宮の中でも謁見に使われるには一番格式の低いもののその場所へと動いていく。王と拝謁する者の間に紗の幕があり、王が罪人の審議を行うにも使われる場。その門が遠くに見えたところに隣に一人が現れるのが視界の端に映り込んだ。金の髪。
「情報は?」
「概ね洗い終えました。フィエル様も有難うございます」
 声はしっかりしている。朝議の中断から五時間、王宮に居た人間は全員聴取は終えたらしい、だから彼女が来たのだろう。
「そちらは、大丈夫ですか」
 扉が近づいてくる間、小さく声を落としたのはフィエリアルだった。彼女、色違いの目の騎士は苦笑する。
「ご心配お掛けしました。思えば私一人の問題ではありませんから、今はこちらをと母を振り切って参りました。……紫旗師団第二部隊長ラシエナ・シュオリスだ、陛下に報告し申し上げる事由のある為扉を開け」
「畏まりました。指定の人物は全て陛下の御前に」
「了解した。フィエリアル様、ご同行を」
「ええ」
 言い終えると同時に重い音を立てて扉が開く。見えたのは両腕を後ろ手に槍に縛られて両膝を突いた数人とその槍を握った紫旗の数人。そこから更に距離を開いた奥に幕に覆われた段と玉座。
「陛下、ラシエナ・シュオリスが御前に。療師フィエリアル師をお連れしました」
「礼は略しなさい。報告を」
「は。オルセンドに向かう関門に不審な商団があったとの事、紫旗の一隊を確保に向かわせました。所属はエヴェランド流通会、経営は東の子爵ライエヴァン卿とその夫人。王宮内にあるライエヴァンの縁者がここにある八名です。子爵と子爵夫人は昨夜のうちに王宮を脱したとのこと、警邏隊が確保に回っております。また、ライエヴァンの傍系フィスティス男爵家アレイド卿の王都の別邸からこのようなものが」
 上衣の中から制服の手が取り出したのは硝子瓶。何、と疑念を示した一人、捕らえられた男性が声を上げたのは黙殺された。
「……フィエリアル」
「今回の毒は魔力の流れる川そのものをある程度埋めて流れる量を低減させる、それが主な効用です。無理に抑え過ぎれば氾濫します。ラシエナ殿、それをこちらに。なんでも構いません、魔法の陣だけ開いていただきたい」
「許します。シュオリス」
「は」
 短く答えた騎士が腰に佩いた二つのうちの一つの柄を握る。途端に冷たい床に光を放つ構築陣が広がって、療師の手が硝子瓶の蓋を開く。なんの躊躇いもなく陣の上で硝子瓶が傾けられて、濁った色の液体の跳ねる音と同時に、まるで爆発するかのようなばつ、と大きな音が響いて陣が歪む。形が変わる、それを見て即座に短剣が突き立てられて光は粒子と変わって霧散した。腰を屈めて短剣を拾い上げる紫旗を横目に、フィエリアルは紗の奥を見上げた。
「当然魔法の構築陣も断絶し、『異種』を生む可能性も持つものです。認可制の霊化症治療薬ですが、過剰に投与すれば霊失症を引き起こし、神殿大公閣下のように体内に保有する魔力値の高い者には致死毒となり得ます」
「馬鹿な、フィスティスは騎士の家系、その旗のライエヴァンもまた騎士の剣にのみと誓った一族! 魔法に関わる薬の知識など持ち合わせませぬ!」
「そもライエヴァン卿は今は喪が故に登城は控えております! 昨夜のうちに王宮を脱したと仰るその者がライエヴァン卿である証などございません!」
 声を上げたのは老いた男性、それに続いたのは若い男性の声。僅かに無音、沈痛なその間に衣擦れの音。
「誰が口を挟んで良いと?」
 静かに、冷たい声が落ちる。そのまま再び無音になる前に藍色が背に手を組んだ。
「魔法院には王城結界の記録を当たらせましたが、ライエヴァン卿の出入りの記録は結界には記述が無いとのこと。部下にこの硝子瓶の記憶を調査させましたが、アレイド卿の別邸に辿り着いた以前のものは消去されております。グラヴィエントは今回の件に関わりはないと主張し、また閣下を殺害せんとした者が在るという情報をもって市井を扇動しております。紫銀に害為した者を処刑せよ、と」
「候補は」
「第一にはライエヴァン卿。登城を控えていると言ってもアレイド卿へ指示すること自体は可能かと思われます。第二には、セヴェルゼフィア公爵家」
 今度は捕らえられた八人だけでなく、フィエリアルの眼もそちらに向いた。王の沈黙を許可として、色違いの騎士は続ける。
「グラヴィエントの諜報部からの情報です。セヴェルゼフィアが年初に侍医に認定医術師を迎え入れていること、その認定医術師の一族がセヴェルゼフィアの旗下の家系の出身でなく、特に西の公爵からは目の敵にされているエジャルエーレの『ラクト』出身です。認定医術師の名がサヴェリ・ラクト=エジャルエーレ、本名のレディティア=エクレティアを調査したところ、レディティア=エクレティアの夫と二人の子が昨年末にセヴェルゼフィアの牢に囚われています。罪状は不明、二時間ほど前に我が隊の七席スフェリウスを救出に向かわせました」
「……宜しい。他には?」
「エジャルエーレ侯爵カティアル卿が手の者を伴い登城をと希望なさっております」
「呼びなさい」
「は」
 答えた彼女は動かない、だが誰かが動く音。それでは、と誰かが溢した声に、今度は女王の息を吐き出す音。楽しげ、が一番近いだろうか。己の思い描いた色が綺麗に嵌め込まれた絵を堪能するかのような声。
「暫くそのままになさい。冤罪であることは判ってのことよ、『ライエヴァン子爵傍系のフィスティス男爵家の縁者八名が王命によって捕らえられた』。このお話を作らなければあとの大物が釣り難くなってしまうから」
「では」
「元々ライエヴァンに疑いは向けていないわ、向けているのであれば紫旗に命じて記憶を走査させれば済む話。『王がライエヴァンに怒りを向けている』と周囲に思わせたいからこのようにしたわ」
「閣下が毒を召されたのは想定内。そこに本当に毒を盛った者が居ただけ。一時的に拘束はしますが罰も不便も与えません」
 王の言葉に宰相が続ける、それに安堵の息を漏らしたのは一人ふたりで、さらに疑念を浮かべたのは残った多数だった。フィエリアルが苦笑してそこに目を向ける。
「閣下には昨夜に私が調合した毒を飲んで頂いておりました。ですから閣下が朝議の最中かその後に毒によって倒れることは想定内です。それだけだった場合でもライヴァエンの係累の方々には一時的に不自由を強いる形にはなっておりましたでしょうね」
「セヴェルゼフィアはかねてより陛下の懸念の一つでした。それを解消するにはと手の者を送り込んでおりましたから、セヴェルゼフィアがどのように動き、どのようにライエヴァンを利用するかも知っての上です。あの家は傲慢が過ぎる、王家をも軽んじているとなれば手打ちの頃合いも考えます」
「金を出せばなんでも解決できると思っているんだもの、あの当主。痛い目を見てもらわなきゃいけないわ、そのためにライエヴァンとフィスティスを利用させて欲しいの。ライエヴァンの系列は、代々王家によく尽くしてくれているわ。王がそれを裏切るわけにはいかない。だから今は協力者としてここに居て頂戴。先に知らせなかったのはあなた達には捕縛に対して抵抗を見せて欲しかったから。演技にならないように、ね」
「では、係累にも……」
「紫旗は向かわせているけれど、更迭という名の保護の為よ、セヴェルゼフィアが利用した人間を処分しないとも限らないもの。商団は普通に関門に引っかかって捕縛されたという間抜けた様子だけれど」
「そちらは輸送のみのものかと、切り捨て用に雇われた者でしょう。……陛下、『グランツァ・フィーヴァ』が先に戻っておりますが」
「いいわ、通して。そこの八人は念のため何も言わないでいて頂戴」
 は、と首を垂れて返したのはフィスティスの家長だろう、そのあとに目配せが八人の間にあって、そうしてから背後の扉が開く。足を踏み入れたのは正装の彼。足を止めない間に王の声。
「礼は省略して頂戴。そちらは如何」
「先に療師に確認を」
 手には革表紙の本がある。一言のそれには止める声はなく、目礼だけ幕の奥に向けてから翠が黄色を向いた。
「薬の効能は調合後一月のみ、それ以上時間が経てば効果は薄れて消える、間違いありませんか」
「ええ、一ヶ月の間も効果は段々と落ちていきます。基本的には患者を前に調合しその場で処方し飲ませる薬ですから保存は難関でしょう」
「有難うございます。該当する取引は三つ、ですがどれも全て霊化症治療のための緊急輸送記録であり、目的地に到着した直後に消費されていることを商人が確認し記録をつけています」
 言いながら本を開く。そうしながら声は立て続けに流れていく。
「白樹の街で一件、蒼樹の街で一件、王都で一件。全て個人の発注、その個人に輸送され、消費の確認がされています。ですが原材料であるサヴェニアの種、苗の取引が蒼樹の街を経由して五件、いずれも昨年七月から毎月ごとの時間を置いて行われています。ディアネルが関わった記録はそこで終わっていますが、認定物品の追跡は常に行なっておりますから、そちらの記録をお持ちしました」
「その場でいいわ、内容を」
「では端的に。五件の取引はその後あちこちの商団を経由しながら全てセヴェルゼフィアの城に到着しています」
「……そう。根拠は取れていて?」
「無論です」
 本が閉じられ、視線は紗の奥へ向く。彼ははっきりと言い切った。
「諜報部に確認を取らせましたが、セヴェルゼフィアに商談に出向いた商人の何人かが、昨年九月頃からセヴェルゼフィアの城の庭に妙な花壇があったと証言しています。当時の彼らの手記……ディアネルは見聞き知ったことを必ず忘れず記録するようにと言っていますから詳細に書付が残っていました、それを見る限りサヴェニアの花の特徴と一致します。白い五花弁が三重に広がり、萼から特殊な蜜を出し虫を誘って毒で酔わせて土に落とし、根からそれを栄養として取り込む」
「サヴェニアの花の特徴です、食虫植物ですが根が虫を捕らえてそのまま栄養分に変えてしまうのはサヴェニアだけですから。季節も合います、サヴェニアの花の季節は九月から十月、花が完全に落ちてから根を掘り返し、二ヶ月以上暗所で乾燥させます。乾燥させた根を用いての調合に時間はかかりませんが、閣下が朝議にお出でになったのは昨年の十一月中旬が最後です。早咲きの根を使っても、ぎりぎり、完成には間に合わない時期です」
「侍医に認定医術師をというのも年初のこと、元から年明け以降、春華祭に合わせて閣下のお渡りの増える時期を狙ってのことでしょう、閣下が祭祀位として祀を手ずから行なっていらっしゃることはある程度の人間には知られています。調べましたが、祭祀位の数人が同じようにサヴェニアの効用による軽度の霊失症に罹患していました。時間経過で回復する程度の為処置は不要であるとの見立てですが、念のため医療部へ要請を」
「そうね、いくら神官でも氣の巡りが阻害されればそもそも命の危険があるかもしれない。フィエリアル、頼めるかしら」
「用意させます。御前失礼を」
「ええ」
 許可を得て、フィエリアルが背後の扉を抜けて行く。入れ替わるように紺青の衣服の男性が数人を引き連れて足を踏み入れるのには、王がすぐに口を開いた。
「待っていたわ」
「申し訳ありません、連れ人をどうしてもと粘ってしまいました故」
 言って、『グランツァ・フィーヴァ』と並ぶようにして立ち止まる。目礼を交わしてから振り返ったエジャルエーレ侯カティアルが示したのは煤けたローブ姿の女性。カティアルの右手、後ろに進み出たその人がその場に跪いた。衣擦れの音、王の声が降る。
「許します。名告りなさい」
「拝謁頂き恐悦至極にございます、女王陛下。医術師の号を許されておりました、レディティア=エクレティアでございます」
「ここに連れられた理由は解っていて」
「はい。ですが理解して加担したのもわたくし事、『ラクト』を頂いたカティアル卿にもわたくしの夫にも子にも罪はありません。何卒寛大に沙汰くださるよう、不敬にも願い申し上げます」
 女性の声は弱っている。医術師のローブは白が主、白は死の色だが、その白が死を遠ざける行為を行うことそのものに意味があると言われる。その白は灰や茶に汚れ、袖から垣間見える腕は細りきって骨が浮いていた。髪はただ一つに結われているだけ、髪紐も帽子もない。その彼女が言い終えるのを待ってからカティアルが口を開いた。
「この者は他家に奪われた我が『ラクト』の子。昨年末より度々に手紙によって報せはありましたが、此度セヴェルゼフィアが不穏当と感じ、セヴェルゼフィアに招かれたというこのレディティアからの手紙を読み返し暗号を見て取った上、それを解して先程紫旗の援護を受け内々に取り戻した次第。夫子を獄に繋がれ自身も幽閉され香の洗脳に抗いながらも私にこの奸計を報せようと尽力したも事実です。罰されるべきはこの者の申し出た『ラクト』の返上を許した私か、あるいは奸計を企てたセヴェルゼフィアでありましょう」
「夫子は如何」
「……紫旗の方々が向かわれましたが、間に合うかどうかは判らず」
 カティアルの声は硬い。いっとき無音が落ちて、そして幕の奥から再び声が落ちる。
「レディティア=エクレティア」
「はい」
「仔細を語りなさい。貴女にしかわからないこともあるでしょう」
「はい。わたくしがセヴェルゼフィア公爵エレヴィアル卿に『ラクト』を返上せよと、はじめに迫られたのは昨年七月でございます。カティアル卿に恩義のあるため、『ラクト』として功を残すためと固辞したもののまず夫が理不尽にも不敬罪としてセヴェルゼフィアに更迭されました。夫の言葉は、己を守れとのことでした故、抗って蒼樹へと向かいましたが、向かう道中にセヴェルゼフィアの私兵に囚われました。……子の命を賭けられ、『ラクト』を返上し申し上げたのが昨年の十月の頃、その頃から、貰い名を返上し申し上げたとはいえ報せの無いことは不審に思われかねないと、手を届けることだけは許されました為、幾つかの手に分け、カティアル卿に現状をと思い年初までに掛けて七通をお届けしました。その以後は、医術師にあるまじく、香と薬によって従えさせられセヴェルゼフィアに属することとなり、夫子の命を盾にサヴェニアの根の薬をと命じられるのには、根が薬には使えないなどと言って時間を稼ごうと、初めにはそう考えておりましたが、先頃紫旗の方に自覚させられるまで洗脳魔法の支配下にありました。薬を調合したのはわたくしで間違いありません、セヴェルゼフィアの奸計の軸を担ったのもわたくしで間違いありません」
「……シュオリス」
「は」
「部屋を用意させなさい。湯浴みして食を摂らせ、気を養うよう。レディティア、明日の昼にまた会いましょう」
 立礼を向けた紫旗がすぐに彼女の脇に膝をつき、肩に手を置いて促す。戸惑う様子の医術師には頷いて立ち上がらせそのまま背を押して、それから扉を潜り抜ける。扉が背後で閉まったのを見て、医術師が足を止めてしまうのには、ラシエナがその顔を覗き込んだ。
「歩けますか」
「、はい、ですが……」
「まずは衣服と髪を整えなければ。すぐに用意させます、先に寝める場所に」
「ですが、閣下は」
「命に別状はありません。そして陛下が貴女を罰されることはない、罰されるのであればあの場で沙汰が下されるはずです。ですから今は陛下の仰せの通りに」
 言った瞬間に、医術師の体から力が抜けて行く。そのままその場に座り込んでしまうのに、扉の前に居た紫旗の槍持がすぐに駆け寄ってきて支えるのに、彼女は震える声を吐き出した。
「……夫と、子を、……わたしが、逃げたことは、もう、」
「向かったのは第二の部下です。陛下が閣下の母君としてそう命じられました、「あの子は加担させられた者の処罰までは望まないから」と。第二は特に手の早い隊です、セヴェルゼフィアから貴女が奪還された時点から救命に向かったのであれば命がある限り必ず取り返して来ます。ですが、心の準備だけは」
「……はい、……はい、わかっています、セヴェルゼフィアの酷薄さは、この身に受けて参りましたから」
「……貴女にはまだ訊きたいことがあります、ですが貴女が弱っていては陛下が心を痛めましょう。ですから先に身体を休めていてください」
 虚空に眼を向ければ即座に現れたラカナクが、座り込んだまま動けない様子の彼女を自身のクロークに包み込んで腕に抱え上げて姿を消す。イース、と呼びかければ了解だけが返されて、そのすぐ後に扉が開く音。
「ラシエナ」
「お疲れ、『フィーヴァ』」
 コウハの装束のそれ。揶揄してにやと笑いながら言えば、クロウィルは苦い顔をする。
「……お前毎回それ言うよな。伝達、第二は役に戻れ」
「了解。スフェリウスが戻ったらセヴェルゼフィアへの粛清が始まる、そうなれば神殿周りも騒ぐからね、十一は?」
「神殿の周囲にわかりやすく護衛指示出しておいた」
「ありがと」
「お前は、」
「それ訊いたら訊いた回数殴るからね」
「……わかったよ。着替えてくる、ディアネル商会関連はあとは『グランツァ・フィメル』が見る、俺は紫旗に戻る。陛下に許可もらったからちょっと兄ぶるけど」
「そうじゃなくても兄ぶってるでしょ。解った、先に行ってる」
「ああ」
 返した彼が廊下の先へと消えるのを見ずに踵を返す。離宮に、と、隠形して足を早めた。




__________




back   main  next


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.