仮の衣だと、肌を覆ったのは白と青、藍色の縫取りの刺繍がされた長い幅広の布で、肩から肌を隠すように薄く軽いそれを何枚も重ねて、紫の帯を腰で結んだものだった。
「うん、これで大丈夫ね。寒くない? 平気?」
「大丈夫です、その、……有難うございます、なんか、全部……」
 自分の後ろには蛇腹の衝立がある。太陽神はその向こう側で、そちらもどうやらなにかの準備をしているらしかった。月神は嬉しそうに笑う。
「そんな事ないわよ! 月神なんて言ったらほとんどの人間が怖がるから、ほんとに出番なんてないのよ、二冠でも銀の神って。でも銀で良かったわ、こうして天秤の子の世話を独り占め出来るんだもの!」
「オフィー、独り占めは駄目ですよ。エシャル様もいらっしゃるんですから」
「わかってるわよ、言葉の綾! さ、準備できたわ。靴も大丈夫? 歩きにくいとかないかしら」
「だ、大丈夫です」
 やけに甲斐甲斐しくあちこちをぺたぺたと触りながら確認するような問いにはどもりながらもなんとか答える。頬に温かい手が触れて見上げれば、銀は笑んでいた。
「まだ慣れないわよね、でも大丈夫よ。二王八龍の十色には下界でも会ったでしょう? みんなあんな感じだから、気にしないのよ」
「とは言っても、急にこちらに来たのですから戸惑うのも道理ですね。少しずつ慣れていけば宜しいですよ」
「、はい……」
 言いながらの太陽神が衝立の向こうから覗き込んで来て、笑みを浮かべると同時に腕に抱えていたものを持ち上げる。なんだろうと思っているうちに丁寧な所作でそれを肩に被せられ、促されるまま袖を通せば、肩と背中は露わになるまま、胸下で紫の帯の金具を掛けた外套のようだった。品の良い紫のそれ、むき出しだった腕に布地が触れて不思議に思う、――ふんわりとした暖かさ。空気のそれのようで、見上げれば紫の瞳が柔んだ。
「緑樹が君の為の衣を仕立てる間の仮のものだけれどね。君はどうやらすぐに冷えてしまうようだから、指先が冷たくなったり、そうなったらすぐに言うんだよ?」
「……はい……」
「靴も、大丈夫そうだね。じゃあ行こうか。たぶんきっと、みんな座卓に集まってそわそわしてると思うから」
 座卓、と聞いて首を僅かに傾げる。さあと差し出された手はぎこちなく、迷う様子も明らかにフェルが受け取って、それを柔く握った太陽神が部屋の扉へと向かう。
 天界の部屋の作りは、広く、ゆったりとしている。陽光が差し込む窓辺にはレースのカーテンや花瓶に活けられた花々、寝台はふんわりとした円形で、枕の方にだけ天蓋が垂れている。背の低い本棚に、種々の置物や装飾具。なんとなく手が持ち上がって触れた頭には、今は銀の冠のような、繊細な細工が連なったサークレットが後頭部にまで垂れていて、額には青い雫が垂れているのが分かる。
「あ、それは外さないようにね」
 気付いたのか、後ろから追いかけて来た月神が顔を覗き込むようにしながら言う。何故だろうと思っていれば、手を繋いだ方、太陽神が苦笑するのが聞こえた。
「魂抜けした人の子は、本来龍神や私たち陽と月、漆黒との接触に耐えられません。この衣と飾りは、君の魂を守る為のもの」
「刺激が強すぎるから、その刺激を服と装飾で軽減するの。天秤の子だから、他の子に較べれば随分と刺激は少ない方だとは思うんだけど、一応ね」
 そうなのか、と目を瞬いて片手を見下ろす。そういえば自分の氣は氷と闇なのに、手を繋いだ太陽神の手に痛覚は何も反応はしていない。そうこう声に出さないで考えているうちに、廊下の向こう側に何人かの人影が見えて、どうやらこちらに向かってくるようだった。思わず身構えてしまうのと、向こうから声が向けられるまで僅かに一拍。
「ロスティアーノ様!」
「はい、どうしました?」
 呼び掛けに応えながら、手を引いて背の方に隠してくれるのには大人しくされるようにして、銀の手が肩を抱えてくれるのには少しばかり安堵する。駆けてきたのは当然見覚えのない顔、彼は、ちらと見やった瞬間に瞠目して、そしてそれは即座に喜色へと変わった。腕に力が篭る、身体が逃げ出そうとしているのに気付いてか、肩を抱いてくれていた月神がすぐに目の前に立ちはだかって視線を遮った。
「はい駄目。気持ちはわかるけど駄目。初めてで慣れてないんだからそんな調子じゃ怖がらせるだけよ」
「オフェリア様、……し、失礼しました、あまりにその、嬉しくて」
 男性の声を聞きながら、月神の背中の外套を小さく握って縋り付く。――知らない人、いや、神ばかりのこの場所で、緊張を通り越して恐怖を憶えている事に遅れて気付く。幸いにして二人に隠れるようにしてこちらの姿は見えなくなっているのか、視線は感じなかった。
「それで、どうしました」
「あ、はい、星見の座からの要請です。陽の動きについて詳細を調整したいと、炎帝妃より言伝を預かってまいりました」
「わかりました、こちらの用事を終えたらすぐに向かうとお答えしてください。少しかかるかもしれません、予測だけは正確にお願いしますね」
「畏まりました、……で、では」
 言って、駆け去っていく足音。それが消えてからやっと息が吸えて、頭が熱を持っていた。頬に手が触れる感触、それに肩が跳ねて動けなくなる。
「大丈夫ですよ、皆君の事を気にしすぎているきらいはありますが、ここに君を害そうとするものはいませんから」
 はい、と、答えようとして、出来なかった。喉が固まってしまっていた。――怖い。何にそう思っているのかはわからない、それでも、何か、縋るものが無くなったような不安と恐怖が渦巻いていた。外套を握った手が揺れて、それで反射的に手放して腕も手も身体に引き付ける。顔が上げられない。
「……怖い?」
 月神の声。硬直した首をなんとか横に振ろうとして、出来なかった。ただ動こうとしたのはわかったのか、彼女の手が頬に触れて後ろ首を撫で、肩を押さえるように手が置かれる。
「誰のところが一番安心できる?」
「、…………ヒセルス様……」
 浮かんだそれを言葉にするまでに時間がかかって、囁くようにしたそれは早口になっていた。わかった、と応えた月神の手で上向かされて、ふんわりとした、柔らかい笑みが見えた。
「すぐに座卓に行きましょう。ヒセルスもそこにいるはずよ」
「っ、ごめ、なさい、わたし、……」
「いいの。魂だけになれば、人は不安定になる。人の状態では誤魔化せた部分がどうしようもなくなるから。本音、本心、本能が剥き出しの状態だから。だから安心できるところに行きましょう、ね?」
「私たちとは初対面ですから、気負いも緊張もあるでしょう? すぐに気兼ねなくとは言いません。歩けますか、座卓はすぐの場所ですから」
 そっと背に手が当てられる。軽く押し出すようなそれに脚がついていけずにつんのめって転びそうになるのもすぐに支えてくれる。失礼しますね、と言う声に少し遅れて腕に身体を抱え上げられて、頭は肩、首元に押さえられた。
「眼を閉じていなさい。すぐに着きますから」
 言われたまま、軋む音を立てそうなほどの瞼を落とす。途端に何もわからなくなった。ただ二人ぶんの靴音が聞こえるだけで、整った音の連続にわずかな安堵が生まれる。
 扉を開く音はなかった。ただざわざわとした話し声が近付いて来て、それが静かに止んでいく。誰かの腕が触れて、別の誰かに抱き締められる。どうやら膝の上に座らされているようだと思った時に、歎息するような吐息が聞こえた。
「そう、……そうさな。己は知らぬ場所も知らぬ者も恐れる気質であったな。妾が知っていた事であったに、失念しておった。済まぬの」
 聞き慣れた声だった。眼を瞑って薄暗かった視界が黒く翳る。蒼氷、ヒセルスの声。
「妾どもには慣れた場所でも、己には何もかも分かるまいな。恐ろしかろうて、此度は流石に双剣を呼ぶ訳にも行かぬ故な、妾で辛抱してくれやれ」
 いつの間にか言う人に抱き縋っていた。背を優しく撫でて叩いてくれる両手が暖かい。双剣、と聞こえて分からなかった。何か引っかかる気がして、それでも何も分からない。分からないと解った瞬間に恐怖が増した。上から、そうか、と声が聞こえる。
「……憶えて居らぬのだな、双剣も巨剣も、お前の影も。判らぬのだな、解るはずと思っても」
 頭を撫でられる。それが暖かいということは解る。理解できる。言われた言葉には聞き覚えはあっても、それをどこで聞いたのか、何を指し示すのかもわからなかった。
「教えてやることも出来ようが、さて、な……そうさな、己は魔導師だ、それはどうあっても拭えまい?」
 問いかける調子のそれに、応えなければいけないと気付いたのはしばらく経ってからだった。蒼氷の肩に顔を埋めたまま頷く。その頭を軽く撫でられた。
「であらば心配などは杞憂のうち。己が己である証は既に刻まれた、それだけで充分。さてもこうして十二に囲まれるのは怖かろう、まずは緑樹に付き従えな、己の誂えもいつまでも仮のままとはゆかぬ故な。……ウィナ」
「ああ」
すぐに応える声があって、靴の音が続く。すぐ近くで止まったそれは、次には頭に別の手の感触に続いた。びくりと身体が揺れて、恐る恐る見上げた先に緑の瞳。濃緑の髪。
「久しぶりだな、フェル。わかるか?」
「……ウィナ、さま……」
「ん。属性神の中でも俺は全体管轄でな、色々融通効くし、お前の誂えも俺の仕事だ。付いてこれるか、怖いなら抱えてやれるけど、どうする?」
 問われて、困惑した。何故自分にそこまでするのかわからない、自分はただの人間で、彼らは天にある神で、だから地の『器』に思い入れなど作らないはずなのに。  視線が何を捉えるのか怖くて、恐る恐る探るようにして見上げた氷の神は、何も言わずに頷くだけだった。それからまだ躊躇いながら腕から力を抜いて、そうすれば緑樹神の手が伸びて来て硬いままの身体を持ち上げて慎重に床におろしてくれる。妙に波立つ硬い床になんとか両足を突いて、それから差し出された手にはすぐに縋り付くように握った。
 視線を感じるのが怖い。誰が何を思ってこちらを見ているのか、それを知るのも想像するのも怖かった。召喚として顔を合わせた時には感じなかった、緊張はあったけれどむしろ安堵の方が強かった。なのにそれが、今は逆転して。
 掴んだ腕がゆっくり動く。それにつられるように足が動いて、ゆっくりとした歩調になんとかしがみついて付いていく。何処に行くのかは分からなかった。ただ知らない場所に行のだということは理解していた。
 ――『初めて行く場所』は、嫌いだ。何があるのか分からない、誰が何をするのかも分からない。ただひたすらに恐怖しかなかった。



 紫が見えたのは、女王がこの場から去って一日経った頃だった。朝の色濃い時間帯、柱時計の数字は七時を越えた頃。
「フェル」
 一番に声を上げたのはレナだった。それに弾かれるようにして椅子から立ち上がったクロウィルとラシエナがほぼ同時に寝台に身を乗り出してその顔を覗き込む。
「フェル、……戻ってこれた……?」
 頬に触れてラシエナが言う。紫はゆっくりとそれを見上げて、そして唇が震えた。
「――神殿に、」
「……え、?」
「光王に、歌を、伝え……子守唄――」
 声は掠れていてもぼやけていなかった。だがそれだけを言った紫はまた伏せられて見えなくなる。すぐに首に手を当て、口元に手をかざしたクロウィルが、眉根を寄せる。
「……まだ戻ってない、ラシエナ……?」
「……分かんない、私半端に戻ったこと無い、し、……今の……」
 言いかけて、だが迷ったのか彼女は口を噤んでしまう。レナが何度もなんども銀を撫で、頬を撫で、手を握って一昼夜、譫言のように何かを発しようとしていたのは三回。四回目、今のは、明確に何かを伝えようとしていた。
 ラシエナは、迷っているようだった。クロウィルは、せめて寒い思いをしないようにと手を握って頬を撫で続けるレナを一瞥して、それから簡素なドレス姿のラシエナの肩を引く。寝台から引き離すようなそれに彼女は抵抗せず、寝台から距離を空けたそこに向けて声を落として即座に言った。
「お前が迎えに行くことは出来ないのか?」
「……分からない、今回は急性の症状に付随しての魂抜けだから、そもそも迎えられない可能性の方が、高い、と、思う……身体に魂を閉じ込めるのが不可能だって魂自身が判断した時になるのが魂抜けだから、自然に戻るまで待たないと何が起こるか……」
「さっきのは。光王に伝えろ、って。戻って来たんじゃないのか?」
「戻ってない。……たぶん、もう一人の方。『あいつ』が今フェルの身体の中にいる、療師から聞いた、妙だって。回復が早すぎるって」
「……『あいつ』がそうしてんのか……?」
「それも分からない、ただ、……記録とか色々見返してて、変だと思った事はあるんだよね、『あいつ』、フェルに害になる事はしてない。一回目は、……研究所の時。ユーディス=ディシェンを殺す寸前まで追いやった。二回目は使い魔の時、あれもフェルを守って、その為に二人殺した。三回目は、起きる前に封じられたけど、あれだってフェルが危ない時だったでしょ。蒼樹の……」
「信じるのか」
「……私たちよりフェルについて詳しいのは『あいつ』だと思う、……そうとしか思えない。……神殿、行ってくる。今光王と話せるか分からないけど、誰かに伝わればなんとかなるんじゃないか、って」
 口を噤んだクロウィルに、ラシエナは首を振る。それから翠を見返した。
「とにかく一応は行ってみる。話せそうなら相談して、その上で、現状を知ってるのは天だから天に判断してもらうのが良い」
「大丈夫なのか、お前は?」
「あんまり行きたくはないんだけど、例外が多すぎるからね、流石に。様子は任せるよ、色々準備しないとだからこっちは時間かかるし」
「……わかった。無理するなよ」
「ん。ありがと」
 苦笑して、それからラシエナはすぐに扉へと向かって姿を消す。見送って寝台へと戻ったところでは、レナがフェルの横の掛布に潜り込んでいた。メフェメアとディエミアはお仕着せの姿のままで、やはりどちらも寝台の端に腰掛けてその様子に苦笑している。クロウィルは元のように椅子に腰掛けた。
「今日は大丈夫なのか、三人とも」
「大公が大衆の前であんなことになったんだもの、表に出て見えるようなのがおかしいわ。神殿騎士もいるわけだし、私たちが直接どこかにって状況じゃないからね」
 ディエミアが苦笑しながら言うのには、それもそうか、と思う。思うまま銀二人の方に顔を向ければ、黄色の方は、表情を見る限りどうやら機嫌が悪いらしい。
 何かあったのだろうか、と思いながらその様子を見ていれば、次に苦笑したのもやはりというか、年長のディエミアだった。
「あなたもラシエナも気を張りすぎだから」
「え?」
「緊張するのよ、近くにいると」
「……わ、悪い……」
「しかも貴方の場合ちょっとどころでなく怒ってるでしょう」
 見透かされるのはいつになっても慣れない、と、視線を泳がせる。そういえば、とメフェメアが声をあげて寝室から出て行って、扉をきちんと締めないままばたばたと何かを探して戻ってくる。手には書類の束、今度は扉をきちんと締めてから、彼女はそれをまとめてクロウィルに差し出した。
「宰相閣下から届けられた一次報告書です。セヴェルゼフィアに対する処置の草案とか」
 聴きながら受け取って、眉根を寄せた。今自分は私服だ、紫旗ではない。兄役として知っておけという言外のそれに思えて、数枚のそれにざっと目を通す。書かれている要旨はセヴェルゼフィアの爵位剥奪の旨、その根拠と証拠が羅列され、量刑と与えられる罰の詳細。最後には「西の公爵位にはエジャルエーレを据える」と明記されていた。
「……当主家直系は断首か」
「係累に関しては監禁と。保護された医術師の女性は刺青が三年、及び再び『ラクト』に戻りエジャルエーレの監視下にとのことです。東と南北の公爵様方、侯爵様方は静観していらっしゃいます。長官様方はなにごとか話し合われている様子ですが、内容までは」
「悪いようにはならないだろうな……助かる、ありがと」
「陛下からも何か気になることがあればと伺っております」
「気になることはあるんだけど、今んところ解決のしようがな……」
「動機よね」
「それな……」
 レナの声が混じってくるのには素直に同意を向けた。もぞりと動いたレナが上体を起こした。
「聞いた話だけど」
「どっから?」
「神殿にも取り巻きいるから、そのあたりから。セヴェルゼフィアは元々エラドヴァイエンと癒着してた疑惑はあるのよね」
「疑惑止まりか?」
「証拠集め中だって。そっちは?」
「こっちに書いてあるのは薬の手配とか命令書とか物的証拠だな。書状やら手紙やら処分しないで残してたのか、馬鹿か。なんで公爵になれてたんだこの馬鹿。親の七光りか?」
「語彙選択が物騒よ、『お兄様』。やっぱりかなり怒ってるじゃない?」
「……自覚はした」
 ディエミアに言われて眉根を寄せ、言い返す。そうか、怒ってるのか。思っている間に扉を軽く叩く音が聞こえて、何かと視線を上げれば神殿騎士の制服。レゼリスは目礼に続いて口を開いた。
「クロウィルさん、少し時間を」
「どうした?」
「本日午後審問を行います、陛下が同席を、と。『グランツァ・フィメル』も臨席なされます」
「実際は?」
 訊けば、レゼリスの落ち着いた表情のそれの上にやわい笑顔が浮かんだ。
「総力戦です」




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